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灰色の世界の天上の青
04.宣戦布告
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「司祭様は、私を買ったんじゃなきゃ、なんで私のことこうやって構うの?」
「私は、身寄りも行くところもないという女の子を捨て置けるほど、薄情な人間ではないつもりなのだが」
“竜屋敷”からの帰り道、やっぱりオーウェンに手を引かれながらヴィエナは気になっていたことを尋ねた。だが、オーウェンの返答はヴィエナがどうにも納得しがたいことで……。
「あ、わかった。司祭様ってロ」
「断じて違う」
言い切る前に即断され、むうっと口を尖らせるヴィエナをオーウェンが笑う。
「それともお前は、自分がまだ幼い子供だといいたいのか?」
「違うけど……」
それじゃやっぱりわからない。
それじゃ、自分を引く手が大きくて温かいことの説明がつかない。
「じゃあ、司祭様って暇なの?」
「……お前の教育をする時間くらいなら十分あるよ」
やっぱりわからなかった。
ぐ、と握る手に力を込めて引かれて、ヴィエナは顔を上げる。
「思ったよりも時間がかかってしまったな。急ぐぞ」
こくんと頷いて、ヴィエナも足を速めた。
そして、今日も夜が来る。
「し……司祭、様」
書物机に向かっていたオーウェンが振り向くと、続き間の扉の前に、枕を抱いたヴィエナが立っていた。
「どうした」
「く、暗いところ、怖いの……」
小さく震えながら、ヴィエナが俯く。
「何か、いそうで……こ、こっちの部屋にいても、いい?」
昨日の今日だ。相当恐ろしい悪夢だったのだろう。オーウェンはひとつ息を吐き、「構わないよ。ここで寝なさい」と、招き寄せるように手を伸ばした。
たたた、と走り寄るヴィエナをベッドに寝かせて、「“光あれ”」と神術で明かりを灯す。
「この聖なる光は夜の間ずっとお前を照らしてくれる。影はお前に近づけない」
煌々と自分を照らす光にようやく落ち着いたのか、ヴィエナは小さく頷いた。
「今夜も魔除けの結界を作っておこう。だからお前には常に戦神の輝ける剣の護りがある。闇を恐れる必要はない」
「うん……で、でも、司祭様」
「なんだ?」
「手、握ってて、いい?」
「ああ。いいよ」
優しく微笑まれ、ほっと息を吐いてヴィエナはオーウェンの手を握り締める。両手でしっかりと、確かめるようにオーウェンの手を握り、抱え込むように引き寄せる。
程なくして落ち着いた寝息が聞こえて、ヴィエナが眠りについたことを知らせた。
「……しまった」
この状態では、作業の続きができない。
片手をしっかりと握られ抱き込まれたまま、オーウェンはしかたないと溜息を吐いて、自分も寝てしまうことにした。
* * *
何か引っ掻くような小さな音と、歌うような声が聞こえてヴィエナの目が覚めた。既に夜は明けて、部屋の中に朝日が差し込んでいる。
昨夜は優しく抱き締められていたような気がして、怖いことなど何もなくぐっすりと眠ることができた。
起き上がってきょろきょろと見回すと、書物机に向かってオーウェンが小さく聖句を唱えながら何かを作っていた。
「……司祭様?」
ヴィエナの声にオーウェンが振り向く。「おはよう」と笑うオーウェンに、ヴィエナも「おはようございます」と返す。
「司祭様、何をしてるの?」
ベッドを降りて近づくと、オーウェンは銀色の円盤に、何か複雑な紋様を彫り込んでいるところだった。
「護符だ」
「護符?」
「そう。暗闇が怖いと泣く子供が、もう怖がらなくていいようにだ」
オーウェンの言う子供が誰のことかわかって、ヴィエナはむっと眉根を寄せる。くつくつ笑うオーウェンに、ぽんと頭をひとつ叩かれた。
「とはいえ、出来上がるまでに数日かかる。それまではこれを持っているといい」
オーウェンは傍らに置いてあった短剣をヴィエナに渡した。
「でも、私、短剣なんて使えないよ」
「これは護剣だ。戦神の護りの加護がある」
「護り?」
「護りだ。多少の邪なものや魔のものであれば、この剣を持つものには近寄れない。それと、ちょうどいい機会だ。お前に少し剣の使い方も教えよう」
短剣を受け取って、ヴィエナはぽかんとオーウェンを見つめる。
「なんで?」
「まったく扱えないよりは、少しくらい扱い方を知っていたほうがいい。ああ、だが、付け焼き刃で何かしようと思う必要はない」
