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04 ハンプティ・ダンプティは笑う ②

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 部屋に戻り、パソコンで動画を再生する。勉強以外のことをするのはひさしぶり。

〈モザイクの歴史〉

 一瞬いかがわしい方向で想像してしまったことを許してほしい。高校生男子はThis video has been deletedで英文法を学び、大人になっていくのだ。

『モザイクは、紀元前3500年から3000年頃、シュメール時代が起源と言われています』

 品のいい男性がナビゲートしてくれる。

 円錐形の彩色土器や石を使って神殿を装飾したコーン・モザイク。貝殻、赤い石灰岩、青いラピスラズリ等を用い、軍隊の行進や饗宴を描いたウルのスタンダード。古代エジプトの色タイルで装飾されたピラミッドの墓室の壁、マケドニア王国のモザイク画、古代ローマの時代のモザイクで飾られた床。

 ヘレニズム時代にモザイクの技法を活用した具象的な絵画が出現し、東ローマ帝国時代にはキリスト教の非常に優れたモザイク画が多数作られた。ロシアでは正教会の教会や宮殿に、イスラム建築でも唯一神アラーを象徴するアラベスク模様に、モザイク装飾が使われている。

 色鮮やかなモザイクが次々と紹介され、なんだか圧倒された。ひさしぶりに綺麗なものを見た。
 いかがわしい方のせいで、モザイクはもやがかかるイメージがあったけど、本来、材料を組み合わせて絵や模様を描くものだ。宗教美術に多用されたのも、きっと、心の拠り所を美しく彩りたかったからなんだろう。
 心に靄がかかったようだなんて思っていたけれど。俺の心模様は今、どうなっているのだろう。

 動画を見終わって小一時間経った頃、姉さんから豆ごはんができたよと声を掛けられた。
 ツタンカーメンのえんどう豆は嘘だったけど、豆ごはんはとてもおいしかった。



 その夜、夢を見た。

 俺はガラスでできた卵を持っていた。
 角度を変えると色とりどりに輝いて、青が見えたり、金が見えたり、紫が見えたり、緑が見えたり。なによりも大切な宝物。なのに、俺は手を滑らせて、卵を落としてしまう。

 美しかったガラスは無残に割れて、ただのゴミになった。

 箒で掃いて、ちりとりで受ける。ゴミ箱に捨てればおしまい。
 でも、ガラスの破片は、砕けてもきらきらと美しく輝いていて。俺はどうしても捨てることができなかった。

 夢の中の俺は、軍手をはめ、ちりとりの中から破片だけを丁寧に取り出した。
 粉々に砕けてしまったから、元の形に戻すことはできない。戻すつもりもない。
 大きすぎる破片は、かなづちをそっと振り下ろして、更に砕いた。ちょうどいい大きさになるように。

 俺は塀に漆喰しっくいを塗り、ピンセットで破片を埋めていく。形が、色が、綺麗に見えるように吟味しながら。塀に全ての破片を埋め終えた時、とても綺麗な絵を描くことができて、俺は満足した。
 青空の下ですくすく育つ、ツタンカーメンのえんどう豆の絵。

 朝起きた時の、妙な気分といったらなかった。象徴的な夢。
 壊れたものを元に戻すことはできない。でも。割り切れなかった気持ちが少しすっきりした。



 ◇◇◇



 それからも受験生の日々は勉強一色だ。
 ただ、マクレガー家を故意に避けることはやめた。大人になりたいという言葉とうらはらに、大人げない態度だと思ったから。たまにエミリーと遭遇したら頭を下げる、その程度しかできなかったけれど。

 二月の半ば、国公立の二次試験まであと十日ほど。自由登校になっているので自宅で勉強していると、来客を告げるチャイムが鳴った。母さんは不在。居留守を使ってもよかったけれど、気分転換がてら玄関のドアを開けた。

「はい」
「や……」
「……エ」

 お互い、まさか会うと思っていなかったから、固まってしまう。
 こんなに近くで見るエミリーはひさしぶり。白いロングコートに、黒いブーツ。まとめ髪にリボン。赤い手袋をはめた手には、金のロゴが入った白い紙袋。
 震える手で、紙袋を差し出される。

「バレンタインだから、大和くんに」
「義理にしては高級な……」

 領民のために、全裸で馬に乗り行進した、誇り高き領主夫人。その伝説から名前をつけられたチョコレートメーカーの紙袋。
 夫人の姿が美しく描かれた絵を、合法的に鑑賞できるネタという目で見てしまった、高校生男子を許してほしい。ピーピング・トム。お世話になりました。
 そんなくだらないことを考えていたから、うっかり聞き逃しそうになった。

「義理じゃないよ」

 思わず目を向けると、エミリーは涙をこらえるように唇を噛み締めている。ゴダイヴァ夫人を彷彿とさせる表情。やっぱりどことなく、似てる。

「義理じゃない」

 呼び出されたあの日。俺は期待してしまったんだ。いつも動くのは俺で、エミリーから誘ってくれることなんて、それまでなかったから。

 壊れたものを元に戻すことはできない。けれど、エミリーの髪も瞳も、やっぱり綺麗で。

「ありがとう」

 差し出された紙袋を、ようやく受け取る。

「俺、絶対合格するから」

 俺が今、なすべきことは、それだけだ。
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