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閑話・番外編
君が僕をつくる(後編)※先生視点
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自分の中にあるいちばん古い記憶を掘り返してみても、彼女の存在を感じることはない。
部屋で一人、布団に寝転んでなにかの図鑑を読んでいるか、ゲームをしている自分。お腹が減ればテーブルに置かれたクリームパンやジャムパンを食べて、ペットボトルのジュースを飲んだ。小学校に入る前の記憶だ。パンや飲み物(時には千円札)が補充されるのは僕が眠っている時なので姿を見ることはない。
今思えば風呂などはどうしていたのだろう。入り方を教わることはあったのか? 小学校に入る頃には確実に一人でシャワーを浴びていたが、あの頃ちゃんと入っていただろうか。
不潔にしていたのはあまり好ましくないなと思ったところで、嫌な記憶が思い浮かぶ。当時の自分は深く考えていなかったが、今ならわかる。あれは理不尽で自分勝手な感情をぶつけられていたと。
こんな面倒臭い話はしたくない、それよりもこの見事に赤とピンクに埋め尽くされた風呂の愉快さについて、君から僕が思いもしないような感想を聞きたい。普段なら確実にそちらのルートを選ぶし、今だってそちらに行きたい。
ビールを口にする。甘い花の香りの中で、その苦みが僕を正気に戻す。しかし身体が温まって血液の循環が良くなっているためにすぐに全身へアルコールがまわり、ほどよく気分もいい。ああ、なんとも変な感じだ。
「あの人は……背が伸びると、いつも怒った」
残りのビールを呷り、出雲にしがみつくように抱きしめた。
「あれは、何歳だったのだろう……誰か来て……僕の部屋に、来てね? こんなに大きいのにまだオムツなのかって。言ってた。そのあと、怒られた。僕が大きいせいで、変に思われた……って」
「そんな……」
「あれは何歳の時だろう。おかしな年齢……だったのかな」
出雲の腕がお湯の中に沈み、自分を抱く僕の腕を撫でる。可愛いだけじゃなくて、料理を作ってくれたり頭を撫でたりしてくれる優しい手だ。
「実際より、大きく見えたから……僕のせいで、振られたり……したんだって。あとは服も、すぐに合わなくなるのが、めんどくさい……とか」
靴のサイズが合わず踵を踏んで歩いたりしていたが、ある程度の年齢になるとお金を渡され自分で買うように言われた。しかし制服はそうもいかず、中学の時に制服の丈が途中から全然合わなくなってしまっても、また文句を言われて面倒臭いことになるのは分かっていたから無理矢理サイズの合わない制服を長いこと着ていた。そうしたら三年生になった時に担任の教師が哀れに思ったのか、卒業生の制服を内緒でくれたことがあった……しかし、あの人は制服が小さくなっていたことも、サイズがちょうど良くなったのも、制服が二着部屋にあったことも気がついてはいない。
「大きくなるたびに、怒られたな。また身長伸びたの、て。現在進行形で身長については苦労することも、あるし。僕も、好きで大きいわけじゃ……ないんだけど」
よく頭をぶつけるし、サイズの合う服はないし、すぐに蛍光灯の交換を頼まれるし。良い事のほうが少ない気がする。
「出雲も……一緒にお風呂入ると、足が邪魔って、言うし」
「いや、えっと、それは……ごめんなさい」
「ううん、いい。出雲のは可愛いから。にこにこ、してるから」
邪魔ですと軽くけしけしと蹴られるのは好きでさえある。声が穏やかだし、僕が仕返しに足でその体をぎゅっと挟むと声をころころと転がして笑うのがとても可愛い。
同じように文句を言っているのにここまで違う。不思議だ。表情やその前後の行動、声の高さや温度で同じ言葉も全く違うものになる。
僕にはその変化があまり理解できない。読み取るのは難しく、言葉の通り受け取ることの方が多い。あの人はとくに表情が薄く声も暗く単調で、何を考えているのかわからない。あの人以外のことだって、よく観察しなければ理解できないし、観察したってわからないことすらある。
それなのに。
出雲のうなじや後頭部を見ているだけで、悲しい気持ちにさせてしまった事がわかる。僕のために何か感じ、理解しようとしてくれている。自分はどうすればいいかを考えてくれている。首筋に頬を寄せると、とても温かい。
どうして君のことはちゃんとわかるのだろう。
君がわかりやすいから?
僕が君のことをよく見ているから?
君のことは全部知りたいと思っているから?
受け取る君の感情は優しいものばかりだから?
