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目など塞げばそれでおしまい③
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時折漏れ出す艷やかな荒い吐息と微かな嬌声が、穏やかに耳から首の付け根まで浸透していって心地いい。
二人並んで横向きに寝転び、出雲の後ろから長いこと胸を弄んでいた。Tシャツの布越しに、揉むようにしたり、尖端を掠めたり、手のひらに伝わる暖かさや柔らかさ、そして心音が気持ち良くて落ち着く。さんざんイッてシャワーも浴びた当の本人は、されるがままにぐったりと深くベッドに身を沈めて大人しくしている。それでも足首を僕のふくらはぎに引っ掛けるように絡めて甘えてくるのが可愛い。
しかし枕元に設置された有線放送や照明を操作するパネルが午後四時を表示しているのを見ると、ベッドに手をついて怠そうに上半身を起こした。
「行かなきゃ……」
ベッドから離れようとする出雲の手首を掴む。
「行かせたく、ないな」
ベッドから床に足を下ろしながらも、こちらに振り返る。出雲は片方の眉を下げて笑い、僕の頭にそっと手を置いた。
「出勤すると言ってしまいましたから。行ってきますね。お迎えに来てくださるのとても楽しみです」
あの時間は車通りが少ないので店の前に停めて連絡いただければ大丈夫ですよと、事務的な話をしながら再び離れようとする出雲の手首を、そのまま引き寄せてやや強引に振り向かせた。
見つめ合えば、まだ視線がぽうっとしている。顎を撫でると、あ、と目を閉じて、悩ましく唇から舌を覗かせた。まだ身体の芯に熱が残ってる。
「やだ」
「約束でしょう?」
「うん……」
僕も起き上がって、すでにベッドサイドに立っていた出雲の腰を抱き寄せ、薄い身体をしているのにふんわりと柔らかい胸に顔を埋める。
瞼を下ろすと“いってらっしゃい”と寝ぼけ眼の……でも、ちゃんと笑顔で送ってくれた出雲の姿が浮かぶ。一人であの部屋で待ってくれていた君だ。
「昔とは逆ですね」
出雲も同じことを思い出していたようで、思いを馳せるように遠い声で呟いた。
「うん」
「見送る気分はどうですか?」
「ん……すごく、さみしい」
「水泡さん」
僕を呼ぶ声はとても好きな音だったけれど、返事が出なかった。拗ねて黙る僕にふふっと笑う声が羽毛のように落ちてくる。
「俺たち、やっと恋人になれたんですもんね。このやりとり、すごくそれっぽくないですか? 寂しいけど、俺はちょっとときめきます。こういうの」
目線を上げると、はにかんで横目を向いたり、上目遣いに僕を見つめるそわそわとした顔があって。愛しさに頭を撫で、髪を指で梳きながら下を向かせる。頬を紅潮させながらも母性の象徴のような微笑みを浮かべて首を傾げる君と視線を絡ませ、温かい唇に口づけた。舌は入れず、お互いの唇をついばんでは優しく吸う。
「いってらっしゃい」
唇を離してやっと出た見送る言葉に出雲は、眉を下げて少し寂しそうに微笑んだ。
「いってきます」
名残惜しくて握ったままの手首がするっと抜けて、離れていく。その様子から漠然とした不安が湧き上がってきて、準備する後ろ姿を眺めていられずベッドに潜った。
足音、布ズレ、蛇口をひねる音、水の流れる音、蛇口を締める音……出雲の出す音に耳を澄ましていたら、足音がまたこちらに近づいてくる。布団の上からぽんぽんと背中を叩かれ、いってきますと、もう一度挨拶をしてくれた。そして慌ただしい足音が離れていくと、ギイギイと立て付けの良くない扉が閉まる重苦しい音が最後に部屋を揺らす。
この後すぐに、出雲はあの店に足を踏み入れる。
あの男に挨拶をして笑顔を向けて、それから。
考えなければいいのに二人が親しげに並ぶ後ろ姿が浮かんでしまってどうしようもなかった。キッチン業務を担っているのはあの二人なのだから、仕事上でも密なやり取りをするのは当然で。彼から逃げてきたばかりで一体どんな顔をして向き合っているのか想像もできず、底知れない不安に鳩尾あたりがギューッと締め付けられるように苦しくなった。
