こんなに遠くまできてしまいました

ナツ

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三章:人付き合いは難しい

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 胸の奥がざわりと騒ぐ。
 まさか……まさかね?
 タリム人の慣習と元の世界のそれは大きく異なる。
 ベネッサさんが身に着けている装身具は、日計くらいだった。あれだって厳密には装身具とは呼べない。
 だからきっとこれは、私が想像したものじゃない。
 それでもすんなり受け取るのは、躊躇われた。

 逡巡する私に、チェインは苛立ったようだ。

「ああ、もう! さっさと受け取れって!」

 彼は私の手を掴んで開かせると、無理やり手のひらに小箱を乗せる。
 そしてそのまま、小箱の蓋を開けた。
 そこには、大きなアクアマリンの石が嵌ったシンプルな銀の指輪が収まっていた。

 私は動けず、その美しい水色の石に見入ることしか出来なかった。
 チェインは真剣な表情で、固まった私の顔を覗き込む。
 
「俺を受け入れない理由は、俺がミカの世界のことを何も知らないからなんだろ? 本気で求婚してるわけじゃない、とも言ってたよな」

 言った。
 確かに、私はそう言って誤魔化した。

「お前が言うように知らないことばっかだし、これからもミカを困らせるかもしれねえけど、理解するように努力するよ。今までジャンプには行ったことなかった。東の島に興味なんかなかったからな。でもそれじゃダメなんだろうな、と思って行ってきた。向こうでただ人の嫁さん貰った、って奴に偶然会ってさ。どうやって求婚するのが普通なのか、聞いたんだ」

 訥々と語られる話が、鋭く胸を刺し貫く。
 私は震える手できつく小箱を握り締めた。

「……それで、この指輪を?」

 チェインは照れくさそうに笑い「そういうこと」と答える。

「これで無理じゃなくなった? 俺はミカの常識に合わせられるようにするし、本気で番いたいって思ってる」

 不安と期待に揺れる瞳を、それ以上見ていることは出来なかった。
 チェインは私のその場しのぎの断り文句を真に受け、真剣に考えてくれたんだ。
 少しでも早く、証を立てたくて、ラスが驚くほどの強行軍でジャンプを飛んできた。
 それも全部、私を得る為――……。

 受け入れた方が楽だ、と卑怯な私が心の片隅で囁く。
『悪者になりたくないでしょ? ミカ。これで断ったら、すごい悪女だよ』
『もういいじゃん、誰でも。ダンさん達だって私に結婚して欲しいと思ってるんだし、チェインに決めれば全部解決するでしょ』

 多分、ここに落ちてきたばかりの私なら、頷いただろう。
 誰とも揉めたくない、平穏に生きていけたらそれでいい、と諦めただろう。

 でも今の私には、出来なかった。
 真摯に生きることを教えてくれたラスを裏切りたくない。
 今更、自分の気持ちに嘘をついて皆を騙して生きていくことは出来ない。

 ぽたり、と涙が手の甲に落ちる。
 これから私は、チェインの純情を踏みにじる。
 泣くな。泣く資格なんて、私にはない。
 
「ごめんなさい、チェイン。本当に、ごめん」

 私は小箱の蓋を閉じ、深く頭を下げた。

「違うの、あれは。ごめん、私は、チェインがどんなに頑張ってくれても、受け入れることは出来ない」

 チェインの顔が驚愕に染まる。

「うそ……だろ? お前、そんなこと言ってたか……?」

 彼は愕然としていた。
 元の世界の男性なら、私の曖昧な態度から遠回しな拒絶を読み取ったかもしれない。
 だけど、チェインはタリム人だ。
 率直さと正直さを愛する民である彼に、空気を読むなんて真似、出来るわけがない。
 今更ながら残酷な真似をしてしまったことを心底後悔する。

 どう言えば、いいんだろう。
 どう説明すれば、彼のダメージを減らすことが出来る?
 私は必死で考えた。

「チェインが悪いんじゃないよ? 本当だよ! チェインはかっこいいし、若い女の子は皆夢中だって、ベネッサさんも言って――」

 私の言い訳を遮るように、チェインは拳を草むらに叩きつけた。
 激情がダイレクトに伝わってくる。
 私は反射的に身をすくめてしまった。

「じゃあ、俺でいいだろ! 俺が欲しいのは、よその女じゃなくて、お前だって言ってる!」

 自分の馬鹿さ加減にみじめになった。
 これ以上傷つけたくないと選んだ台詞は、チェインを更に傷つけただけだった。
 一度ザックリ切り裂いてしまった心を直す方法は、どこにもない。
 私は自分の不誠実さをひたすら謝るしかなかった。

 泣くまいと思うのに、塩辛い液体が頬を伝って噛み締めた唇に落ちてくる。

「ごめんね、チェイン。もっと早く、はっきり断るべきだった。何を今更と思われるだろうけど、こんなに苦しめるつもりはなかったの。私は、チェインを結婚相手として見ることは出来ない。どうしても、出来ない。本当にごめんなさい」

 嗚咽をこらえながら説明し、小箱を差し出す。

「これ、すごく高価なものだよね? この指輪にふさわしい人はきっと他にいる。こんな最低女じゃなくって、もっといい人を選んで欲しい。本当に、ごめんなさい。私は、受け取れません」

 チェインの瞳に、怒りと深い悲しみが浮かぶ。
 思わず目を逸らしそうになるのを、ぐっと堪えてまっすぐ見つめ返した。

 チェインはしばらく黙り込んだ後、ふっと口角を上げる。
 自嘲の笑みだとすぐに分かった。

「――……その指輪、綺麗な色だったろ?」

 乾いた声に、こくりと頷く。

「ミカの肌に一番映えると思って、それにしたんだ。買った後、すぐに渡したくなって、馬鹿みたいに朝早くにお前の家に来た。喜ぶかな、どんな顔するかなって、そんなことばっかり考えてエドラザフを越えた」

 チェインは、はは、と力なく笑い、諦めに満ちた眼差しを私に向けた。

「ひでえな、お前。……俺はもういらない。ミカが捨てろ」

 掠れた声でそう言うと、チェインは立ち上がり、足早に去っていく。
 彼は私から少し離れたところで羽ばたき、空へ舞い上がった。
 荒れた翼から、数枚の羽根が抜け落ちる。ひんやりとした風が、そのうちの一枚を私の足元に運んで落とした。

 私はチェインの羽を拾い、箱と一緒に握りしめた。
 胸が痛すぎて、破れそうだった。
 
「ぐっ……うっ……」

 堪えきれない嗚咽が喉から漏れる。

 私は、年だけをいたずらに重ねた、傲慢な子供だった。

 今までも勝手な思い込みで、どれだけの人を無意識のうちに傷つけてきたか分からない。
 連絡の途絶えた私を心配して、友達は何度もアパートまで見に来たかもしれない。
 派遣の営業さんは、無断欠勤したままアパートから消えた私を、今も探しているかもしれない。
 元の世界に未練なんてない、と笑っていた自分が、恥ずかしくて堪らない。

 いい加減で臆病で、被害者意識ばかりが強い。――それが私だ。
 最初から求愛に真剣だったチェインを虚仮こけにした後も、自分のやったことに気づきもせず呑気に過ごしていた。
 
 昼を回っても家に戻らない私を心配したんだろう、ラスとベネッサさんが私を迎えにやってきた。
 帰らないつもりはなかった。
 ただ、立ち上がれなかった。
 
「ミカ、帰ろう。……落ち着いたら、話を聞かせて?」

 ベネッサさんは草むらに突っ伏して号泣している私の肩を抱き、優しく言った。


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