「先生に抱っこされるの好きです」
「うん?」
「先生のお膝に座らせてもらうのも好きです」
「うん」
「一緒に寝るとぎゅっと身体の全部が先生の体温と匂いに包まれて、気持ちがいいです」
「うん」
出雲を抱く僕の右手に指を絡めて握り、ばしゃっと音を立てて湯船から出すと、繋いだまま愛おしそうに僕の手の甲に口付けた。
「先生の大きな手で触れてもらうと……とっても安心します」
ちゅっ、ちゅっ、と何度もキスをされる。そして頬を擦り寄せるとまだ足りないというように、うっとりと後ろにいる僕にしなだれかかり、顎下にもキスをくれた。
「俺、小柄ではないですし……こんな風にして下さるの先生だけです。嬉しい……先生、大好きです。先生大きいから、たくさん甘えたくなってしまいます」
僕に寄りかかって見上げてくる顔は、肌はしっとり濡れて上気し、頬は赤く染って、濡れた髪も滴って。そんな可愛い顔をして、一生懸命に、大きいのは悪いことじゃないですよ、大きな先生が好きですよと伝えてくれる。
本当に実在しているのかを疑うほどに君は僕に優しくて、何でもしてくれて、愛をくれて、欲しがれば自分の身すら捧げてくれる。こんなに都合のいい君の存在をついつい疑いたくもなる。けれど抱きしめれば確実に出雲を感じることができる。
君はちゃんとここにいて、僕を愛してくれる。
「せ、せんせい、あの……」
「うん?」
「そっちは……大きくしなくていいですからっ……」
「うん? なんの話?」
密着して身体にキスされて無理な話だ。腰に擦り付けてやればぶるりと背中が震えるのが見てわかった。
「出雲は大きいの好き……だもんね?」
「やっ……もう、ダメです……お風呂出てから。んん……お酒も飲んでますし、危ないです」
「ええ……じゃあ……好きかどうか、だけ。教えて?」
「擦り付けちゃだめですってば……先生のばか」
お湯で濡れたわけではなく、内側から溢れ出したもので瞳は潤み、熱が上がる。愛おしくて目尻に口付け、ほんのり塩気のある涙を舐めとる。
「先生の大きいの、大好きです……そろそろ入れてほしいです」
「そろそろ……そうだね。近いうち、ね」
湯に溶け始めた薔薇の花びらよりもずっと甘い匂いが君から香る。君が僕の匂いに包まれているのも嬉しいけれど、僕もこの香りに包まれたい。あとで頭をたくさん抱きしめてもらおう。
君は小さくても僕のすべてを包んでくれるから。
※※※※
出雲を彼の自宅の最寄り駅まで送り届けたあと酒を取りにキッチンへ行くと、瓶に詰められたままのザワークラウトがキッチン台の奥に放置されているのが目に入った。キャベツ達は緑色が抜けて黄色くなり、ぷくぷくと気泡が出てきちんと発酵ができていることを教えてくれている。
瓶を開けると味付けには塩しか使ってない筈のキャベツから、きちんと酸味のある香りが放たれていた。そのままそこに箸を入れて食べようとして……そうだ取り皿に分けないと、と思い直して小皿を出す。こうしないと雑菌が繁殖するって出雲に怒られる。
分けたものを味見すると、酢漬けのようなガツンとした酸っぱさとはまた違う、舌に馴染む爽やかな酸味が鼻を抜ける。瓶の蓋を空けてガスを抜きながら発酵が進んでいますと胸を撫で下ろす出雲を思い出して、ちゃんと美味しくできたことを教えてやりたくなった。
登校日と卒業式……僕からあの子に会いに行くことはない。もしも訪ねてくれたならそれだけでも伝えよう。
いや、でも。
だからなんだと言うのだ。伝えればきっと出雲は良かったと安心して笑うだろう。でも僕が君の前で食べることはない。一緒に食べたかった、目の前で食べて欲しかったと、僕に言わずに一人飲みこみそうなあの子に、自己満足のためにそんな話をするのか?