ベッドの中にはまだ出雲の香りも体温も残っていて、感傷的になって目頭が熱くなってしまう。鼻の付け根がツンと痛い。
それにしても胸がざわめく。この奥底から広がっていく影のような不安は嫉妬によるものだけだろうか。こうして布団に潜っているとただ真っ暗でここがどこだったのか忘却しそうになる……まるで、いくら辺りを見回しても陸の見えない、だだっ広い海面に一人で投げ出されてしまったかのような心細さ。
出雲への独占欲が事態を重く捉えすぎているのかもしれない。しかし出雲と彼のことを考えないようにと意識したら、出雲が去っていく音が暗闇の中で蘇ってきて、その影はますます大きくなった。
瞬きをすると、一瞬、古い記憶のような靄のかかったどこかの部屋の片隅、あれは天井の角だろうか、その切り取られた一瞬が瞼の裏に写り込んで、足音と扉の閉まる音が鼓膜ではなく、脳の奥底に響いた。
わけもわからずゾッとして、部屋を流れる有線放送へ慎重に耳を傾ける。それからこのホテルの部屋の内装、出雲と窮屈に座ったソファーや玄関にかかったコートなんかを頭の中でイメージして、もぞもぞと布団から這い出した。
枕元にある煙草に手を伸ばし、寝転んだままライターで火を付ける。
肺にざらりとした有害な化学物質を落とし込んで、煙を吐き出す……それでようやっと、起き上がることができた。
顔にかかるうっとおしく乱れた髪をかきあげて、まぶたを擦る。
部屋を見回してさっき自分がイメージした通りの光景に安心感を覚えた。
閉店時間を少し過ぎた頃に合わせて、店の前に車を停める。電話をしてみたがまだ作業中なのか出ることはなく、待ってるとメッセージを入れておいた。
手持ち無沙汰をごまかすために、バーのSNSをチェックする。今日出勤している従業員が並ぶ写真の左端に出雲が写っている。撮影者は恐らく店長だろう。
ハンドルにもたれ、水曜日に来店しては開けた、もう開けることはないかもしれない扉をじっと見据える……一人で出てくるだろうか。彼も付き添ってくるだろうか。結局、相手の反応がまったく見えてこない。どんな話があって、どのように帰ってきたんだか。
探らなければいけないと思うが、出雲自身がのらりくらりとかわしているのをしつこく追うほどの情熱は持てなかった。知ってはいけない事実があるかもしれない。
あれこれと考えていたら、連絡の返事が来る前に扉が開かれ人が出てきた。二人連れのうち一人は出雲だったが、出雲よりも少し背の低い男性従業員に肩を抱かれ寄りかかり、ふらふらとおぼつかない足取りだった。今にも転びそうでヒヤヒヤとする。
連れている男がこちらを指差し“あの車か?”と聞いている様子だったので、すぐこちらに来るだろうとは思った。しかし心配だし、何より他の人間の肩を借りているのが気に入らなかったので、車を降りて出雲の元へ駆け寄る。
「あっ、みなわさん! みなわさん、みなわさんです」
視界に僕の姿を捉えた瞬間、出雲はパァッと夜道を明るくしてしまいそうなほどの笑顔を咲かせ、両手を広げて勢いよく僕の胸に飛び込んできた。へにゃへにゃと笑いながら僕に顔面をぐりぐりと擦りつけ、自分で立つ気もなく完全にこちらに身体を預けてもたれかかるその様子は、どこからどう見ても酔っ払いである。
黒シャツに同色のスラックスとギャルソンエプロンという仕事着のまま、昼間着ていたのと同じコーチジャケットを羽織っているが、同僚と思われる男は私服なので、着替えもままならない状態なのだろう。
「カズキさんカズキさん、みなわさんです。とっても素敵でしょう?」
「てか彼氏ってお客さんじゃん。びっくりした。キョウくんお客さんと付き合ってるん?」
「ええ? お客さんじゃないですよぉ……みなわさんは先生です」
「何言ってんだよ、酔っぱらい。水泡さん? よく水曜に来てくれてますよねー?」
