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四章:大人になったラスと真実を知った私
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気づけば外はとっぷりと暮れている。
いつもなら慌てて家へ戻るところだが、今は出来なかった。
「うわ……」
ユーグに手鏡を借りて覗き込んだ私は、鏡に映った自分の顔に唖然とした。
瞼は赤く腫れ上がっているし、大声で喚いた時に切れたのか、唇の端からは血が滲んでいる。まるでフルラウンド滅多打ちにされたボクサーだ。
こんな顔で家に帰ったら、ものすごく心配されてしまう。
ユーグは治癒魔法をかけると言ってくれたが、見た目だけ治して貰っても、皆の前で普段通りに振舞えるかどうか分からない。一晩離れて、気持ちを立て直したかった。
ユーグに泊めてくれるよう頼むと、彼はものすごく嫌そうに顔を顰めた。
「それ、私に『今すぐ死ね』って言ってるようなものだけど、分かってる?」
「え、なんで?」
「ラスが黙ってないってこと」
ユーグは大きな溜息をつき「いい加減、もう分かってるよね? ラスは君に惚れてる」と言った。
「羽化してすぐの頃はそんなこと言ってたけど、最近は全然だよ」
本当にそうなのだ。
4年の間に、私への気持ちは穏やかな家族愛に昇華したんだと思う。
元々、恋愛感情というより身近な年上の女性への憧れのようなものだったんじゃないだろうか。
チームで狩りに出るようになった2年前から、ラスの交友関係はぐんと広がっている。今では雨の時期も、日中は家を空けるようになった。
町で誰か可愛い子を見つけたのではないか、と実は密かに疑っている。
私が説明すると、ユーグはやれやれというように肩を竦めた。
「じゃあ、もう好きにしたらいいよ。私はこれからダンのところへ行って、ミカがうちに泊まること説明してくる」
「そうしてくれるとありがたいけど、ちょっと待って」
立ち上がって玄関へ向かって行こうとするユーグを引き留める。
この人を野放しにしてはいけない。流石の私も学習した。
「なんて説明するつもりなのか、まず私に言ってみて」
ユーグはこちらを振り返り、顎に手を当てた。
「うーん、そうだな……。ミカはもうすぐ死ぬから、心の整理がしたいと言ってる、とか?」
「はぁ!? そんな馬鹿正直に言ったら、皆が悲しむでしょ! 絶対だめ!」
「そうかな。いずれ分かることだし、ミカに隠し事したせいで私はボコボコにされたんだよ?」
ユーグは不服そうに反論してくる。
「ミカは非力だから軽く済んだけど、ダンとラスにあれと同じことやられたら、私は撲殺されるよ」
「そ、それはそうかもしれないけど……。とにかく、今は駄目! 時期を見て、私がちゃんと話すから」
「ほんとに頼むよ?……えーと、じゃあ、ただびとについてちゃんと説明してなかった事が多くてミカが怒ってるから、じっくり話をすることになった、とかは?」
それは嘘じゃない。
ユーグとの話は殆ど終わっているが、リアリティが出ていいかもしれない。
「それならいいよ。でも絶対、私にかけた魔法の話はしないでね! ただびとは体が弱いってことを強調してくるといいかも。ほら、みんなの心の準備的に」
「……分かった。まあ、元々ダンとベネッサは、どこかで覚悟してたと思うけど。ただびとの生存率の低さは有名な話だし」
確かにそうだ。
だから彼らは、最初から私に何かと過保護だったし、番を見つけさせようと懸命だった。
二人の希望に沿えない結果になって、本当に申し訳ない。
しゅん、と肩を落とした私を見て、ユーグさんは勢いづいた。
「今ならまだ考え直せるよ、ミカ。魔法を解かなきゃいいだけだ」
「その話はもう終わったでしょ。今晩解いてもらう。もうそれでいいから伝えてきて」
早口で言って、ユーグを追い出す。
バタン、と閉じた玄関扉をしばらく眺め、私は長い溜息をついた。
私だって、少しでも長く大好きな皆と一緒にいたいに決まってる。
お願いだから、もう試さないで欲しい。
誰かをゆるやかに殺し続けながら生きろ、なんてそんな残酷なこと言わないで欲しい。
それから私は、勝手に台所に入って何か食べられそうなものを見繕うことにした。