やめよう……そう誓いながらも、この置き土産と一緒にドイツビールを飲もうと冷蔵庫を開けると、いくつかタッパーが入っていることに気がついた。ご丁寧に筑前煮、ひじきの煮物など一つ一つラベリングされている。野菜室を確認したら空になっていたので食材を残さないよう、僕が寝ている間に作ってくれたのだろう。冷凍庫には炒め物まで保管されていた。
正直に言うと、嫌だなと思った。
もう出雲はいないのに君の香りがまだ残る冷えた部屋で、一人で君の作ったものを食べるのはものすごく嫌だった。
キッチンのカウンターからリビングを眺める。皿を並べる姿や、片付ける姿、ソファに座ったまま僕を目で追う姿。今僕が立っているキッチンなど、それ以上に君の気配しかない。出雲がキッチンに立っているといつも美味しそうな匂いがする。誘われて来てつまみ食いをすると笑顔で注意される。調理中に抱きしめるとちょっと真面目に注意される。
もうそんなやり取りをすることもない。
僕はこの家でこれからも住んでいけるのだろうか? 寒い。出雲一人いなくなっただけのこの部屋がとても寒く感じる。君の体温はそこまで高かったかな。
ふとポケットに入れていたスマートフォンが震えるのを感じた。
お互いの連絡先は消したが、よく考えたら履歴までは消していない。出雲からだろうか、帰宅して家族となにかあっただろうかと確認すれば、心底どうでもいい、母親からだった。
「なに」
話すことなどもうないけれど、このどうしようもない気持ちが紛れるかもと電話をとる。やはり聞こえてくるのは抑揚の薄い声。
『送った』
「なに……」
『湯の雫……他にも入浴剤、いくつか』
「なんで」
『好きって言ってたでしょう……彼女、じゃなくて……彼氏ね。あなたの可愛い子』
この人はなぜこうなのだろう。これはきっと優しさなのだろう。でもはじめての優しさを見せるタイミングをここまで間違える人もいるだろうか。
「こうなって……付き合い続けると、思う? 無理、だよね? もうあの子はいない」
『別れたの……? 昨日は一緒にいたのに。仕事を辞めるのだから、付き合い続ければいいのに』
「うるさい。もう、何も送らないでって言った。連絡も、いらない。うっとおしい」
『そう。なら、そうするわ』
即通話は切られ、苛立ちからバンッと大袈裟な音を立ててキッチン台にスマートフォンを置いた。今回の荷物は受け取り拒否をしよう。いらない見たくない家に存在することも許したくない。
これまで受け流してきたどうでもよかったことを全て拒否したくなる。これまで本当にどうでも良かったのかすら怪しんでしまう。これまでの自分が全部否定される。
出雲が好きで好きで、僕だけのものにしたくて閉じ込めた時と同じだ。
どうして君は僕が築き上げたものを壊すの。君を得ても君を失っても、辛い。ただ、ただ、辛い。
何も知りたくなかった。一人で生きてきてそれで十分だったのに。
やっぱり僕は、君に出会いたくなかった。
END
部屋で一人、布団に寝転んでなにかの図鑑を読んでいるか、ゲームをしている自分。お腹が減ればテーブルに置かれたクリームパンやジャムパンを食べて、ペットボトルのジュースを飲んだ。小学校に入る前の記憶だ。パンや飲み物(時には千円札)が補充されるのは僕が眠っている時なので姿を見ることはない。
今思えば風呂などはどうしていたのだろう。入り方を教わることはあったのか? 小学校に入る頃には確実に一人でシャワーを浴びていたが、あの頃ちゃんと入っていただろうか。
不潔にしていたのはあまり好ましくないなと思ったところで、嫌な記憶が思い浮かぶ。当時の自分は深く考えていなかったが、今ならわかる。あれは理不尽で自分勝手な感情をぶつけられていたと。
こんな面倒臭い話はしたくない、それよりもこの見事に赤とピンクに埋め尽くされた風呂の愉快さについて、君から僕が思いもしないような感想を聞きたい。普段なら確実にそちらのルートを選ぶし、今だってそちらに行きたい。
ビールを口にする。甘い花の香りの中で、その苦みが僕を正気に戻す。しかし身体が温まって血液の循環が良くなっているためにすぐに全身へアルコールがまわり、ほどよく気分もいい。ああ、なんとも変な感じだ。
「あの人は……背が伸びると、いつも怒った」
残りのビールを呷り、出雲にしがみつくように抱きしめた。
「あれは、何歳だったのだろう……誰か来て……僕の部屋に、来てね? こんなに大きいのにまだオムツなのかって。言ってた。そのあと、怒られた。僕が大きいせいで、変に思われた……って」
「そんな……」
「あれは何歳の時だろう。おかしな年齢……だったのかな」
出雲の腕がお湯の中に沈み、自分を抱く僕の腕を撫でる。可愛いだけじゃなくて、料理を作ってくれたり頭を撫でたりしてくれる優しい手だ。
「実際より、大きく見えたから……僕のせいで、振られたり……したんだって。あとは服も、すぐに合わなくなるのが、めんどくさい……とか」
靴のサイズが合わず踵を踏んで歩いたりしていたが、ある程度の年齢になるとお金を渡され自分で買うように言われた。しかし制服はそうもいかず、中学の時に制服の丈が途中から全然合わなくなってしまっても、また文句を言われて面倒臭いことになるのは分かっていたから無理矢理サイズの合わない制服を長いこと着ていた。そうしたら三年生になった時に担任の教師が哀れに思ったのか、卒業生の制服を内緒でくれたことがあった……しかし、あの人は制服が小さくなっていたことも、サイズがちょうど良くなったのも、制服が二着部屋にあったことも気がついてはいない。
「大きくなるたびに、怒られたな。また身長伸びたの、て。現在進行形で身長については苦労することも、あるし。僕も、好きで大きいわけじゃ……ないんだけど」
よく頭をぶつけるし、サイズの合う服はないし、すぐに蛍光灯の交換を頼まれるし。良い事のほうが少ない気がする。
「出雲も……一緒にお風呂入ると、足が邪魔って、言うし」
「いや、えっと、それは……ごめんなさい」
「ううん、いい。出雲のは可愛いから。にこにこ、してるから」
邪魔ですと軽くけしけしと蹴られるのは好きでさえある。声が穏やかだし、僕が仕返しに足でその体をぎゅっと挟むと声をころころと転がして笑うのがとても可愛い。
同じように文句を言っているのにここまで違う。不思議だ。表情やその前後の行動、声の高さや温度で同じ言葉も全く違うものになる。
僕にはその変化があまり理解できない。読み取るのは難しく、言葉の通り受け取ることの方が多い。あの人はとくに表情が薄く声も暗く単調で、何を考えているのかわからない。あの人以外のことだって、よく観察しなければ理解できないし、観察したってわからないことすらある。
それなのに。
出雲のうなじや後頭部を見ているだけで、悲しい気持ちにさせてしまった事がわかる。僕のために何か感じ、理解しようとしてくれている。自分はどうすればいいかを考えてくれている。首筋に頬を寄せると、とても温かい。
どうして君のことはちゃんとわかるのだろう。
君がわかりやすいから?
僕が君のことをよく見ているから?
君のことは全部知りたいと思っているから?
受け取る君の感情は優しいものばかりだから?
「先生に抱っこされるの好きです」
「うん?」
「先生のお膝に座らせてもらうのも好きです」
「うん」
「一緒に寝るとぎゅっと身体の全部が先生の体温と匂いに包まれて、気持ちがいいです」
「うん」
出雲を抱く僕の右手に指を絡めて握り、ばしゃっと音を立てて湯船から出すと、繋いだまま愛おしそうに僕の手の甲に口付けた。
「先生の大きな手で触れてもらうと……とっても安心します」
ちゅっ、ちゅっ、と何度もキスをされる。そして頬を擦り寄せるとまだ足りないというように、うっとりと後ろにいる僕にしなだれかかり、顎下にもキスをくれた。
「俺、小柄ではないですし……こんな風にして下さるの先生だけです。嬉しい……先生、大好きです。先生大きいから、たくさん甘えたくなってしまいます」
僕に寄りかかって見上げてくる顔は、肌はしっとり濡れて上気し、頬は赤く染って、濡れた髪も滴って。そんな可愛い顔をして、一生懸命に、大きいのは悪いことじゃないですよ、大きな先生が好きですよと伝えてくれる。
本当に実在しているのかを疑うほどに君は僕に優しくて、何でもしてくれて、愛をくれて、欲しがれば自分の身すら捧げてくれる。こんなに都合のいい君の存在をついつい疑いたくもなる。けれど抱きしめれば確実に出雲を感じることができる。
君はちゃんとここにいて、僕を愛してくれる。
「せ、せんせい、あの……」
「うん?」
「そっちは……大きくしなくていいですからっ……」
「うん? なんの話?」
密着して身体にキスされて無理な話だ。腰に擦り付けてやればぶるりと背中が震えるのが見てわかった。
「出雲は大きいの好き……だもんね?」
「やっ……もう、ダメです……お風呂出てから。んん……お酒も飲んでますし、危ないです」
「ええ……じゃあ……好きかどうか、だけ。教えて?」
「擦り付けちゃだめですってば……先生のばか」
お湯で濡れたわけではなく、内側から溢れ出したもので瞳は潤み、熱が上がる。愛おしくて目尻に口付け、ほんのり塩気のある涙を舐めとる。
「先生の大きいの、大好きです……そろそろ入れてほしいです」
「そろそろ……そうだね。近いうち、ね」