オーウェンの言ってる意味がよくわからなくて、ヴィエナは首を傾げた。オーウェンは笑って、またぽんとひとつヴィエナの頭を叩く。
「無理に戦おうと考えることはない。だけど、何かの役に立つかもしれないから、学んでおいたほうが良い。
知識とはそういうものだ」
オーウェンの言葉を反芻しながらヴィエナは手の短剣を眺める。銀で細工された鞘と柄には細かい装飾と戦神の印の意匠が彫り込まれ、手にしっとりと馴染むようにも感じる。
「きれいだね」
「ああ。それは私の祖父から受け継いだものだ。もとは名だたる名工の手により鍛えられたものだと聞いている。刀身は鋼だが、柄と鞘は聖別した燻銀(いぶしぎん)とミスリルを使っているのだそうだ」
「へえ……」
だから、ひんやり冷たいはずの金属なのになんとなく温かいように感じるのか、と納得する。この温かく感じる何かが、神の加護というものなのか。
ヴィエナはしげしげと短剣を見つめながら、「司祭様、ありがとう」と呟いた。
──ありがとう、とは言ったものの。
少し早まったかもしれないと、ヴィエナはぜいぜい息を荒げながら考えていた。
朝の約束通り剣を教えるからと、動きやすい服で鍛錬場へと連れて来られた。
最初は木の剣で基本的な動きからだと、オーウェンに3通りの振り方を教えられて、その通りにやってみた。
が、オーウェンがやるとものすごく簡単そうなのに、自分でやるとどうにもできない。教えられた通りに動いてるはずなのに、身体がぶれてるとか腕が伸びてないとか足の向きが悪いとか、めちゃくちゃ目敏く見つけて注意されて、そこをピシッと木剣の平で叩かれるのだ。
「はじめてなのに、無理言わないでよ」
「はじめてだから、きちんと覚える必要があるのだ」
もう何十回目かの注意に、ヴィエナは目を潤ませて溜息を吐いた。
「もっと優しく教えてくれるんだと思ったのに」
思わず溢した言葉に、オーウェンが眉を上げる。
「十分優しく教えているが?」
ほんの少し休むだけですぐ動けと言われるし、息はぜいぜい切れてて脇腹だって痛いし、腕もだるくて上がらなくなってきたのにまだ続けろというし……オーウェンのいったいどこが優しいというのか。ヴィエナの眉尻が下がる。
「……お前は少し体力がなさすぎるようだ。この後、基礎体力を付ける運動もしよう」
「え」
このうえまだ何かやらなきゃいけないのかと、ヴィエナはちょっと本気で泣きたくなってしまった。本当に、オーウェンが優しいなんて評判はどこから出てきたのだろうか。
「大丈夫だ。お前の体力に合わせるから」
にこやかにそう言うオーウェンの笑顔からは、不安しか感じない。
昨日、オーウェンの妹だって言ってたじゃないか。“兄上はかわいがってくれるし甘えさせてくれるけど、だからって手加減してくれるわけじゃないんだ”……と。
絶対、基礎とかいうレベルじゃないに決まってる。
“基礎体力作り”は、ヴィエナの予想通りに基礎どころの話じゃなかった。
「あちこち痛くなってきた……」
ご飯を食べて、身体をきれいにして……疲れで眠ってしまいたいのに、関節はギシギシいうし腕も足も熱を持ったみたいにじんわりと痛くなって、どうにも眠れそうにない。
どうしようかと考えていると、オーウェンが戸棚から小さな壺を取り出した。
「ヴィエナ、袖をまくって、腕を出してごらん」
言われた通り、袖を引っ張り上げて腕を突き出すと、オーウェンが壺からクリームのようなものを指に掬い上げて、ぺたりと塗りつけた。
「臭い。司祭様、これ何? なんだか鼻につーんとくる」
「筋肉の痛みを和らげる塗り薬だ」
塗られたところがすうっと冷たくなるような、冷たいのに熱いような不思議な感覚がするが、確かに少し痛みが治まったような気もする。薬を塗って解すように軽くマッサージをされると、とたんにだるかった腕が軽くなったように感じてヴィエナは目を瞠る。
「すごく楽になったよ。でも、教会ってなんでも神術で治してしまうんだと思ってた。薬も使うんだね」
「神術で癒すのは簡単だが、それでは痛みに慣れる機会を失ってしまう。痛みは何も忌むばかりのものではない。己の限界を教えてくれるものでもあるのだ」
「ふうん」
「それなりに鍛錬を積んだ後で上を目指すというなら別だが、お前のように鍛錬を始めたばかりの者なら、神術には頼らずこうして自然治癒で治したほうがよいのだよ。
どこまでやると限界が来るのか、どのくらい痛いと動けなくなるのか、そういうことを知るのも必要なのだ」
「そうなんだ」
