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第10話:術後翌日 ~総合病院:入院3日目(手術の翌日)~
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手術の翌日です。
何度か浅く眠っては目を覚まし、病室の天井の模様を数えているうちに、気がつけば朝になっていました。点滴ポールの車輪が時々コロ、と鳴り、廊下の足音が小さく遠のいていく。夜は長いのに、朝は急にやって来ます。ベッドのリクライニングを数ミリだけ上げると、背中の骨が「了解」と小さく音を立てる。体のあちこちが、現場復帰の準備運動をしている感じです。
術中の出血は少なかったらしく、寝ている間に血が喉へ流れてむせることは、ほとんどありませんでした。とはいえ、ふとした拍子に痰と混ざった鉄の味が喉に広がり、慌ててティッシュに吐き出す。ここで輝いたのが鼻セレブ。しっとり柔らかくて、口元が擦れてヒリヒリ…なんてことがない。術後の相棒として、これは大正解でした。課金してよかった。ティッシュの箱が、頼もしい補給車みたいに枕元で待機しています。
入院前、他の人のブログを読みすぎた私は「夜中に出血がひどく、血で溺れそうになる」という一文を何度も反すうして、不安のイメトレまでしていたのですが、実際のところ私の場合は拍子抜けするほど穏やか。鼻の奥でティッシュが小さくガッツポーズしている気がしました。「ほら、やれるじゃないか」と。過去の自分よ、検索の沼はほどほどに。
明け方、カーテン越しに看護師さんがそっと覗きます。
看護師:「おはようございます。昨夜から気になっていたのですが、トイレは大丈夫ですか?」
自分:「はい、大丈夫です。(声は出るようになってきたけど、喉が砂漠…)」
喉は相変わらず痛くて、声を出すと紙やすりを軽く撫でるような感覚。口呼吸が続くとこうなるのか、と体で学びます。枕元の水でうがいをし、軽く口を潤すと、声帯が「給水ありがとう」と言った気がしました。酸素飽和度を測るクリップが指をつまみ、「ピッ」と規則正しい音。機械に「生きてるね」と出席確認される朝です。
そしてイベント:尿道カテーテルを抜いてから、初めてのトイレ。
これがまた不思議でした。最初のひと押しで、なぜか「シュワッ」と空気が混じるような感覚がして、思わず「え?」と心の声。体内の配管の流速が変わったのか、新しい風洞実験でも始まったのか。二回目からは何事もなかったように通常運転へ。人体は賢い、そしてちょっとお茶目だ。戻る途中、病棟の掲示に「転倒注意」と太字。そうだ、いま私は“新品の鼻を搭載した初心者ドライバー”なのだ、ゆっくり歩こう。
ベッドに戻って腰を下ろすと、鼻の奥に詰めたガーゼの存在感がむくりと起き上がる。痛みというより、「小さなスポンジ栓」が鼻腔の壁にそっと寄りかかっている感じ。くしゃみをしたくなったらどうしよう、と一瞬焦るけれど、看護師さんの「くしゃみが出そうなら口を大きく開けて、やさしく逃がしてあげてくださいね」のアドバイスを思い出し、深呼吸でやり過ごした。ここで全力くしゃみをして栓がロケット発射でもしたら、朝から病室が宇宙開発事業。そうならなくてよかった。
しばらくすると、検温・血圧タイム。看護師さんが器用な手つきで袖をまくり、マンシェットを巻いてくれる。ギュッと締まる圧に合わせて、体のセンサーが順に起動していく感じがする。「痛みは10段階でいうと?」と聞かれ、「いまは3。鼻の中の“スポンジ栓・中サイズ”」と答えると、笑いながら記録してくれました。カルテにどう記されたかは謎です。