動いていた方が気が楽だし、落ち着いたらお腹が空いてきたのだ。
ソロナ粉、とこちらの世界の人が呼んでいる小麦粉もどきがあったので、パンケーキを焼くことにした。
戸棚を漁ったところ、蜂蜜の小瓶を発見した。よし、これかけて食べよう。
砂糖はジャンプでしか手に入らない高級品だが、蜂蜜なら西の島でも採れる。
こちらでの生活が長くなるにつれ、不便だと思っていたあらゆることにすっかり慣れた。
今ではそこそこの料理が手早く作れるようになっている。
卵もあったし、それ焼いて、後は野菜サラダでも作るか。
ユーグの家の庭先にも、こじんまりとした家庭菜園がある。
ベネッサさんが育てているような立派な野菜は見当たらないが、葉物がちらほら植わっていたので遠慮なく収穫することにした。
月明りだけを頼りに畑を回り、籠にちぎった葉野菜を入れる。
ついでにデザートにしようと近くの木からコケモモのような甘酸っぱい果実をもいでいた時。
「ミカ」
ここにいるはずのない人の声が背後から聞こえた。
やばい。回復魔法、かけといて貰うんだった。
深く後悔しながら、俯き加減で振り返る。
誤魔化そうとしても無駄なことは知っている。
夜目の利くラスには、私の酷い顔がはっきり見えるだろう。
せめて今はもう大丈夫だと伝えたくて、私は明るい声を出した。
「あれ? ユーグさんから話、聞かなかった?」
ラスは目が合うなり小さく舌打ちしたが、顔のことには触れなかった。
「聞いた。でも、嫌だから連れ戻しにきた」
「えっ? 嫌って……」
「話が終わるまで、ここで待ってる。終わったら俺と帰ろう」
いつものラスと雰囲気が違う。
まるで私の意思などどうでもいい、というような頑なな表情を浮かべている。
私は困惑しながら、首を振った。
「……今日は帰りたくない」
何故帰りたくないのか、理由は言えなかった。
ラスにはどうしても嘘をつけない。
もしついたとしても、彼には容易く見破られる気がする。
「なんで?」
ラスは静かな声で尋ねたが、青い瞳は強い不満を湛えていた。
「ほんとはユーグとの話はもう終わってるんだろ? 散々泣かされたんだよな。それでもまだ、ここに居たいのは何故なのか、って聞いてる」
完全に見透かされてるその言い方に、どうしていいか分からなくなった。
私は苦し紛れに「ラスには関係ない!」と突き放してしまった。
ラスは大きく足を踏み出し、あっと言う間に私との距離を詰めた。
慌てて顔を背けようとしたが、ラスの方が早い。
長い指で顎を掴まれ、無理やり彼の方を向かされてしまう。
こうなったらラスは梃子でも動かない。
私は諦めて、じっと青い瞳を見上げた。切れ長の美しい瞳は苦渋に歪んでいた。
「言えよ。あいつに、何をされた?」
地を這うような低い声に、ぞくりと震える。
こんなに怒ったラスを見たのは、これが初めてだった。
このままじゃ、ユーグに何をするか分からない。
「何もないって!」
私はラスの手を振り払い、後ろに下がった。
ところが下がった分だけ、距離を詰められる。
やがて、背中に硬い幹の感触を感じる。とうとう行き止まってしまったのだ。
なんとか立場を逆転させようと、私は懸命に声を張った。
「どうしてラスがそんなに怒るの!? 私は助けを求めてない!」
「分からないのか、本当に」
ラスは苦しげに呟き、木の幹に拳を叩きつけた。
引き締まった腕に囲われれ、とうとう逃げ場が無くなる。
「あいつの匂いがする。……なんでだよ、ミカ。なんで今更――」
ラスは私の首筋に鼻を近づけ、そんなことを言いだした。
ユーグに馬乗りになって殴ったからだ、とはとても言えない。
私は両手をラスの胸元につき、何とか引き離そうと力を込めた。
渾身の力で押したのに、ラスはびくともしなかった。
手のひらに感じるしなやかな胸筋に、ああ、ラスはもう男の人なんだ、と場違いな感想が湧く。
「ラスが思ってるようなことは、何もなかったよ! お願い、離れて」
「俺が思ってること? へえ、ミカはなんだと思ったの? 言ってみろよ」
ラスは箍外れたように、意地悪な笑みを浮かべて私の首に唇を押し当てた。
キスではない。
ただ、ひんやりした唇が触れているだけ。
なのに、私の心臓は口から飛び出しそうなほど高鳴った。
こ、これはどういうこと……?
どうしてこんなに意識してしまうの?
