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第十章 扉が閉じて別の扉が開く

264 ミネルヴァの梟は黄昏に ④

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 僕は今、宗岡先生の研究室へと向かっている。卒論の題材を変更したので、新たな構想を提出しなければならなくなったからだ。

 仁科さんに漱石の知識で完敗したのが思いの外悔しくて、僕にしては珍しく、闘志に火がついてしまった。知識で負けるなら、せめて考えろ。そう思って、本文から想像できる自分の解釈を必死に盛り込んだ。悔しいという気持ちは、時にガソリンとなる。

「どうでしょうか」
「うーん、そうだねえ」

 宗岡先生はにっこり微笑む。僕は知ってる。これ、本当は全然悩んでない。

「一生懸命やりました感を演出したいのは伝わってきたけど。渋沢くん、全然調べてないよね」
「……はい?」
「先行研究。新規性だのオリジナリティだのを気にする人間ほど、車輪の再発明に嬉々として取り組みがちだよね。大抵は再発明にさえ至らないし、できあがっても劣化版だ」

 予想よりも辛辣な言葉が返ってきた。淡々と言われるから却ってつらい。燃料のガソリンを頭からぶっかけられた上に火をつけられて、僕が燻ぶっている。

「もっと地道に調べるところからやって。渋沢くんの構想の三歩くらい先をいってる研究、既にあるから」
「その先行研究は、なんというタイトル……」
「それを自分で調べるところが研究の始まりでしょう」

 もうちょっと面倒見てくれたっていいのに。そう思ったら、なんだか三浦先生の顔が浮かんだ。

「宗岡先生は、困っている様子の学生を見つけたら、どうしますか」
「僕は、学生が自分から言ってこない限り何もしないし、渋沢くんはそこまで困ってないでしょう」

 確かにその通りだけれども。

「求められていないことまで対応する時間はないよ。おおよそ、一番恨まれるのは、直前まで親身になっていた人だし。苦労して救おうとしたのにそれまでのことなんか全部御破算で、何もせずに無視していた人よりも恨まれるんだから、まるで割に合わない。僕はよほどのことがない限り放置する」

 宗岡先生は、教育者として、もう少し仕事をした方がいいと思う。そう考えかけて、宗岡先生の下についている大学院生のことが脳裏をかすめた。

 学部生だった去年まではいつお会いしても爽やかな笑顔の好青年だったのに、今は即身仏みたいになってる。さすがに気になって「大丈夫ですか?」と訊ねたら、「大丈夫。先生の課題が多くて難しすぎて、自分の能力の低さに落ち込んでるだけだから」という、全然大丈夫じゃない返事がきた。

 宗岡先生は、おそらく、学部生を相手にしていないだけなのだ。

「もし、先生があえて踏み込むとしたら、どんな時ですか?」
「助けを求めることすらできなくなっていると判断した時。でも、十年くらいそんなことしてないし、もうしないと思う。面倒だし、そういうのは向いている人間に任せる」

 ありがとうございますと簡潔に礼を伝え、宗岡先生の研究室を出た。
 僕は自分の都合のよいように考えている。
 僕自身も若葉ちゃんに直接訊ねにくいから藤田さんに探りを入れたのに、三浦先生から若葉ちゃんのことを訊ねられた時はプライベートに踏み込まれたように感じた。でも、宗岡先生にはもっと学生のことを気にかけて直接的な行動をとってほしいと思ってしまう。
 第三者は、感情で判断しがちだ。何が適切かなんて、簡単にはわからないのに。

 仁科さんが口にした「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という言葉を不意に思い出す。何が正解だったのかは、後からしかわからない。
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