むくれる出雲に笑いかけ、僕を見上げて同意を求めてくる男の顔を僕は覚えていなかった。店に行っても店長と話したのしか覚えていない。
「カズキさん接客してたんですかぁ……? いいなぁ、俺も接客したかったぁ……」
羨ましがる出雲の頭部に、男の手が伸びる。
「よしよし、今度また店来てもらいなよ。ね。彼氏だって内緒にしておくんで今度ぜひ――」
彼が言い終わる前に僕は出雲に触れるその手を裏手で振り払った。肩を貸すというのは必要なことだったのだろうが、不必要に触れないでほしい。触れられたあたりを抱えるように撫で、牽制の意味もこめて目線だけ落として見下した。
手を払われた瞬間は目を剥いていたが、彼は口の端をくいっと引き上げた下卑た笑いを見せた。そして「まいったな」と笑って会釈をし、夜の街へ紛れていく。
「あれ……カズキさんは?」
僕の胸からひょこっと顔を上げて聞く出雲をぎゅうっと抱きしめ、「帰ったよ」「僕達も帰ろう」と苛立つ気持ちを隠すように優しく囁いた。
出雲は頷きながらも僕を見上げる。小さい顎が肌に食い込む。
「でも、あの、待ってください。いま荷物を……」
「あらこの光景、見覚えあるわね」
調子のいい低音に不思議と馴染む女性のような喋り言葉。聞き慣れたその声に目を向ければ、カズキという男よりもよほどカラッとした笑顔を向けて店長の路彦が扉の前に立っていた。
よいしょ、と声を漏らしながら出雲のものと思われるトートバッグと上質紙でできた(ブランドのロゴが印字されている)大きな紙袋を持って近づいてくる。
「トランク開けていい? 持って帰るって言ってた荷物と、着てきたお洋服詰めてきたわ」
彼の態度はなにも知らないのかと勘違いしそうになるほど自然で、出雲を連れ去る寸前にやり取りをした時のほうがよほど敵意があったと思うほどであった。こちらは喉が絞まるような気持ちでいるのに、余裕のない自分を嘲笑われているようで面白くなかった。
質問をされたのに答えずじっと自分を見つめている僕に、彼はなおも微笑む。
「なによ怒ってるの? あんたに怒るなら僕のほうかと思うんだけどね。僕と身体の関係持つようにけしかけといて、気が変わって勝手に連れて帰っちゃうんだから。馬鹿にされたもんよね。全部かは知らないけど、色々と聞いたのよ。先生?」
声音も普段どおり、笑顔に陰りもない。淡々とただ事実を話す。
接客を生業とする人間はこうなのだろうか? 感情が読み取れず僕が一番嫌いな態度と話し方だ。
「君の出雲の扱いは……酷いものだった。君には任せられない」
「抱けと言われたからそうしたのよ。それにあんたのほうが酷いんじゃない? もう勝手にトランク開けるわよ」
目もろくに合わせず世間話でもするかのように話して、トランクに荷物を入れる。長身の足元は今日もパンツスタイルだったが、ヒールの高いブーツは相変わらずだった。出雲と揃いのギャルソンエプロンにシンプルなロングTシャツは少し出てきただけとはいえ十二月の夜には寒そうで、口元から白い息があがっている。
「さすがに上着なしじゃ寒いわね。出雲くん、ちょっとこっち来なさいよ。暖をとらせてちょうだい」
「だめに、決まってるでしょ」
「あんたに言ってないの」
「だめ」
出雲を抱く手を強めたら、腕の中でその細い体がぎゅっと身を縮めたのが伝わってきた。
「出雲くんも? だめなの?」
気味が悪いほど甘い声に(子供に菓子をあげるという悪い大人みたいだ)、出雲は頷いた。さっきまでへらへらとしていたのに小さくなってなんとも大人しい。しかし出雲はそれだけで済ますのではなく、そろりと手を差し出して、路彦の手を握った。
「あら……あったかいおててね」
目を細めて自分の手を包む華奢な手を、親指で撫でる……僕はその手もすぐに引っ込ませようとしたが、彼は出雲の手に視線を下ろしたまま、これまでで初めて重苦しい声を出した。
「ねぇ……あんた、高校卒業してからずっと、あんたのこと待ってたこの子を知らんぷりしてたんでしょ……自分では幸せにしてやる自身もなくて、僕にこの子を委ねようと思っていたんでしょ」