逆の腕は自分でやってみなさいと言われて、見よう見まねで薬を塗りたくる。ぐにぐにと揉んでみたが、痛いだけでさっぱりだるさは取れない。
「ぜんぜん気持ちよくない……」
「力を入れすぎだ。それではよけい傷めてしまうよ」
くつくつとオーウェンが笑いながら、どうすればいいかと教えてくれた。その通りに腕を揉んで足を揉んで、やっとなんとなくコツがわかった気がした。
「司祭様、背中もやって」
「ん?」
「背中も痛い。びきびきする」
「……わかった」
仕方ないなと、オーウェンからうつ伏せになるように言われてヴィエナは従う。手足が楽になった分、背中に痛みが回ってきたように感じていたのだ。
枕を抱え込むように無防備にうつ伏せになったヴィエナに、オーウェンは少し呆れたように溜息を吐いた。けれど、ふと、妹にもこうしてよく薬を塗ってやったことを思い出し、笑みが浮かぶ。
「では、薬を塗ろうか。上着を捲くるぞ。どのあたりが痛む?」
「うん。ええと、上の、骨のあたりかな」
「ああ、剣の素振りもしたからな」
そう言いながらオーウェンは肩甲骨のあたりを中心に薬を塗り広げていく。すうっとする感覚の次の熱いような感覚と一緒に、オーウェンの手が軽くマッサージをするように動くとだんだん楽になってきたらしく、ヴィエナがうとうと船を漕ぎ始めた。
これはすぐにでも寝てしまいそうだなと、オーウェンはまた笑みを漏らす。
なんだかんだと文句を言いつつも言われたように頑張るのは、ヴィエナが基本的に素直だからだろう。なかなかの負けず嫌いでもあるようだ。
ひととおり背中を揉みほぐし、服を戻そうとして、オーウェンはそれに気付いた。
──うっすらと、ヴィエナの背、ちょうど左肩の後ろのあたりに浮かぶ痣。
「これは……」
まるで何かを象る紋様のような痣に、オーウェンは眉を顰める。ぼんやりとしていてはっきりと何であるかがわかるわけではない。だが、とても普通の痣とは思えないだけの何かがある。
指で触り、それが確かに痣であることを確認し、オーウェンは小さく溜息を吐いた。やはりヴィエナは義弟の懸念どおり、“月の魔女”とやらに関わりがあるということなのか。
「……“戦いと勝利の神の猛き御名にかけて、この者に祝福を”」
聖印を押し付けるようにして、聖なる祝福を与える祈りを唱える。
だが、痣に変化は見られない。
「やはり」
この程度では無理か、と考えたと同時に、眠っていたはずのヴィエナがいきなりぐるりと振り返った。
無理やり首をめぐらせて、くっ、と嘲るような笑みをオーウェンに向ける。
『無駄だ。“定命の者”にこの印は消せぬ』
ヴィエナとは思えない嗄れた声に下方世界の言葉。蔑みを込めて自分を“定命の者”と呼ぶ、これは……。
「貴様は悪魔か?
“戦いと勝利の神の猛き御名にかけて、神の御手に輝ける剣にかけて、邪なるものよ、この世界より消えよ”」
『無駄だと言った。“定命の者”には消せぬ。せいぜい足掻け。お前が賭けに勝つことなどできぬ、愚かな魔女よ』
悪魔の尊大な言葉に、オーウェンは睨みつけるように痣とヴィエナを見比べる。
「──邪なる悪魔よ。この世界で、貴様の企みが成就することはない。我が戦神の聖なる御名にかけて、貴様は九層地獄界の業火の中に叩き返されるだろう。その時を待っていろ」
「私は、身寄りも行くところもないという女の子を捨て置けるほど、薄情な人間ではないつもりなのだが」
“竜屋敷”からの帰り道、やっぱりオーウェンに手を引かれながらヴィエナは気になっていたことを尋ねた。だが、オーウェンの返答はヴィエナがどうにも納得しがたいことで……。
「あ、わかった。司祭様ってロ」
「断じて違う」
言い切る前に即断され、むうっと口を尖らせるヴィエナをオーウェンが笑う。
「それともお前は、自分がまだ幼い子供だといいたいのか?」
「違うけど……」
それじゃやっぱりわからない。
それじゃ、自分を引く手が大きくて温かいことの説明がつかない。
「じゃあ、司祭様って暇なの?」
「……お前の教育をする時間くらいなら十分あるよ」
やっぱりわからなかった。
ぐ、と握る手に力を込めて引かれて、ヴィエナは顔を上げる。
「思ったよりも時間がかかってしまったな。急ぐぞ」
こくんと頷いて、ヴィエナも足を速めた。
そして、今日も夜が来る。
「し……司祭、様」
書物机に向かっていたオーウェンが振り向くと、続き間の扉の前に、枕を抱いたヴィエナが立っていた。
「どうした」
「く、暗いところ、怖いの……」