湯に溶け始めた薔薇の花びらよりもずっと甘い匂いが君から香る。君が僕の匂いに包まれているのも嬉しいけれど、僕もこの香りに包まれたい。あとで頭をたくさん抱きしめてもらおう。
君は小さくても僕のすべてを包んでくれるから。
※※※※
出雲を彼の自宅の最寄り駅まで送り届けたあと酒を取りにキッチンへ行くと、瓶に詰められたままのザワークラウトがキッチン台の奥に放置されているのが目に入った。キャベツ達は緑色が抜けて黄色くなり、ぷくぷくと気泡が出てきちんと発酵ができていることを教えてくれている。
瓶を開けると味付けには塩しか使ってない筈のキャベツから、きちんと酸味のある香りが放たれていた。そのままそこに箸を入れて食べようとして……そうだ取り皿に分けないと、と思い直して小皿を出す。こうしないと雑菌が繁殖するって出雲に怒られる。
分けたものを味見すると、酢漬けのようなガツンとした酸っぱさとはまた違う、舌に馴染む爽やかな酸味が鼻を抜ける。瓶の蓋を空けてガスを抜きながら発酵が進んでいますと胸を撫で下ろす出雲を思い出して、ちゃんと美味しくできたことを教えてやりたくなった。
登校日と卒業式……僕からあの子に会いに行くことはない。もしも訪ねてくれたならそれだけでも伝えよう。
いや、でも。
だからなんだと言うのだ。伝えればきっと出雲は良かったと安心して笑うだろう。でも僕が君の前で食べることはない。一緒に食べたかった、目の前で食べて欲しかったと、僕に言わずに一人飲みこみそうなあの子に、自己満足のためにそんな話をするのか?
やめよう……そう誓いながらも、この置き土産と一緒にドイツビールを飲もうと冷蔵庫を開けると、いくつかタッパーが入っていることに気がついた。ご丁寧に筑前煮、ひじきの煮物など一つ一つラベリングされている。野菜室を確認したら空になっていたので食材を残さないよう、僕が寝ている間に作ってくれたのだろう。冷凍庫には炒め物まで保管されていた。
正直に言うと、嫌だなと思った。
もう出雲はいないのに君の香りがまだ残る冷えた部屋で、一人で君の作ったものを食べるのはものすごく嫌だった。
キッチンのカウンターからリビングを眺める。皿を並べる姿や、片付ける姿、ソファに座ったまま僕を目で追う姿。今僕が立っているキッチンなど、それ以上に君の気配しかない。出雲がキッチンに立っているといつも美味しそうな匂いがする。誘われて来てつまみ食いをすると笑顔で注意される。調理中に抱きしめるとちょっと真面目に注意される。
もうそんなやり取りをすることもない。
僕はこの家でこれからも住んでいけるのだろうか? 寒い。出雲一人いなくなっただけのこの部屋がとても寒く感じる。君の体温はそこまで高かったかな。
ふとポケットに入れていたスマートフォンが震えるのを感じた。
お互いの連絡先は消したが、よく考えたら履歴までは消していない。出雲からだろうか、帰宅して家族となにかあっただろうかと確認すれば、心底どうでもいい、母親からだった。
「なに」
話すことなどもうないけれど、このどうしようもない気持ちが紛れるかもと電話をとる。やはり聞こえてくるのは抑揚の薄い声。
『送った』
「なに……」
『湯の雫……他にも入浴剤、いくつか』
「なんで」
『好きって言ってたでしょう……彼女、じゃなくて……彼氏ね。あなたの可愛い子』
この人はなぜこうなのだろう。これはきっと優しさなのだろう。でもはじめての優しさを見せるタイミングをここまで間違える人もいるだろうか。
「こうなって……付き合い続けると、思う? 無理、だよね? もうあの子はいない」
『別れたの……? 昨日は一緒にいたのに。仕事を辞めるのだから、付き合い続ければいいのに』
「うるさい。もう、何も送らないでって言った。連絡も、いらない。うっとおしい」
『そう。なら、そうするわ』
即通話は切られ、苛立ちからバンッと大袈裟な音を立ててキッチン台にスマートフォンを置いた。今回の荷物は受け取り拒否をしよう。いらない見たくない家に存在することも許したくない。
これまで受け流してきたどうでもよかったことを全て拒否したくなる。これまで本当にどうでも良かったのかすら怪しんでしまう。これまでの自分が全部否定される。
出雲が好きで好きで、僕だけのものにしたくて閉じ込めた時と同じだ。
どうして君は僕が築き上げたものを壊すの。君を得ても君を失っても、辛い。ただ、ただ、辛い。
何も知りたくなかった。一人で生きてきてそれで十分だったのに。
やっぱり僕は、君に出会いたくなかった。
END
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