朝食は、やさしいラインナップ。重湯、煮物、少しの卵。湯気がふわっと立ち上がるのを見るだけで胃が目を覚ます。スプーン一杯ずつ時間をかけて口に運ぶ。喉の砂漠に、にわか雨が降る。味覚はちゃんと働いている。ああ、生活が帰ってくる音だ。点滴がコロコロと転がる音、配膳車の金属音、遠くで誰かの笑い声。病院の朝はBGMが多い。
日中は歩行の練習も兼ねて、廊下を一往復。壁の鏡に映る自分は、マスクの上からでも「慎重」の二文字。鼻に近づく風が怖くて、エレベーター前の空調は迂回。「今日は風なしコースでお願いします」と心のマップにルート設定。部屋へ戻る頃には、足の裏がひさしぶりの仕事に満足げでした。
午後、主治医の回診。
先生:「出血は落ち着いています。喉の痛みはもう少しで引きますよ」
自分:「鼻の奥の、この“スポンジ栓”感…」
先生:「明日以降、様子を見て一部抜きましょう。くしゃみと鼻かみだけは、まだ優しく」
正式名称はガーゼでも、私の中では“スポンジ栓”で定着。存在は控えめ、役割は堅実。まさに名脇役です。
こうして迎えた術後1日目の朝から夕方。恐れていた“血の海”は来ず、代わりにやってきたのは、渇いた喉と静かな胃の音、そして鼻セレブの安心感でした。点滴の滴下が少しずつ減り、体が内燃機関を再始動し始めるのが分かる。眠気も、痛みも、退屈も、すべてが回復の一部だと受け入れられる余裕が、ほんの少しだけ生まれました。私の一日は、重湯の湯気のようにゆっくり立ちのぼり、天井の模様の向こうに薄い青空を想像できるくらいには、明るかったのです。
——ただ、これが「嵐の前の静けさ」なのか、それとも順調な回復の序章なのか。
鼻の奥で静かに踏ん張る小さなスポンジ栓(=ガーゼの栓)が、その答えを握っているような気がしました。明日、栓が少し抜けたら、世界の音はどう聞こえるのだろう。鼻という小さなトンネルの向こうに、日常という光が、もううっすら見えている気がします。
何度か浅く眠っては目を覚まし、病室の天井の模様を数えているうちに、気がつけば朝になっていました。点滴ポールの車輪が時々コロ、と鳴り、廊下の足音が小さく遠のいていく。夜は長いのに、朝は急にやって来ます。ベッドのリクライニングを数ミリだけ上げると、背中の骨が「了解」と小さく音を立てる。体のあちこちが、現場復帰の準備運動をしている感じです。
術中の出血は少なかったらしく、寝ている間に血が喉へ流れてむせることは、ほとんどありませんでした。とはいえ、ふとした拍子に痰と混ざった鉄の味が喉に広がり、慌ててティッシュに吐き出す。ここで輝いたのが鼻セレブ。しっとり柔らかくて、口元が擦れてヒリヒリ…なんてことがない。術後の相棒として、これは大正解でした。課金してよかった。ティッシュの箱が、頼もしい補給車みたいに枕元で待機しています。
入院前、他の人のブログを読みすぎた私は「夜中に出血がひどく、血で溺れそうになる」という一文を何度も反すうして、不安のイメトレまでしていたのですが、実際のところ私の場合は拍子抜けするほど穏やか。鼻の奥でティッシュが小さくガッツポーズしている気がしました。「ほら、やれるじゃないか」と。過去の自分よ、検索の沼はほどほどに。
明け方、カーテン越しに看護師さんがそっと覗きます。
看護師:「おはようございます。昨夜から気になっていたのですが、トイレは大丈夫ですか?」
自分:「はい、大丈夫です。(声は出るようになってきたけど、喉が砂漠…)」
喉は相変わらず痛くて、声を出すと紙やすりを軽く撫でるような感覚。口呼吸が続くとこうなるのか、と体で学びます。枕元の水でうがいをし、軽く口を潤すと、声帯が「給水ありがとう」と言った気がしました。酸素飽和度を測るクリップが指をつまみ、「ピッ」と規則正しい音。機械に「生きてるね」と出席確認される朝です。
