愛してしまうと思うんだ

ゆれ

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あなた病

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 意を決して訪れた八色のマンションはもぬけの殻の空室だった。正確にはその景色を見たわけではないので、想像も含んでいる。
「越されましたよ」とコンシェルジュに冷淡に言われ、ならばついでにと合鍵も回収してもらって、ぽつねんとエントランスのまえに立ち尽くしているこの今は何の時間なのか。普通に出入りする住人の邪魔になってはいけないので階段の隅に座って判明している事実を整理してみたけれど、やっぱり何も結論が得られなかったため降参して龍は八色に電話した。

 歩の所為で不安になっての行動だったのは癪だが、まあ背中を押してくれたと捉えれば飲み下せる。あれだけ躊躇していたのに、正当性が己にあるとひとたび確信すれば笑ってしまうほどあっさり連絡できた。二週間もの懊悩は日本語で言うと無駄だった。
 頭が真っ白で何とも予測はしてなかった。この上は着信すら弾かれるのでは、という最悪な予想は裏切られて八色はむしろ食い気味に応じてくれる。リスナーではない龍は久し振りに彼の声を聞いてほっとした。それも束の間のことだったけれど。

「えっ」
『だからストーカーが出たんだわ。申し訳ねえがしばらく住所は教えらんねぇらしい』

 俺に付き纏って何が楽しいんだかな、というぼやきは聞こえてなかった。他人事のような口調はたぶん既に事が八色自身の手を離れていて、彼にも決定権がないのだろうと思わせる。頻りに謝罪の言葉を繰り返しているけれど、まったく頭に入ってこなかった。
 付き合った日数とおなじだけとは言わないまでも、かなりの月日をこのマンションで龍も過ごしている。私物だっていくらかあったのにそれも取りに行けず、事情は把握できたが腑に落ちない。心臓の拍動がうるさいほど聞こえる。言うなともうひとりの自分が止めるのを、しかし龍は振り切ってしまった。

(つまり俺は、信用されてねえってことか)

 ストーカーか、ストーカーに情報を売ったか、そう疑われているのだと自覚すると急に今までの思い出が色褪せた。座り込んでいるのに眩暈がして姿勢をうまく保てない。意味もなく仰のくと、昼下がりの青みを帯びた秋晴れの空が視界いっぱいに広がった。
 なんかもう終わりの匂いがする。すんと鼻を鳴らし龍は痛む喉を無理やり震わせて声を出す。揺らがないよう、力を込めたのはうまくいっていたかどうかわからない。失敗でも気にする必要はもうないと悟ると幾分らくになった。

「……わかった。もう会わねぇし知ってることも誰にも喋らねえ。これでいいか?」

 今までも都合上歩に打ち明けた以外は誰にも話しはしなかった。シュレーディンガーの彼氏? 笑ってしまう。

『ちょっと待て龍、その言い方』
「早く解決するよう祈ってる。仕事頑張って。じゃあな」

 通話を切った勢いのまま立ち上がると、龍は歩きだした。カーゴパンツのポケットの中でスマホはモーモー唸っている。しつこく振動し続けていたが手に取りはしなかった。折からの風がつめたくて、顎の下までアウターのジッパーを引き上げる。

 あんなふうに始まった関係だったから、どうせ長続きしないとは、心のどこかで思っていたかもしれない。そういえばこのまえ「話がある」と言っていたのはこのことを訊くつもりだったのだろうか。それともストレートに別れ話か。結果的にスルーしてよかった。せめてこっちから切り出したいなんてちっぽけな自尊心だが、捨てられるなら、このくらいの反撃はしたってばちは当たらない筈だ。

 逆ギレしたのがやはりマイナスだったか。セックスだけでよかったのに人生相談までされて、家庭のことには外野はくちを出せないのに盛大に愚痴り散らかされて、重すぎると愛想を尽かされたのかもしれない。「年下は面倒だわ」なんて言われた日にはどうしようもない。一二三に魔法で何とかしてもらうくらいしか、それなら実質無理か。というか無理だ。

「……うっ」

 駄目だ駄目だといっぱいまでこらえていた反動か、涙がぶわっと終に目縁から溢れだす。自分でもびっくりして慌てて拭うがあとからあとから止め処なく流れて落ちる。外でこれは勘弁してほしかった。通りすがる人々の視線が刺さって痛い。成人男子が思い切りよくだばだば泣きながら歩いていたら、たしかに奇異以外のなにものでもないだろう。

 恥ずかしい。もうこの辺りには来られない、と思ってその用もなくなったのだと傷を深くする。別れようと言われたわけじゃないが、疑わしいことの起きた相手とは、自分だったらもうとても続けられない。八色を悩ませるくらいならお終いでかまわなかった。信じることのできないつらさは龍もよく知っている。

 真夏でもないのにハンドタオルで顔を拭き拭きうつむき加減でてくてく歩く。せっかくの休講がとんだ予定で憂鬱に塗り替えられてしまった。今日は生放送の日だから夕方までは確実にマンションにいる、褒めてくれた手料理を振る舞うか、ホームシアターで映画でも観るか熱っぽく触れ合うか、なんておめでたい予定をひとり立てていた自分をゲラゲラ笑い飛ばしたい。馬鹿だなお前は。

(ほんとにな)

 愛がどれほど冷めやすい感情かなんて、父と母があんなにちいさい頃に教えてくれていたのに。
 
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