群青の空の下で(修正版)

花影

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第2章 タランテラの悪夢

83 かけがえのない存在1

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話はちょっと戻って前話に至るまでのアスターのお話


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 アスターは長剣を手に鍛錬をしていた。型の練習をしているのだが、療養の為に一月以上離れていたこともあってなかなかしっくりこない。彼は鍛錬を中断すると、その場に座り込んだ。
 フロリエとコリンシアの死亡の知らせを受けてから半月経っていた。あの後リカルドが帰って来るとすぐに相談し、彼はマリーリアの部屋を出てファルクレインが治療を受けている山荘に移っていた。
 もちろん、他の村人に姿を見られるわけにもいかず、暗いうちに狩猟に出るリカルドの弟ベルントのお供のふりをして村を出たのだ。彼の案内で山道を登り、目的の山荘に着いたのは昼過ぎだった。
 馬に乗っていたとはいえ、まだ十分に体力が回復していない彼は疲れ切っていたが、久しぶりに会うファルクレインの姿を見てそれもどこかに飛んでいた。手厚い治療と行き届いた世話をされた飛竜は随分と元気になっていて、その頃には運動で放されるカーマインとじゃれて遊ぶまで回復していた。
 近頃は羽ばたきも強くなり、以前の様にとまではいかないが飛べるようになっていた。もうじきここも引き払い、アスターも仲間の元へ行かなければならない。
「まだまだだな……」
 日の出とともに起きて鍛錬を始めたのだが、既に日は随分と高くなっている。朝食をとってからまた始めようと立ち上がったところで、山荘の裏にある湖に張り出した大きな岩の上で、日向ぼっこをしていたファルクレインがムクリと起き上がる。そして空に向かってゴッゴウと親愛の挨拶をした。
「カーマインか」
 見上げると、ちょうど飛んでくるカーマインの姿が目に入る。だが、今日はその背中に誰かが乗っていた。騎乗している人物は、アスターの姿を見つけて手を振ってくる。
「マリーリア?」
「おはようございます、アスター卿」
 優雅に着地したカーマインの背から降りてきたのはマリーリアだった。父親の命令で村を空けることが出来ないはずの彼女が姿を現し、アスターは首をかしげる。何かあったのだろうかと訝しむが、彼女の様子は何時もと変わらない。内心ほっとしながらも彼女が持参した荷物を受け取り、飛竜の装具を外すのを手伝う。
 装具を外してもらう間もどかしげにしていたカーマインは、身が軽くなるとすぐにファルクレインが日向ぼっこしている岩の上へ移動する。2頭は飛竜の挨拶を交わすと、短い秋の日差しを存分に楽しむためにその場で丸くなった。
「珍しいな、何かあったのか?」
「差し入れに来たのよ」
 飛竜2頭がごく自然に寄り添う様子を微笑ましく見守りながら、騎手の方は少しぎこちなく会話を交わす。マリーリアが持参した籠の中を覗き込めば、薄焼きのパンに野菜や卵、あぶり肉がはさんであるのが見える。朝食にしては量が多い気もするが、軽く体を動かした彼には何の問題も無かった。
「ありがたい。ちょうど食事にしようと思っていた所だ」
「そう? 一緒に食べようと思って私も食べて来なかったの」
マリーリアが嬉しそうに微笑むと、アスターは彼女をうながして山荘の中へ入っていく。
「ここ、久しぶりに来たわ」
 彼女にとってここは思い出の場所らしい。子供の頃に従兄と良く来て遊んだ話をしながらテーブルに籠の中身を広げていく。アスターはその話に耳を傾けながら、炉で沸かしておいたお湯で2人分のお茶を淹れた。
「お、ご馳走だな」
「ガレット夫人のお手製よ」
 さっき籠の中を覗いた時に見えたパンの他に香草入りの腸詰やキッシュ、スコーンに手作りジャムが並んでいる。
「ベルント殿に申し訳ないな」
「……そうね」
 マリーリアの答えに微妙な間があったのは笑いを堪えていたからだ。ベルントはルバーブ村に来たエルデネートに一目ぼれし、毎日のように口説いている。10歳も年上の相手に本気で結婚を考えているらしいのだが、当のエルデネートは全くそれを相手にしていない。周囲はそれを生暖かい目で見守っていた。
 村や家族の事、カーマインの様子やファルクレインの回復具合を話題にしながら2人は食事を楽しんだ。