そしてイベント:尿道カテーテルを抜いてから、初めてのトイレ。
これがまた不思議でした。最初のひと押しで、なぜか「シュワッ」と空気が混じるような感覚がして、思わず「え?」と心の声。体内の配管の流速が変わったのか、新しい風洞実験でも始まったのか。二回目からは何事もなかったように通常運転へ。人体は賢い、そしてちょっとお茶目だ。戻る途中、病棟の掲示に「転倒注意」と太字。そうだ、いま私は“新品の鼻を搭載した初心者ドライバー”なのだ、ゆっくり歩こう。
ベッドに戻って腰を下ろすと、鼻の奥に詰めたガーゼの存在感がむくりと起き上がる。痛みというより、「小さなスポンジ栓」が鼻腔の壁にそっと寄りかかっている感じ。くしゃみをしたくなったらどうしよう、と一瞬焦るけれど、看護師さんの「くしゃみが出そうなら口を大きく開けて、やさしく逃がしてあげてくださいね」のアドバイスを思い出し、深呼吸でやり過ごした。ここで全力くしゃみをして栓がロケット発射でもしたら、朝から病室が宇宙開発事業。そうならなくてよかった。
しばらくすると、検温・血圧タイム。看護師さんが器用な手つきで袖をまくり、マンシェットを巻いてくれる。ギュッと締まる圧に合わせて、体のセンサーが順に起動していく感じがする。「痛みは10段階でいうと?」と聞かれ、「いまは3。鼻の中の“スポンジ栓・中サイズ”」と答えると、笑いながら記録してくれました。カルテにどう記されたかは謎です。
朝食は、やさしいラインナップ。重湯、煮物、少しの卵。湯気がふわっと立ち上がるのを見るだけで胃が目を覚ます。スプーン一杯ずつ時間をかけて口に運ぶ。喉の砂漠に、にわか雨が降る。味覚はちゃんと働いている。ああ、生活が帰ってくる音だ。点滴がコロコロと転がる音、配膳車の金属音、遠くで誰かの笑い声。病院の朝はBGMが多い。
日中は歩行の練習も兼ねて、廊下を一往復。壁の鏡に映る自分は、マスクの上からでも「慎重」の二文字。鼻に近づく風が怖くて、エレベーター前の空調は迂回。「今日は風なしコースでお願いします」と心のマップにルート設定。部屋へ戻る頃には、足の裏がひさしぶりの仕事に満足げでした。
午後、主治医の回診。
先生:「出血は落ち着いています。喉の痛みはもう少しで引きますよ」
自分:「鼻の奥の、この“スポンジ栓”感…」
先生:「明日以降、様子を見て一部抜きましょう。くしゃみと鼻かみだけは、まだ優しく」
正式名称はガーゼでも、私の中では“スポンジ栓”で定着。存在は控えめ、役割は堅実。まさに名脇役です。
こうして迎えた術後1日目の朝から夕方。恐れていた“血の海”は来ず、代わりにやってきたのは、渇いた喉と静かな胃の音、そして鼻セレブの安心感でした。点滴の滴下が少しずつ減り、体が内燃機関を再始動し始めるのが分かる。眠気も、痛みも、退屈も、すべてが回復の一部だと受け入れられる余裕が、ほんの少しだけ生まれました。私の一日は、重湯の湯気のようにゆっくり立ちのぼり、天井の模様の向こうに薄い青空を想像できるくらいには、明るかったのです。
——ただ、これが「嵐の前の静けさ」なのか、それとも順調な回復の序章なのか。
鼻の奥で静かに踏ん張る小さなスポンジ栓(=ガーゼの栓)が、その答えを握っているような気がしました。明日、栓が少し抜けたら、世界の音はどう聞こえるのだろう。鼻という小さなトンネルの向こうに、日常という光が、もううっすら見えている気がします。
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