上 下
12 / 39
2.逃亡者

自分のために、決めた

しおりを挟む
 断片的に思い出す記憶は、いったいどこから来たものなのだろう。
 記憶メモリに損傷があるとあの女は言っていたけれど、記憶に問題があるから、他人のことを自分のことのように思い出すのだろうか。
 毛布に包まって横になったものの、さっぱり寝付けずにヴィトは考える。

 自分の道を自分で決められるか、とイーターは尋ねた。

 記憶を無くしてからずっと、クラエスやオージェの親切に寄りかかる形で流されて来た。自分がそう決めたからそうしたのか、それとも、誰かにそうしろと決められてそうしたのか、ヴィトには判断がつかない。

 考えても考えても答えは見えず、思考は堂々巡りを始めてしまう。
 ヴィトは溜息を吐いて、目の前のオージェに目を向けた。

 オージェが共に来ると言ってくれたことは、とてもうれしかった。
 そんな義務も義理も無いはずなのに、どうしてオージェがついて来ようと決めたのかはわからない。けれど、帰らないという言葉はとてもうれしかったし、キスを受け入れてくれたこともうれしかった。
 たぶん、自分はオージェのことを好ましい……いや、好きなのだと思う。
 この“好き”だという気持ちが誰かに植え付けられたものではなく、自分の中から生まれたものであってほしい。

 隣で眠るオージェを、ヴィトはじっと見つめる。

 はじめてオージェを見て頭に浮かんだ、「女神のようだ」という思いは、今もずっと変わらない。
 自分と共に来て助けてくれて、キスも受け入れてくれた。
 もしかして、オージェも自分を好いてくれているのではと考えると、ヴィトの心は躍り、心臓は早鐘を打つ。
 けれど、もし、この気持ちまでが何かに植え付けられたものだとしたらという疑問も完全に拭うことはできなくて……いいや、そんなことあり得ない。

 そっと手を伸ばし、指先でオージェの頬に触れた。
 すべすべして柔らかくて、いつまでもこうして触れていられたら。
 そんなことを考えてしまう。
 こんな状況なのに、キスよりももっと先が欲しくなる。

 自分が作られたものだというなら、心の底から湧き上がるように感じているこの欲求も、外から押し付けられたものなのか。

 ――そんな、ばかな。

 自分の中にある何もかもが疑わしく思えて、ヴィトはまた溜息を吐く。
 どれもこれもすべて自分のものだと信じたいのに、どれもこれもの何もかもが誰かに「そうあれ」と与えられたもののように感じて、苦しくなる。

 吐息を漏らして、ヴィトは寝返りを打つ。
 明日から自分はどうすべきなのか。このままケゼルスベールを目指すのか、それとも、どこか別な場所に……。


 * * *


「殿下。今夜から三日、わたくしが殿下に閨での作法を伝授いたします」

 胸と腰を強調するような夜着を纏った女が、自分の前で深く腰を折る。
 自分は大人になった・・・・・・のだから、来るべき婚姻に向けて子供の作り方を知らねばならないらしい。

 ――どうせ誰かに教えられなきゃいけないなら。

 そう考えて、ぎゅっと目を瞑る。

「殿下?」
「なんでもない。始めてくれ」

 女がにっこりと微笑んでベッドに腰掛ける。
 正式な成人まであと五年を残す、まだ幼い自分に身を寄せて、女は囁いた。

「殿下、まずは抱き締めてくださいませ」

 言われたとおりに女の身体に手を回し、力を込める。

「ゆっくりと顔を寄せて、頬から唇へキスを……最初は小鳥が啄むように、数度繰り返しながら頬から唇へと移っていきます」

 女が見せた手本に従って、自分もキスをする。

「こうして愛情を示すことで殿下のお優しい心を感じ、お相手の方の心も解れて参りますから」

 そんなことを述べる女に、小さく頷く。
 そこから、“女の感じる場所”を教えられつつ愛撫のしかたを学ばされ、女の身体の構造を教えられ……達して終わりではなく、その後の行為も相手との愛を深めるために大切なのだと教えられた。

 相手への愛か。

 たしかに、身体は気持ち良いと感じていた。
 けれど、それだけだった。
 どうせなら、教師はこの女なんかじゃなくて……とそこまで思ったところで、また考えるのをやめた。


 * * *


 目が覚めると、もう空は明るかった。

「おはよう、ヴィト。調子はどう?」

 いつものようにオージェがにっこり笑って自分を見ている。イーターの姿が見えないのは、いつものように周囲の様子を確認に行っているからだろう。

「おはよう。寝過ごしたみたいでごめん。調子は、まあまあかな」
「まあまあならよかった。あの木の向こうに小川があるから、身支度を済ませてくるといいわ。昨日、あのまま寝ちゃったでしょう?」
「ああ、うん」

 指を指した先を確認して、ヴィトは頷く。服も昨日のままだ。
 半分毛布に包まったまま、ヴィトは自分の荷物を引き寄せた。着替えと布と……必要なものを取り出して、「行ってくる」と小川に向かう。

 まだ太陽も低いうちの朝の空気は、冷んやりとしている。けれど、少し考えて、ヴィトはさっさと服を全部脱いで水を浴びた。
 熱を、冷まさなきゃいけない。

 あれは……あの夢は、“閨教育”というものだろう。
 たいていの身分の高い男は、結婚後に失敗しないよう、ある程度の年齢になると学ぶものだと聞いている。
 夢の中ではいつも、自分はヴィトではなくナディアル本人として、夢の中の出来事を追体験する。俯瞰ではなく、ナディアルの主観で……なぜそんなことになるのか、未だによくわからない。
 だが、ナディアルがその時に何を考えて何を感じたかまでを含めて、全部を追体験するのだ。

「――っ」

 びくりと身体が跳ねた。
 生理現象、だと思う。
 決して、夢でのこと……夢の中の相手がオージェだったら良かったのに、と考えたわけじゃない。

 オージェに気付かれなくてよかった。
 考えながら、ヴィトはそこに手を添えた。被った水は冷たかった。けれど、それでも熱は留まったまま、引いていかない。
 身体を疼かせるもののことを思い、ヴィトは小さく吐息を漏らす。昨夜の夢の中の相手の顔が、どうしてもオージェの顔に変わってしまう。
 水を被ってもだめだった。なら、この熱はさっさと吐き出すべきで――ほどなく、そう決めたとおりに熱を放つと、どうにか治めることができた。



 三人が揃ったところで簡単な朝食を済ませた。
 火の始末までを終えてすぐに、ヴィトはまた地面に軍国の地図を描く。今度は、現在地だと思われるあたりの地域を、大きめにだ。

「昨日、待ち伏せられてたのはこのあたりなんだけど……イーターさん、今いるのはどの辺りかわかるかな」
「ふむ……地図の上は知らぬが、おおよそこの方向に、馬を全速で駆けさせたはずだ。時間は……半刻に足りぬくらいか」
「半刻って? 全速って、町を出た時くらいの速さ?」
「こちらの言い方では一時間ほどか。馬の速さはそのくらいだな」

 地図を見ながら、ヴィトはじっと黙り込む。
 時速にして八十キロほどだろうか。なら、あの場所から……。

「今、僕らがいるのはこのあたりだと思う。地形もだいたい一致するし」
「ほう? 詳しいのだな」
「この大陸の地図と地形は、だいたい頭に入ってるみたいなんだ」
「それは頼もしい」

 そら・・でこうも正確な地図を描ける者など、なかなかいないだろうと感心しつつ、イーターが興味深げに地図を覗き込んだ。額を突き合わせるようにヴィトも地図を覗き込んだまま、ぶつぶつと国境までかかる時間を計算する。

「なるべく早く国境を越えたいんだ。昨日のようすじゃ、軍国は僕らを本気で捕らえるつもりなんだろう。次はそれなりの魔術師も入れてくるはずだよ」
「たしかにな」
「でも、なるべく早くって言っても、どうやって?」

 目を眇めるように地図を睨んだ後、オージェが不安げな顔をあげた。

「なんとかなると思うよ」
「なんとかって、どうなんとかするの?」

 昨日以上の軍が来るのに、と眉を寄せるオージェに、ヴィトは安心させるようにほのかに笑う。それから改めてイーターへと視線を戻した。

「イーターさんの馬は、全力でどれくらい走り続けられますか?」
「お前たちを乗せていても半日は楽勝だ。我の馬は騎士団の中でも特に体力には秀でているからな」

 オージェは驚きに目を瞠る。
 やはり、あの黒馬はこの世ならざるものの馬なのか。生きているほんとうの馬なら、せいぜい数分程度走れれば上等だというのに、それを半日とは。

「なら、今日一日でここまでは行ける。軍がイーターさんの馬の速さと体力を知らなければだけど……今日一日、馬を潰さない最低限の休息で走れば、囲まれる前に国境まで到達できる場所に行けるんだ」

 ヴィトの指が、馬の走れる地形を辿る。イーターの馬の脚がいかに頑丈でも、ある程度は平坦な道を走らせる必要があるだろう。

「なるほどな」

 にやりとイーターが笑った。

「ならば、お前たちふたりは、我の獣で空を行くのが良かろう。我ら三人を乗せて飛ぶは無理だが、ふたりならば問題ない」
「でも、イーターさんは?」
「何、我ひとりならば、どう無茶に走らせようとも問題ないぞ。お前たちを乗せねばならぬからと、あれでも抑えておったのだからな」

 あれで? と、ヴィトはまた唖然とする。
 普通の馬の襲歩ギャロップ以上の速さであれほど長く走れることだけでも驚きなのに、それ以上で走れるなんて。
 オージェも目をまん丸にして驚いている。

「でも、途中には川とか……」
「問題ない。騎士たる我の本領を発揮してみせよう」
「……本当に?」
「おおいに驚くがいい。お前たちは我を気にせず空を行け」

 そこまで言うのだ、イーターには自信があるのだろう。

「わかりました。それじゃ、ここから最短にある、この国境を目指します」
「うむ……ところで、ヴィト」
「はい?」

 方角を確認して頷くと、イーターは思い出したように尋ねた。

「お前、国境に着いたらいかようにするつもりか」

 オージェが少し心配そうな表情を浮かべてヴィトを見つめた。ふっと笑い返して、ヴィトはオージェの手を取り握り締める。

「もちろんケゼルスベールへ向かう。確かめたいことが、たくさんあるから」
「ヴィト……」
「ほう」
「神王やあの女が言うからじゃない。僕は僕のことを確かめたい。そのために……僕自身のためにケゼルスベールへ行くと決めた」

 イーターがくっくっと楽しそうに笑い出す。

「ならば、我も付き合おう。そも、我の目的地もそこなのだからな」
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界の女騎士と女奴隷が俺の家に住むことになったがポンコツだった件

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:112

出会い…おじさま

BL / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:17

売名恋愛(別ver)

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:39

【R18】嫌いなあなたに報復を

恋愛 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:815

【BL】サラリーマンと、【R18】

BL / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:7

ボケ老人無双

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:25

ありふれた事件の舞台裏

ミステリー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

異変の時

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...