 ガキンと刃が交わるとアスターの手から長剣が落ちた。肩で息をしている状態の彼はヨロヨロと落ちたその長剣を拾い、再び立ち上がって剣を構える
「少し、休憩しましょう」
 そんな彼を気遣い、マリーリアが声をかける。2人で模擬試合をしているのだが、回を重ねるうちにアスターは刃を交える回数が続かなくなっていた。隻眼というハンデに加えて明らかに体力が低下している為だ。
「いや、もう一回」
 思う様に体が動かないからか、マリーリアに負けて悔しいのか、アスターは少しムキになって再戦を申しこむ。
「焦ったところで一朝一夕にはどうにもならない……そう教えてくれたのは貴方では無かったかしら?」
「う……」
 少し……いや、かなり意地悪くマリーリアが言うと、アスターは言葉に詰まった。確かに昨年、剣術の指導を頼まれた時に似たようなことを言った気がする。
「休憩しましょう。ね?」
「……分かった」
 アスターは少しバツが悪そうにうなずいた。



「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 鍛錬の前に井戸水で冷やしておいたお茶をマリーリアが差し出すと、アスターはありがたく受け取った。今日は天気が良く、この時期にしては汗ばむほどの陽気だった。鍛錬で汗をかいた2人は、湖に張り出して作られた山荘の露台に並んで腰掛ける。ここからだと日向ぼっこに飽きたらしい2頭の飛竜が湖の中でじゃれて遊んでいるのが良く見えるのだ。
「ファルクレインもすっかり良くなったみたいね」
「ああ……。そろそろ合流しないとな」
 何の為に誰と合流するかは聞かなくても分かる。リカルドからロベリアの竜騎士が頻繁にフォルビアの様子をうかがっているのをマリーリアも聞いている。おそらくここを出れば、彼等が主と仰ぐあの人を助けに行くのだろう。
 本心を言うと彼女自身もそれに加わりたいが、父親から言い渡されている期限が明日に迫っていた。ロベリアとの連携が困難な現状では、大人しく従うしか道は無かった。そこで彼女の気持ちを察したリカルドがどうにかするからと今日一日の時間をくれたのだ。
「マリーリア?」
 気付けば心配気にアスターが顔を覗き込んでいた。物思いにふけっていたので話しかけられたのに気付かなかった。
「ごめんなさい、考え事してて……。何?」
 間近に彼の顔があってマリーリアはドキドキしていた。一方で左目に受けた傷跡を前髪で隠しているのに気付き、そういえば縫った眼帯を持ってきているのに渡すのを忘れていたと冷静に思い出す。
「いつごろまでに帰ればいいのか? と訊いた」
「えっと、多分日没までは大丈夫」
「そうか」
 何か思い悩む事でもあるのだろうかとアスターはアスターで彼女の事を気にかけていた。しかし、彼女の顔を覗き込んだ時に目に入った、化粧っ気がないものの健康的な肌や艶やかな唇に心臓が高鳴る。思わずその肌に触れてみたい衝動に駆られ、手を伸ばしかけた時に大量の水しぶきが2人に降りかかった。
「ファルクレイン!」
「カーマイン!」
 湖の中心辺りでじゃれていた2頭がだんだん山荘の方へ移動してきて、悪ふざけが過ぎたのかその水しぶきが露台にいた2人にかかった。さすがにまずかったと思ったのか、2頭はピタリと動きを止めると、逃げるように飛び立っていった。
「ハメ外しやがって……」
 悪態をつくものの、アスターは内心助かったと胸を撫で下ろしていた。妙な高揚感のおかげであのまま何も無かったら彼女に何をしていたか……。
「あーあ、ずぶ濡れ。着替えないと……」
 マリーリアもアスター同様に全身ぬれねずみである。着ている騎士服のシャツが彼女の肌に張り付いて……。
「どうしたの?」
 突然ブンブンと頭を振り出したアスターにマリーリアは怪訝そうな視線を送る。
「いや……ちょっと水練してくる」
 とにかく、今すぐこの煩悩を振り払いたかった。アスターは着ていたシャツを脱ぐと、そのまま湖に飛び込む。
 山荘にも引き込んであるが、この近辺では温泉がわき出している。この湖にも流れ込んでくるので、ここは水温が高めで冬でも氷が張らないのだ。傷に効能があると言うこの温泉を活用する為に、竜騎士だったマリーリアの祖父がこの山荘を建てたらしい。
「アスター卿?」
 突然の行動を不信に思いながらも、濡れた服を着たままだったマリーリアはブルリと体を震わせる。今日は暖かいとはいっても、水遊びする時期はとっくに過ぎているし、ここは標高が高い。水練を始めてしまったアスターを気に掛けながらも、着替える為にマリーリアは屋内に戻った。
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