232 / 352
第九章 青天にいかずちが落ちる
231 ああ、素晴らしい新世界 ⑥
しおりを挟む
「……もし勝ちに行くんだったら、誰を選んだの? バロックと古典派とロマン派と近現代」
玲美ちゃんが淡々と訊ねる。このコンクールでは四つの時代区分ごとに課題曲があり、それぞれ一曲ずつ選択することになっていた。空くんは少し苦笑して答える。
「バロックはスカルラッティ、古典派はモーツァルト、ロマン派はショパン、近現代はラフマニノフかな。選択肢の中でなるべく派手な技巧が多めで、ウケのいい曲を選ぶ」
空くんが実際に選んだのは、バロックがバッハ、古典派はベートーヴェン、ロマン派はリスト、近現代はバルトークだった。なんとなくだけど、空くん本人が得意だと申告した作曲家よりも、少し硬派できっちりしたタイプの作曲家が並んでいる気がする。単純に作曲家だけではなくて、空くん自身も言っていた通り、コンクールに不向きな曲もあるだろうし。
「特にベートーヴェンは、苦悩で塗り固められた中に垣間見える美しさを表現するのがすごく難しくて。シューベルトみたいに綺麗に昇華してひたすら美しい調べにしていたら、まだ表現しやすい気がするんだけど。シェイクスピアの『テンペスト』も読んでみたけど、戯曲難しかった……」
「もしかして、弟子のアントン・シンドラーがこの曲の解釈を訊ねた時に『シェイクスピアの「テンペスト」を読め』とベートーヴェンから返されたって話?」
「そう」
玲美ちゃんは少しあきれたようにため息を吐く。
「それ、今では嘘だっていうのが定説になってるよ。シンドラーはベートーヴェンを美化するために、資料を改竄や捏造してるので有名」
「ええっ?! 僕、すごく苦労して読んだのに……」
「もっと勉強しなさいよ」
「はあい……」
しゅんとする空くんに、舞台上での堂々とした振る舞いは影も形もない。
「でも、本当は関係ないかもしれないけど、『テンペスト』、不思議と合ってるよね」
「まあ、嘘とはいえ、キャッチーで、妙な説得力があるから、長いこと流布したんだろうし」
「僕、第三楽章のつかのまの優しい長調の部分、主人公の娘ミランダの有名な台詞をイメージして弾いたんだ。耳が聞こえなくなって、孤独感にさいなまれていたベートーヴェンが、人との交流に憧れた気持ちと通じるかなと思って」
「へえ。どんな台詞?」
お兄ちゃんが訊ねると、空くんは歌うように朗々と諳んじた。
「ああ、不思議だわ! ここにはなんてたくさんの素敵な人達がいるのかしら! 人間はなんと美しいのでしょう! ああ、素晴らしい新世界、こんなに人がいるなんて!」
空くんの楽しそうな笑顔を見ながら、私は別のことを考えていた。
私は今、新しい世界に踏み出さなければならないのが、怖い。
玲美ちゃんが淡々と訊ねる。このコンクールでは四つの時代区分ごとに課題曲があり、それぞれ一曲ずつ選択することになっていた。空くんは少し苦笑して答える。
「バロックはスカルラッティ、古典派はモーツァルト、ロマン派はショパン、近現代はラフマニノフかな。選択肢の中でなるべく派手な技巧が多めで、ウケのいい曲を選ぶ」
空くんが実際に選んだのは、バロックがバッハ、古典派はベートーヴェン、ロマン派はリスト、近現代はバルトークだった。なんとなくだけど、空くん本人が得意だと申告した作曲家よりも、少し硬派できっちりしたタイプの作曲家が並んでいる気がする。単純に作曲家だけではなくて、空くん自身も言っていた通り、コンクールに不向きな曲もあるだろうし。
「特にベートーヴェンは、苦悩で塗り固められた中に垣間見える美しさを表現するのがすごく難しくて。シューベルトみたいに綺麗に昇華してひたすら美しい調べにしていたら、まだ表現しやすい気がするんだけど。シェイクスピアの『テンペスト』も読んでみたけど、戯曲難しかった……」
「もしかして、弟子のアントン・シンドラーがこの曲の解釈を訊ねた時に『シェイクスピアの「テンペスト」を読め』とベートーヴェンから返されたって話?」
「そう」
玲美ちゃんは少しあきれたようにため息を吐く。
「それ、今では嘘だっていうのが定説になってるよ。シンドラーはベートーヴェンを美化するために、資料を改竄や捏造してるので有名」
「ええっ?! 僕、すごく苦労して読んだのに……」
「もっと勉強しなさいよ」
「はあい……」
しゅんとする空くんに、舞台上での堂々とした振る舞いは影も形もない。
「でも、本当は関係ないかもしれないけど、『テンペスト』、不思議と合ってるよね」
「まあ、嘘とはいえ、キャッチーで、妙な説得力があるから、長いこと流布したんだろうし」
「僕、第三楽章のつかのまの優しい長調の部分、主人公の娘ミランダの有名な台詞をイメージして弾いたんだ。耳が聞こえなくなって、孤独感にさいなまれていたベートーヴェンが、人との交流に憧れた気持ちと通じるかなと思って」
「へえ。どんな台詞?」
お兄ちゃんが訊ねると、空くんは歌うように朗々と諳んじた。
「ああ、不思議だわ! ここにはなんてたくさんの素敵な人達がいるのかしら! 人間はなんと美しいのでしょう! ああ、素晴らしい新世界、こんなに人がいるなんて!」
空くんの楽しそうな笑顔を見ながら、私は別のことを考えていた。
私は今、新しい世界に踏み出さなければならないのが、怖い。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる