20 / 61
二章 冬
焦茶色
しおりを挟む
無理に掴まれた腕を振り解き、初めて聞く大きな声に場が凍る。周りの音に意識が向かぬほどの静寂のようだった。
「私は、もうお母さんとは一緒に暮らしたくない! お母さんと呼ぶことも嫌だ! あの家には戻りたくない! 私はもう、傷つきたくない!」
涙を浮かべた瞳を母親に突き刺し、僕は体が痺れているようだった。母親も、動揺が隠せていないようだ。
「…………あんた、誰にそんな口を使ってるの?」
数秒驚いた末に、一変して口調が落ち着いた。どうにも違和感だ。
「そういうのなら、こっちも無理に連れていかなきゃ」
右ポケットから取り出されたナイフの先が、真っ直ぐと彩音に向けられる。その予想外なものを見て、鎖で身体が縛られてるように筋肉が硬直してしまう。
「悪いけど、あんまり抵抗できないようにさせてもらうわ」
振り下ろされる刃先がゆっくりと動いているようだった。動け、動けと自分に言い聞かせ、呪いが解けるように足は前へ出てくれた。
僕は刃物を握る腕を押し込むように彩音から遠ざけ、身体をぶつけて押し倒す。勢いよく廊下へ倒れ込こんだ母親に、隙をつくる前にうつ伏せにさせて起き上がらないように上へ乗る。
「僕の鞄にスマホが入ってる! 画面を開いて左にスライドすると電話をかけられるから警察を呼んで!」
「……う、うん」
喚き叫ぶ母親を抑えるのは、女性とはいえ大変だった。五分ほどで警察は到着し、僕らは色々と話をさせられた。親子関係、ナイフ、これまでの生活、全てだった。彩音は僕の後ろで袖を掴みながら稀に声を挟む。母親は家の中で暴れている様子だった。しかしそれも数分のうちに落ち着いたようで、外で話をしているうちに外へ連れ出された。
「どうだい? 実の親をパトカーに乗せる気持ちは?」
手錠をかけられた母親が車に乗り込む直前に、僕らへ話掛けた。何も言わない彩音は近寄り、頭を深く下げて返事をする。
「普通の子じゃなくてごめんなさい。けれど、私だってできることなら普通で生まれたかった。もう会うことはないと思うけれど、今までありがとう」
頭を押さえつけられながら車内に押し込まれる母親は、最後の抵抗のように叫んでいた。
「あんたさえいなければ! あんたじゃなく普通の子が産まれていれば!」
僕はパトカーが動き、大通りへと消えていった後も頭を上げない彩音の背中を見守るしかできなかった。あまりにも残酷な人間同士の物語に、心の行き場がわからない。彩音の横へと移動した。その足元には水が数滴落ちた跡が残る。僕は両手の居場所がわからず、ポケットの中へと隠す。
「寒いね……中へ戻ろう。掃除もしなきゃだ」
うん、とそれだけ返事をもらい、僕らは廊下につけられた足跡を拭き取った。フローリングに雑巾を滑らせ、一通りのことが済んだ後も、僕は言葉を掛けるべきなのかわからない。
「……ありがとう」
沈黙に負けそうなほどに小さな声を掛けられた。僕は顔を上げて、声主の方を向く。思い出を俯瞰しているような、そんな表情が目に映る。日もすっかり登りきり、薄いカーテンの奥から差し込む明かりが温かかった。
「私、ずっとあの人に縛られているような人生だった。多分、この先もずっとそうだった。けど、貴方がいてくれたから、何だか肩の荷を下ろしたような、そんな感覚。……ありがとう」
寂しそうな表情と、嬉しそうな表情を混ぜたような、とても落ち着いた様子だ。
「そっか。良かったよ。あの場でちゃんとお礼を言うのも、偉かったよ」
僕の言葉を聴いて、彩音はふふっと声を漏らし、微笑んだ。今日、初めて見る笑顔だった。
「何だか、貴方が親だったら良かったのになって思う」
僕はプッと吹き出し、なにそれ、と言って笑う。
「けど……親じゃなくて良かったな、とも思う」
その意味がわからなかった。安心したような面持ちの彩音に疑問を抱いたが、その先は何も聞かないこととした。荒れた午前中に、年が明けたばかりだということを今になって思い出す。
「今日はどこかへ食べにいこう」
重い腰を持ち上げ、上着を羽織る。彩音はうん、とだけ言うとすぐに身支度を始めてくれた。
僕の提案で駅前の回転寿司へと向かうこととした。彩音は回転寿司すらも初めてらしい。澄んだ空模様の下を歩く彩音は、冬の気温に反したような、暖かい顔つきだった。
「私は、もうお母さんとは一緒に暮らしたくない! お母さんと呼ぶことも嫌だ! あの家には戻りたくない! 私はもう、傷つきたくない!」
涙を浮かべた瞳を母親に突き刺し、僕は体が痺れているようだった。母親も、動揺が隠せていないようだ。
「…………あんた、誰にそんな口を使ってるの?」
数秒驚いた末に、一変して口調が落ち着いた。どうにも違和感だ。
「そういうのなら、こっちも無理に連れていかなきゃ」
右ポケットから取り出されたナイフの先が、真っ直ぐと彩音に向けられる。その予想外なものを見て、鎖で身体が縛られてるように筋肉が硬直してしまう。
「悪いけど、あんまり抵抗できないようにさせてもらうわ」
振り下ろされる刃先がゆっくりと動いているようだった。動け、動けと自分に言い聞かせ、呪いが解けるように足は前へ出てくれた。
僕は刃物を握る腕を押し込むように彩音から遠ざけ、身体をぶつけて押し倒す。勢いよく廊下へ倒れ込こんだ母親に、隙をつくる前にうつ伏せにさせて起き上がらないように上へ乗る。