弟同然のラスにくらくらするなんて、どこかおかしくなったとしか思えない。
ラスは色香の籠った声で、低く囁いた。
「教えてやろうか。俺はミカがあいつにキスされたんじゃないかと思ってる。抱きしめられたんじゃないか、それ以上のことをされたんじゃないかって」
一つ一つ数え上げながら、ラスは私の首から鎖骨、そして耳朶に唇を当てる。
「俺以外のやつに、ミカが触られるなんて嫌だ。分かったか」
今は発情期じゃない。
だからこれ以上は何もしないだけで、明らかに欲望が滲んだ行為だった。
「……分かったから、離れて」
頬が燃えるように熱い。
私は懸命に平静を保とうとしたが、声はみっともなく動揺していた。
ラスは憎らしい程悠然と身体を起こし、私から距離を取った。
私の真っ赤な顔を見て、満足そうにふっと微笑む。
「分かったならいい。俺と帰るよな?」
ラスの言動の理由について深く考えることは出来なかった。
ただでさえ余命の話で頭がいっぱいなのだ。激怒したり悲しんだりで疲れ切った心にはもう何も入らない。
それでも、これ以上ラスを刺激してはいけないことだけは分かった。
「それはほんとに無理。大事な話が残ってるんだよ。でも、何もしないって約束する。絶対何もしないし、させないし、外泊だってもうしない」
ラスは私が譲らないことに気づいたらしく、「……分かった。約束したからな」と渋々引き下がった。
彼の纏う空気が、普段通りの穏やかなものに変わる。
私はホッと胸を撫で下ろし、騒動の途中で落としてしまった籠を拾い上げた。
「――で? ユーグはどうしたの?」
「うちで夕食食べてから帰るって」
あの野郎!
思わず毒づきそうになる。
一人でベネッサさんのご馳走にあずかってくるとか、どういう了見なの!
えー、もう信じられない、とぶつぶつ零しながら、散らばった葉野菜と果実を拾い集める。
「パンケーキ焼く準備してたんだけど、どうしよう。よかったら、一緒に食べる?」
この世界に来てから一人でご飯を食べることがなくなった私は、ついそんな風に声を掛けてしまった。
これじゃ、追い返しにくくなるのに。
ラスにはどうしても強く出られない。
「もちろん! ミカのパンケーキ、大好き」
ようやくいつものラスに戻ってくれた。
輝くような素直な笑みに、私もつられて微笑んでしまう。
「ラスのせいで落としたんだから、野菜と果物はラスが洗ってよね」
「了解。そんなことくらい、いつでもやるよ」
ラスは私から籠を奪うと、空いた方の手で私の髪をくしゃりと撫でた。
いつもなら慌てて家へ戻るところだが、今は出来なかった。
「うわ……」
ユーグに手鏡を借りて覗き込んだ私は、鏡に映った自分の顔に唖然とした。
瞼は赤く腫れ上がっているし、大声で喚いた時に切れたのか、唇の端からは血が滲んでいる。まるでフルラウンド滅多打ちにされたボクサーだ。
こんな顔で家に帰ったら、ものすごく心配されてしまう。
ユーグは治癒魔法をかけると言ってくれたが、見た目だけ治して貰っても、皆の前で普段通りに振舞えるかどうか分からない。一晩離れて、気持ちを立て直したかった。
ユーグに泊めてくれるよう頼むと、彼はものすごく嫌そうに顔を顰めた。
「それ、私に『今すぐ死ね』って言ってるようなものだけど、分かってる?」
「え、なんで?」
「ラスが黙ってないってこと」
ユーグは大きな溜息をつき「いい加減、もう分かってるよね? ラスは君に惚れてる」と言った。
「羽化してすぐの頃はそんなこと言ってたけど、最近は全然だよ」
本当にそうなのだ。
4年の間に、私への気持ちは穏やかな家族愛に昇華したんだと思う。
元々、恋愛感情というより身近な年上の女性への憧れのようなものだったんじゃないだろうか。
チームで狩りに出るようになった2年前から、ラスの交友関係はぐんと広がっている。今では雨の時期も、日中は家を空けるようになった。
町で誰か可愛い子を見つけたのではないか、と実は密かに疑っている。
私が説明すると、ユーグはやれやれというように肩を竦めた。
「じゃあ、もう好きにしたらいいよ。私はこれからダンのところへ行って、ミカがうちに泊まること説明してくる」
「そうしてくれるとありがたいけど、ちょっと待って」
立ち上がって玄関へ向かって行こうとするユーグを引き留める。
この人を野放しにしてはいけない。流石の私も学習した。
「なんて説明するつもりなのか、まず私に言ってみて」
ユーグはこちらを振り返り、顎に手を当てた。
「うーん、そうだな……。ミカはもうすぐ死ぬから、心の整理がしたいと言ってる、とか?」
「はぁ!? そんな馬鹿正直に言ったら、皆が悲しむでしょ! 絶対だめ!」
「そうかな。いずれ分かることだし、ミカに隠し事したせいで私はボコボコにされたんだよ?」
ユーグは不服そうに反論してくる。
「ミカは非力だから軽く済んだけど、ダンとラスにあれと同じことやられたら、私は撲殺されるよ」
「そ、それはそうかもしれないけど……。とにかく、今は駄目! 時期を見て、私がちゃんと話すから」
「ほんとに頼むよ?……えーと、じゃあ、ただびとについてちゃんと説明してなかった事が多くてミカが怒ってるから、じっくり話をすることになった、とかは?」
それは嘘じゃない。
ユーグとの話は殆ど終わっているが、リアリティが出ていいかもしれない。
「それならいいよ。でも絶対、私にかけた魔法の話はしないでね! ただびとは体が弱いってことを強調してくるといいかも。ほら、みんなの心の準備的に」
「……分かった。まあ、元々ダンとベネッサは、どこかで覚悟してたと思うけど。ただびとの生存率の低さは有名な話だし」
確かにそうだ。
だから彼らは、最初から私に何かと過保護だったし、番を見つけさせようと懸命だった。
二人の希望に沿えない結果になって、本当に申し訳ない。
しゅん、と肩を落とした私を見て、ユーグさんは勢いづいた。
「今ならまだ考え直せるよ、ミカ。魔法を解かなきゃいいだけだ」
「その話はもう終わったでしょ。今晩解いてもらう。もうそれでいいから伝えてきて」
早口で言って、ユーグを追い出す。
バタン、と閉じた玄関扉をしばらく眺め、私は長い溜息をついた。
私だって、少しでも長く大好きな皆と一緒にいたいに決まってる。
お願いだから、もう試さないで欲しい。
誰かをゆるやかに殺し続けながら生きろ、なんてそんな残酷なこと言わないで欲しい。
それから私は、勝手に台所に入って何か食べられそうなものを見繕うことにした。
動いていた方が気が楽だし、落ち着いたらお腹が空いてきたのだ。
ソロナ粉、とこちらの世界の人が呼んでいる小麦粉もどきがあったので、パンケーキを焼くことにした。
戸棚を漁ったところ、蜂蜜の小瓶を発見した。よし、これかけて食べよう。
砂糖はジャンプでしか手に入らない高級品だが、蜂蜜なら西の島でも採れる。
こちらでの生活が長くなるにつれ、不便だと思っていたあらゆることにすっかり慣れた。
今ではそこそこの料理が手早く作れるようになっている。
卵もあったし、それ焼いて、後は野菜サラダでも作るか。
ユーグの家の庭先にも、こじんまりとした家庭菜園がある。
ベネッサさんが育てているような立派な野菜は見当たらないが、葉物がちらほら植わっていたので遠慮なく収穫することにした。
月明りだけを頼りに畑を回り、籠にちぎった葉野菜を入れる。
ついでにデザートにしようと近くの木からコケモモのような甘酸っぱい果実をもいでいた時。
「ミカ」
ここにいるはずのない人の声が背後から聞こえた。
やばい。回復魔法、かけといて貰うんだった。
深く後悔しながら、俯き加減で振り返る。
誤魔化そうとしても無駄なことは知っている。
夜目の利くラスには、私の酷い顔がはっきり見えるだろう。
せめて今はもう大丈夫だと伝えたくて、私は明るい声を出した。
「あれ? ユーグさんから話、聞かなかった?」
ラスは目が合うなり小さく舌打ちしたが、顔のことには触れなかった。
「聞いた。でも、嫌だから連れ戻しにきた」
「えっ? 嫌って……」
「話が終わるまで、ここで待ってる。終わったら俺と帰ろう」
いつものラスと雰囲気が違う。
まるで私の意思などどうでもいい、というような頑なな表情を浮かべている。
私は困惑しながら、首を振った。
「……今日は帰りたくない」
何故帰りたくないのか、理由は言えなかった。
ラスにはどうしても嘘をつけない。
もしついたとしても、彼には容易く見破られる気がする。
「なんで?」
ラスは静かな声で尋ねたが、青い瞳は強い不満を湛えていた。
「ほんとはユーグとの話はもう終わってるんだろ? 散々泣かされたんだよな。それでもまだ、ここに居たいのは何故なのか、って聞いてる」
完全に見透かされてるその言い方に、どうしていいか分からなくなった。
私は苦し紛れに「ラスには関係ない!」と突き放してしまった。
ラスは大きく足を踏み出し、あっと言う間に私との距離を詰めた。
慌てて顔を背けようとしたが、ラスの方が早い。
長い指で顎を掴まれ、無理やり彼の方を向かされてしまう。
こうなったらラスは梃子でも動かない。
私は諦めて、じっと青い瞳を見上げた。切れ長の美しい瞳は苦渋に歪んでいた。
「言えよ。あいつに、何をされた?」
地を這うような低い声に、ぞくりと震える。
こんなに怒ったラスを見たのは、これが初めてだった。
このままじゃ、ユーグに何をするか分からない。
「何もないって!」
私はラスの手を振り払い、後ろに下がった。
ところが下がった分だけ、距離を詰められる。
やがて、背中に硬い幹の感触を感じる。とうとう行き止まってしまったのだ。
なんとか立場を逆転させようと、私は懸命に声を張った。
「どうしてラスがそんなに怒るの!? 私は助けを求めてない!」
「分からないのか、本当に」
ラスは苦しげに呟き、木の幹に拳を叩きつけた。
引き締まった腕に囲われれ、とうとう逃げ場が無くなる。
「あいつの匂いがする。……なんでだよ、ミカ。なんで今更――」
ラスは私の首筋に鼻を近づけ、そんなことを言いだした。
ユーグに馬乗りになって殴ったからだ、とはとても言えない。
私は両手をラスの胸元につき、何とか引き離そうと力を込めた。
渾身の力で押したのに、ラスはびくともしなかった。
手のひらに感じるしなやかな胸筋に、ああ、ラスはもう男の人なんだ、と場違いな感想が湧く。
「ラスが思ってるようなことは、何もなかったよ! お願い、離れて」
「俺が思ってること? へえ、ミカはなんだと思ったの? 言ってみろよ」
ラスは箍外れたように、意地悪な笑みを浮かべて私の首に唇を押し当てた。
キスではない。
ただ、ひんやりした唇が触れているだけ。
なのに、私の心臓は口から飛び出しそうなほど高鳴った。
こ、これはどういうこと……?
どうしてこんなに意識してしまうの?
弟同然のラスにくらくらするなんて、どこかおかしくなったとしか思えない。
ラスは色香の籠った声で、低く囁いた。
「教えてやろうか。俺はミカがあいつにキスされたんじゃないかと思ってる。抱きしめられたんじゃないか、それ以上のことをされたんじゃないかって」
一つ一つ数え上げながら、ラスは私の首から鎖骨、そして耳朶に唇を当てる。
「俺以外のやつに、ミカが触られるなんて嫌だ。分かったか」
今は発情期じゃない。
だからこれ以上は何もしないだけで、明らかに欲望が滲んだ行為だった。
「……分かったから、離れて」
頬が燃えるように熱い。
私は懸命に平静を保とうとしたが、声はみっともなく動揺していた。
ラスは憎らしい程悠然と身体を起こし、私から距離を取った。
私の真っ赤な顔を見て、満足そうにふっと微笑む。
「分かったならいい。俺と帰るよな?」
ラスの言動の理由について深く考えることは出来なかった。
ただでさえ余命の話で頭がいっぱいなのだ。激怒したり悲しんだりで疲れ切った心にはもう何も入らない。
それでも、これ以上ラスを刺激してはいけないことだけは分かった。
「それはほんとに無理。大事な話が残ってるんだよ。でも、何もしないって約束する。絶対何もしないし、させないし、外泊だってもうしない」
ラスは私が譲らないことに気づいたらしく、「……分かった。約束したからな」と渋々引き下がった。
彼の纏う空気が、普段通りの穏やかなものに変わる。
私はホッと胸を撫で下ろし、騒動の途中で落としてしまった籠を拾い上げた。
「――で? ユーグはどうしたの?」
「うちで夕食食べてから帰るって」
あの野郎!
思わず毒づきそうになる。
一人でベネッサさんのご馳走にあずかってくるとか、どういう了見なの!
えー、もう信じられない、とぶつぶつ零しながら、散らばった葉野菜と果実を拾い集める。
「パンケーキ焼く準備してたんだけど、どうしよう。よかったら、一緒に食べる?」
この世界に来てから一人でご飯を食べることがなくなった私は、ついそんな風に声を掛けてしまった。
これじゃ、追い返しにくくなるのに。
ラスにはどうしても強く出られない。
「もちろん! ミカのパンケーキ、大好き」
ようやくいつものラスに戻ってくれた。
輝くような素直な笑みに、私もつられて微笑んでしまう。
「ラスのせいで落としたんだから、野菜と果物はラスが洗ってよね」
「了解。そんなことくらい、いつでもやるよ」
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