出雲の肘を持って腕を引く。しかし彼は意地でも手を離さなかった。
「なら、ちょうだいよ。捨てたんでしょ。ちょうだいよ」
二人並んで横向きに寝転び、出雲の後ろから長いこと胸を弄んでいた。Tシャツの布越しに、揉むようにしたり、尖端を掠めたり、手のひらに伝わる暖かさや柔らかさ、そして心音が気持ち良くて落ち着く。さんざんイッてシャワーも浴びた当の本人は、されるがままにぐったりと深くベッドに身を沈めて大人しくしている。それでも足首を僕のふくらはぎに引っ掛けるように絡めて甘えてくるのが可愛い。
しかし枕元に設置された有線放送や照明を操作するパネルが午後四時を表示しているのを見ると、ベッドに手をついて怠そうに上半身を起こした。
「行かなきゃ……」
ベッドから離れようとする出雲の手首を掴む。
「行かせたく、ないな」
ベッドから床に足を下ろしながらも、こちらに振り返る。出雲は片方の眉を下げて笑い、僕の頭にそっと手を置いた。
「出勤すると言ってしまいましたから。行ってきますね。お迎えに来てくださるのとても楽しみです」
あの時間は車通りが少ないので店の前に停めて連絡いただければ大丈夫ですよと、事務的な話をしながら再び離れようとする出雲の手首を、そのまま引き寄せてやや強引に振り向かせた。
見つめ合えば、まだ視線がぽうっとしている。顎を撫でると、あ、と目を閉じて、悩ましく唇から舌を覗かせた。まだ身体の芯に熱が残ってる。
「やだ」
「約束でしょう?」
「うん……」
僕も起き上がって、すでにベッドサイドに立っていた出雲の腰を抱き寄せ、薄い身体をしているのにふんわりと柔らかい胸に顔を埋める。
瞼を下ろすと“いってらっしゃい”と寝ぼけ眼の……でも、ちゃんと笑顔で送ってくれた出雲の姿が浮かぶ。一人であの部屋で待ってくれていた君だ。
「昔とは逆ですね」
出雲も同じことを思い出していたようで、思いを馳せるように遠い声で呟いた。
「うん」
「見送る気分はどうですか?」
「ん……すごく、さみしい」
「水泡さん」
僕を呼ぶ声はとても好きな音だったけれど、返事が出なかった。拗ねて黙る僕にふふっと笑う声が羽毛のように落ちてくる。
「俺たち、やっと恋人になれたんですもんね。このやりとり、すごくそれっぽくないですか? 寂しいけど、俺はちょっとときめきます。こういうの」
目線を上げると、はにかんで横目を向いたり、上目遣いに僕を見つめるそわそわとした顔があって。愛しさに頭を撫で、髪を指で梳きながら下を向かせる。頬を紅潮させながらも母性の象徴のような微笑みを浮かべて首を傾げる君と視線を絡ませ、温かい唇に口づけた。舌は入れず、お互いの唇をついばんでは優しく吸う。
「いってらっしゃい」
唇を離してやっと出た見送る言葉に出雲は、眉を下げて少し寂しそうに微笑んだ。
「いってきます」
名残惜しくて握ったままの手首がするっと抜けて、離れていく。その様子から漠然とした不安が湧き上がってきて、準備する後ろ姿を眺めていられずベッドに潜った。
足音、布ズレ、蛇口をひねる音、水の流れる音、蛇口を締める音……出雲の出す音に耳を澄ましていたら、足音がまたこちらに近づいてくる。布団の上からぽんぽんと背中を叩かれ、いってきますと、もう一度挨拶をしてくれた。そして慌ただしい足音が離れていくと、ギイギイと立て付けの良くない扉が閉まる重苦しい音が最後に部屋を揺らす。
この後すぐに、出雲はあの店に足を踏み入れる。
あの男に挨拶をして笑顔を向けて、それから。
考えなければいいのに二人が親しげに並ぶ後ろ姿が浮かんでしまってどうしようもなかった。キッチン業務を担っているのはあの二人なのだから、仕事上でも密なやり取りをするのは当然で。彼から逃げてきたばかりで一体どんな顔をして向き合っているのか想像もできず、底知れない不安に鳩尾あたりがギューッと締め付けられるように苦しくなった。