「僕の鞄にスマホが入ってる! 画面を開いて左にスライドすると電話をかけられるから警察を呼んで!」
「……う、うん」
喚き叫ぶ母親を抑えるのは、女性とはいえ大変だった。五分ほどで警察は到着し、僕らは色々と話をさせられた。親子関係、ナイフ、これまでの生活、全てだった。彩音は僕の後ろで袖を掴みながら稀に声を挟む。母親は家の中で暴れている様子だった。しかしそれも数分のうちに落ち着いたようで、外で話をしているうちに外へ連れ出された。
「どうだい? 実の親をパトカーに乗せる気持ちは?」
手錠をかけられた母親が車に乗り込む直前に、僕らへ話掛けた。何も言わない彩音は近寄り、頭を深く下げて返事をする。
「普通の子じゃなくてごめんなさい。けれど、私だってできることなら普通で生まれたかった。もう会うことはないと思うけれど、今までありがとう」
頭を押さえつけられながら車内に押し込まれる母親は、最後の抵抗のように叫んでいた。
「あんたさえいなければ! あんたじゃなく普通の子が産まれていれば!」
僕はパトカーが動き、大通りへと消えていった後も頭を上げない彩音の背中を見守るしかできなかった。あまりにも残酷な人間同士の物語に、心の行き場がわからない。彩音の横へと移動した。その足元には水が数滴落ちた跡が残る。僕は両手の居場所がわからず、ポケットの中へと隠す。
「寒いね……中へ戻ろう。掃除もしなきゃだ」
うん、とそれだけ返事をもらい、僕らは廊下につけられた足跡を拭き取った。フローリングに雑巾を滑らせ、一通りのことが済んだ後も、僕は言葉を掛けるべきなのかわからない。
「……ありがとう」
沈黙に負けそうなほどに小さな声を掛けられた。僕は顔を上げて、声主の方を向く。思い出を俯瞰しているような、そんな表情が目に映る。日もすっかり登りきり、薄いカーテンの奥から差し込む明かりが温かかった。
「私、ずっとあの人に縛られているような人生だった。多分、この先もずっとそうだった。けど、貴方がいてくれたから、何だか肩の荷を下ろしたような、そんな感覚。……ありがとう」
寂しそうな表情と、嬉しそうな表情を混ぜたような、とても落ち着いた様子だ。
「そっか。良かったよ。あの場でちゃんとお礼を言うのも、偉かったよ」
僕の言葉を聴いて、彩音はふふっと声を漏らし、微笑んだ。今日、初めて見る笑顔だった。
「何だか、貴方が親だったら良かったのになって思う」
僕はプッと吹き出し、なにそれ、と言って笑う。
「けど……親じゃなくて良かったな、とも思う」
その意味がわからなかった。安心したような面持ちの彩音に疑問を抱いたが、その先は何も聞かないこととした。荒れた午前中に、年が明けたばかりだということを今になって思い出す。
「今日はどこかへ食べにいこう」
重い腰を持ち上げ、上着を羽織る。彩音はうん、とだけ言うとすぐに身支度を始めてくれた。
僕の提案で駅前の回転寿司へと向かうこととした。彩音は回転寿司すらも初めてらしい。澄んだ空模様の下を歩く彩音は、冬の気温に反したような、暖かい顔つきだった。
0
あなたにおすすめの小説
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
【完結】婚約者なんて眼中にありません
らんか
恋愛
あー、気が抜ける。
婚約者とのお茶会なのにときめかない……
私は若いお子様には興味ないんだってば。
やだ、あの騎士団長様、素敵! 確か、お子さんはもう成人してるし、奥様が亡くなってからずっと、独り身だったような?
大人の哀愁が滲み出ているわぁ。
それに強くて守ってもらえそう。
男はやっぱり包容力よね!
私も守ってもらいたいわぁ!
これは、そんな事を考えているおじ様好きの婚約者と、その婚約者を何とか振り向かせたい王子が奮闘する物語……
短めのお話です。
サクッと、読み終えてしまえます。
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで
ChaCha
恋愛
乙女ゲームの世界に転生したことに気づいたアイナ・ネルケ。
だが彼女はヒロインではない――ただの“モブ令嬢”。
「私は観る側。恋はヒロインのもの」
そう決めて、治癒魔術科で必死に学び、気合いと根性で仲間を癒し続けていた。
筋肉とビンタと回復の日々。
それなのに――
「大丈夫だ。俺が必ず君を守る」
野外訓練で命を救った騎士、エルンスト・トゥルぺ。
彼の瞳と声が、治癒と共に魂に触れた瞬間から、世界が静かに変わり始める。
幼馴染ヴィルの揺れる視線。
家族の温かな歓迎。
辺境伯領と学園という“日常の戦場”。
「……好き」
「これは恋だ。もう、モブではいたくない」
守られるだけの存在ではなく、選ばれる覚悟を決めたモブ令嬢と、
現実しか知らない騎士の、静かで激しい溺愛の始まり。
これは――
モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまでの物語。
※溺愛表現は後半からです。のんびり更新します。
※作者の好みにより筋肉と気合い…ヤンデレ落ち掛けが踊りながらやって来ます。
※これは恋愛ファンタジーです。ヒロインと違ってモブは本当に大変なんです。みんなアイナを応援してあげて下さい!!
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる