十五光年先の、

西乃狐

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 ストーカーの終わりは振られた時と同様、唐突にやって来た。

 冬が本格化する少し前のことだ。自転車には厳しい季節になりつつあった。
 耳当てが欲しいなぁなどと思いつつ、いつものように自転車で尋深を追走していると、彼女がいつもとは違う道へと進んだ。内心で首を傾げながらも後を追い、通ったことのない道を進み、曲がったことのない角を曲がったら、そこに彼女が立っていた。自転車を降りて待っていたのだ。

 知らぬ顔をして通り過ぎようかとも思ったが、それには道幅が狭かったし、あまりに白々し過ぎた。押し退けるわけにもいかないし、Uターンするのも間抜けだ。やむなく自分も自転車を降りて、彼女の前に立った。

——おはよ。

 先に口を開いたのは彼女だ。にこりともせず、かといって怒っている風でもなかった。
 よく晴れた朝だった。言葉は白い息になって、放射冷却で冷え込んでいた空気に溶けた。
 
——お、おはよう。

 久しぶりに至近距離で真正面から見る顔。朝の風に乗って微かに届く甘い香り。
 思わず卒倒しそうになるのを踏ん張ったと言えば大袈裟に過ぎるが、それくらいのインパクトがあった。

——いつまで続ける気?

 寒いねぇとか、時候の挨拶をする気はなさそうだった。

——続けるって……ストーカーのこと?

——ストーカーだっていう自覚があるんだ?

——まあ、多少なりとも。

 久しぶりに二人きりで交わしたのが、そんな間抜けな会話だった。Uターンなんかしなくても、ストーカーは十分に間抜けだと思い知らされた。

 こそこそ撮った写真を送り付けたりもしなかったし、郵便受けを覗いたりもしていない。今日の洋服は可愛かったねとか、髪を切ったね、似合っているよとか、今日食べていた学食の皿うどんが美味しそうだったねとか、何であれそんな感想を届けたこともなかった。本当にそっと見守っているだけ。どちらかと言えば守護神のような、それが言い過ぎなら背後霊でもいい。自分の存在をアピールするような真似はしていないつもりだったから、見抜かれていたことはショックでもあったけれど、さすがだなと感心したりもした。

——ったく。

 彼女は小さく溜め息を吐いて、何かを吹っ切ったかのように困惑の表情を真顔に変えた。だが、その一瞬、笑顔が垣間見えたと思ったのは錯覚だったのかどうか。

——そんなことしなくてもさあ、サークルは一緒なんだし、顔を合わせる機会はいくらでもあるじゃない。

 それについて特に反論はなかった。

——大丈夫?

 何がと思ったけれど、大丈夫と答えた。適当なものだ。

——わたしが他の男の子と付き合い始めたらどうする?

 これは想定外の質問だった。もちろんそれが最も懸念すべき事態には違いなかったのだが、きっと考えないようにしていたのだろう。事が起こってから想定外ですなんて役人みたいなことを言っても始まらないというのに。

 ストーカーとは、想いを寄せる相手が別の異性と楽しそうに過ごしている場面でも見たいと思うものなのだろうか。そんな場面だからこそ確認したくなるのだろうか。その結果、嫉妬に燃えて、堪え切れなくなって邪魔者を排除しようとしたりするのか。好きな相手との無理心中という方向性もあり得るか。自分のものにならないのならいっそ、と。世の中にはそんな犯罪も多いのかもしれない。
 そんなことが頭を駆け巡ったが、自分自身の事としてはあまりにも現実味に欠けていた。

——そんなの、その時になってみないと分からないよ。

 彼女の前では正直だった。自分の心に忠実だった。それが言動に表せたかどうかは別にして、嘘はなかった。それなのに、どうして付き合い始める前と後とで関係が変わってしまったのだろう。変わってしまったことに気づいてすらいなかった。ずっと同じように大事に大切に愛おしく思っていた。それなのに、彼女から変わったと言われてしまった。

 変わること、それは仕方のないことなのかもしれない。爆発して飛び出しそうになる心臓を宥め宥め、ほんの少しの短い告白の台詞に馬鹿みたいに長い時間をかけて、やっとの思いで想いを伝えた。そんな守りたいもの、失いたくないもの、かけがえのないものが出来てしまったのだ。変わらないはずがない。彼女を想う気持ちは強くなりこそすれ、これっぽっちも色褪せはしなかった。他の女の子など目にも入らなかった。失礼ながら外見だけなら、もっと綺麗な女の子も可愛い女の子もいただろう。それでも、どんな女子にも代替の利かない存在だった。

 そして、これは自惚れではないと小さな自信を持っている部分だったが、どうやら嫌われてしまったというわけではなさそうだったのだ。

 それでも——。
 それなのに——。
 別れを告げられた。
 理由は長い年月を経て今日知った。
 変わったことがいけなかったのだと——。
 それは、もしかしたら変わり方の問題だったのかもしれない。

 でも、何故だろう。
 あの時の自分は———。
 どうして、それだけのことで、たったそれだけのことで諦めてしまったのだろう。
 失いたくないと意識するようになった。それだけのことだったはず。
 どうすべきだったのか。
 どうすれば良かったのか。

 あの頃の自分には、彼女に対する不満はなかった。
 彼女の方に不満があるなら、もっと文句を言ってくれればよかったのに——。
 そんな不満が、長い時を経て少しだけ浮かび上がった。

 いや——。
 それはお互い様だったのかもしれない。彼女の前では正直でいたつもりだったけれど、それは単に嘘が無いというだけで、全てを曝け出してはいなかったのだろう。互いにもっと感情をぶつけ合うべきだった。喧嘩の一つや二つするくらいに。
 そうすれば関係は壊れずに済んだのかもしれない。

 あの時、ストーカーに対峙した彼女は、溜め息に言葉を乗せるようにして言った。

——分かったわよ。

 何を分かってくれたのか、分からなかった。

——他にやりようがあるような気はするんだけど。

 これも理解出来なかった。

——でも、盗撮は嫌だ。

 これには黙って頷いた。
 約束は守る自信があった。

——いい天気ね。

 彼女は空を見上げて、また自転車にまたがると走り始めた。
 その後ろ姿がストーカーとして見た最後の彼女だ。後を追わずに見送った、その姿が見えなくなったのと同時に、僕はストーカーを卒業した。
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