ベッドの中にはまだ出雲の香りも体温も残っていて、感傷的になって目頭が熱くなってしまう。鼻の付け根がツンと痛い。
それにしても胸がざわめく。この奥底から広がっていく影のような不安は嫉妬によるものだけだろうか。こうして布団に潜っているとただ真っ暗でここがどこだったのか忘却しそうになる……まるで、いくら辺りを見回しても陸の見えない、だだっ広い海面に一人で投げ出されてしまったかのような心細さ。
出雲への独占欲が事態を重く捉えすぎているのかもしれない。しかし出雲と彼のことを考えないようにと意識したら、出雲が去っていく音が暗闇の中で蘇ってきて、その影はますます大きくなった。
瞬きをすると、一瞬、古い記憶のような靄のかかったどこかの部屋の片隅、あれは天井の角だろうか、その切り取られた一瞬が瞼の裏に写り込んで、足音と扉の閉まる音が鼓膜ではなく、脳の奥底に響いた。
わけもわからずゾッとして、部屋を流れる有線放送へ慎重に耳を傾ける。それからこのホテルの部屋の内装、出雲と窮屈に座ったソファーや玄関にかかったコートなんかを頭の中でイメージして、もぞもぞと布団から這い出した。
枕元にある煙草に手を伸ばし、寝転んだままライターで火を付ける。
肺にざらりとした有害な化学物質を落とし込んで、煙を吐き出す……それでようやっと、起き上がることができた。
顔にかかるうっとおしく乱れた髪をかきあげて、まぶたを擦る。
部屋を見回してさっき自分がイメージした通りの光景に安心感を覚えた。
閉店時間を少し過ぎた頃に合わせて、店の前に車を停める。電話をしてみたがまだ作業中なのか出ることはなく、待ってるとメッセージを入れておいた。
手持ち無沙汰をごまかすために、バーのSNSをチェックする。今日出勤している従業員が並ぶ写真の左端に出雲が写っている。撮影者は恐らく店長だろう。
ハンドルにもたれ、水曜日に来店しては開けた、もう開けることはないかもしれない扉をじっと見据える……一人で出てくるだろうか。彼も付き添ってくるだろうか。結局、相手の反応がまったく見えてこない。どんな話があって、どのように帰ってきたんだか。
探らなければいけないと思うが、出雲自身がのらりくらりとかわしているのをしつこく追うほどの情熱は持てなかった。知ってはいけない事実があるかもしれない。
あれこれと考えていたら、連絡の返事が来る前に扉が開かれ人が出てきた。二人連れのうち一人は出雲だったが、出雲よりも少し背の低い男性従業員に肩を抱かれ寄りかかり、ふらふらとおぼつかない足取りだった。今にも転びそうでヒヤヒヤとする。
連れている男がこちらを指差し“あの車か?”と聞いている様子だったので、すぐこちらに来るだろうとは思った。しかし心配だし、何より他の人間の肩を借りているのが気に入らなかったので、車を降りて出雲の元へ駆け寄る。
「あっ、みなわさん! みなわさん、みなわさんです」
視界に僕の姿を捉えた瞬間、出雲はパァッと夜道を明るくしてしまいそうなほどの笑顔を咲かせ、両手を広げて勢いよく僕の胸に飛び込んできた。へにゃへにゃと笑いながら僕に顔面をぐりぐりと擦りつけ、自分で立つ気もなく完全にこちらに身体を預けてもたれかかるその様子は、どこからどう見ても酔っ払いである。
黒シャツに同色のスラックスとギャルソンエプロンという仕事着のまま、昼間着ていたのと同じコーチジャケットを羽織っているが、同僚と思われる男は私服なので、着替えもままならない状態なのだろう。
「カズキさんカズキさん、みなわさんです。とっても素敵でしょう?」
「てか彼氏ってお客さんじゃん。びっくりした。キョウくんお客さんと付き合ってるん?」
「ええ? お客さんじゃないですよぉ……みなわさんは先生です」
「何言ってんだよ、酔っぱらい。水泡さん? よく水曜に来てくれてますよねー?」
むくれる出雲に笑いかけ、僕を見上げて同意を求めてくる男の顔を僕は覚えていなかった。店に行っても店長と話したのしか覚えていない。
「カズキさん接客してたんですかぁ……? いいなぁ、俺も接客したかったぁ……」
羨ましがる出雲の頭部に、男の手が伸びる。
「よしよし、今度また店来てもらいなよ。ね。彼氏だって内緒にしておくんで今度ぜひ――」
彼が言い終わる前に僕は出雲に触れるその手を裏手で振り払った。肩を貸すというのは必要なことだったのだろうが、不必要に触れないでほしい。触れられたあたりを抱えるように撫で、牽制の意味もこめて目線だけ落として見下した。
手を払われた瞬間は目を剥いていたが、彼は口の端をくいっと引き上げた下卑た笑いを見せた。そして「まいったな」と笑って会釈をし、夜の街へ紛れていく。
「あれ……カズキさんは?」
僕の胸からひょこっと顔を上げて聞く出雲をぎゅうっと抱きしめ、「帰ったよ」「僕達も帰ろう」と苛立つ気持ちを隠すように優しく囁いた。
出雲は頷きながらも僕を見上げる。小さい顎が肌に食い込む。
「でも、あの、待ってください。いま荷物を……」
「あらこの光景、見覚えあるわね」
調子のいい低音に不思議と馴染む女性のような喋り言葉。聞き慣れたその声に目を向ければ、カズキという男よりもよほどカラッとした笑顔を向けて店長の路彦が扉の前に立っていた。
よいしょ、と声を漏らしながら出雲のものと思われるトートバッグと上質紙でできた(ブランドのロゴが印字されている)大きな紙袋を持って近づいてくる。
「トランク開けていい? 持って帰るって言ってた荷物と、着てきたお洋服詰めてきたわ」
彼の態度はなにも知らないのかと勘違いしそうになるほど自然で、出雲を連れ去る寸前にやり取りをした時のほうがよほど敵意があったと思うほどであった。こちらは喉が絞まるような気持ちでいるのに、余裕のない自分を嘲笑われているようで面白くなかった。
質問をされたのに答えずじっと自分を見つめている僕に、彼はなおも微笑む。
「なによ怒ってるの? あんたに怒るなら僕のほうかと思うんだけどね。僕と身体の関係持つようにけしかけといて、気が変わって勝手に連れて帰っちゃうんだから。馬鹿にされたもんよね。全部かは知らないけど、色々と聞いたのよ。先生?」
声音も普段どおり、笑顔に陰りもない。淡々とただ事実を話す。
接客を生業とする人間はこうなのだろうか? 感情が読み取れず僕が一番嫌いな態度と話し方だ。
「君の出雲の扱いは……酷いものだった。君には任せられない」
「抱けと言われたからそうしたのよ。それにあんたのほうが酷いんじゃない? もう勝手にトランク開けるわよ」
目もろくに合わせず世間話でもするかのように話して、トランクに荷物を入れる。長身の足元は今日もパンツスタイルだったが、ヒールの高いブーツは相変わらずだった。出雲と揃いのギャルソンエプロンにシンプルなロングTシャツは少し出てきただけとはいえ十二月の夜には寒そうで、口元から白い息があがっている。
「さすがに上着なしじゃ寒いわね。出雲くん、ちょっとこっち来なさいよ。暖をとらせてちょうだい」
「だめに、決まってるでしょ」
「あんたに言ってないの」
「だめ」
出雲を抱く手を強めたら、腕の中でその細い体がぎゅっと身を縮めたのが伝わってきた。
「出雲くんも? だめなの?」
気味が悪いほど甘い声に(子供に菓子をあげるという悪い大人みたいだ)、出雲は頷いた。さっきまでへらへらとしていたのに小さくなってなんとも大人しい。しかし出雲はそれだけで済ますのではなく、そろりと手を差し出して、路彦の手を握った。
「あら……あったかいおててね」
目を細めて自分の手を包む華奢な手を、親指で撫でる……僕はその手もすぐに引っ込ませようとしたが、彼は出雲の手に視線を下ろしたまま、これまでで初めて重苦しい声を出した。
「ねぇ……あんた、高校卒業してからずっと、あんたのこと待ってたこの子を知らんぷりしてたんでしょ……自分では幸せにしてやる自身もなくて、僕にこの子を委ねようと思っていたんでしょ」
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