小さく震えながら、ヴィエナが俯く。
「何か、いそうで……こ、こっちの部屋にいても、いい?」
昨日の今日だ。相当恐ろしい悪夢だったのだろう。オーウェンはひとつ息を吐き、「構わないよ。ここで寝なさい」と、招き寄せるように手を伸ばした。
たたた、と走り寄るヴィエナをベッドに寝かせて、「“光あれ”」と神術で明かりを灯す。
「この聖なる光は夜の間ずっとお前を照らしてくれる。影はお前に近づけない」
煌々と自分を照らす光にようやく落ち着いたのか、ヴィエナは小さく頷いた。
「今夜も魔除けの結界を作っておこう。だからお前には常に戦神の輝ける剣の護りがある。闇を恐れる必要はない」
「うん……で、でも、司祭様」
「なんだ?」
「手、握ってて、いい?」
「ああ。いいよ」
優しく微笑まれ、ほっと息を吐いてヴィエナはオーウェンの手を握り締める。両手でしっかりと、確かめるようにオーウェンの手を握り、抱え込むように引き寄せる。
程なくして落ち着いた寝息が聞こえて、ヴィエナが眠りについたことを知らせた。
「……しまった」
この状態では、作業の続きができない。
片手をしっかりと握られ抱き込まれたまま、オーウェンはしかたないと溜息を吐いて、自分も寝てしまうことにした。
* * *
何か引っ掻くような小さな音と、歌うような声が聞こえてヴィエナの目が覚めた。既に夜は明けて、部屋の中に朝日が差し込んでいる。
昨夜は優しく抱き締められていたような気がして、怖いことなど何もなくぐっすりと眠ることができた。
起き上がってきょろきょろと見回すと、書物机に向かってオーウェンが小さく聖句を唱えながら何かを作っていた。
「……司祭様?」
ヴィエナの声にオーウェンが振り向く。「おはよう」と笑うオーウェンに、ヴィエナも「おはようございます」と返す。
「司祭様、何をしてるの?」
ベッドを降りて近づくと、オーウェンは銀色の円盤に、何か複雑な紋様を彫り込んでいるところだった。
「護符だ」
「護符?」
「そう。暗闇が怖いと泣く子供が、もう怖がらなくていいようにだ」
オーウェンの言う子供が誰のことかわかって、ヴィエナはむっと眉根を寄せる。くつくつ笑うオーウェンに、ぽんと頭をひとつ叩かれた。
「とはいえ、出来上がるまでに数日かかる。それまではこれを持っているといい」
オーウェンは傍らに置いてあった短剣をヴィエナに渡した。
「でも、私、短剣なんて使えないよ」
「これは護剣だ。戦神の護りの加護がある」
「護り?」
「護りだ。多少の邪なものや魔のものであれば、この剣を持つものには近寄れない。それと、ちょうどいい機会だ。お前に少し剣の使い方も教えよう」
短剣を受け取って、ヴィエナはぽかんとオーウェンを見つめる。
「なんで?」
「まったく扱えないよりは、少しくらい扱い方を知っていたほうがいい。ああ、だが、付け焼き刃で何かしようと思う必要はない」
オーウェンの言ってる意味がよくわからなくて、ヴィエナは首を傾げた。オーウェンは笑って、またぽんとひとつヴィエナの頭を叩く。
「無理に戦おうと考えることはない。だけど、何かの役に立つかもしれないから、学んでおいたほうが良い。
知識とはそういうものだ」
オーウェンの言葉を反芻しながらヴィエナは手の短剣を眺める。銀で細工された鞘と柄には細かい装飾と戦神の印の意匠が彫り込まれ、手にしっとりと馴染むようにも感じる。
「きれいだね」
「ああ。それは私の祖父から受け継いだものだ。もとは名だたる名工の手により鍛えられたものだと聞いている。刀身は鋼だが、柄と鞘は聖別した燻銀(いぶしぎん)とミスリルを使っているのだそうだ」
「へえ……」
だから、ひんやり冷たいはずの金属なのになんとなく温かいように感じるのか、と納得する。この温かく感じる何かが、神の加護というものなのか。
ヴィエナはしげしげと短剣を見つめながら、「司祭様、ありがとう」と呟いた。
──ありがとう、とは言ったものの。
少し早まったかもしれないと、ヴィエナはぜいぜい息を荒げながら考えていた。
朝の約束通り剣を教えるからと、動きやすい服で鍛錬場へと連れて来られた。
最初は木の剣で基本的な動きからだと、オーウェンに3通りの振り方を教えられて、その通りにやってみた。
が、オーウェンがやるとものすごく簡単そうなのに、自分でやるとどうにもできない。教えられた通りに動いてるはずなのに、身体がぶれてるとか腕が伸びてないとか足の向きが悪いとか、めちゃくちゃ目敏く見つけて注意されて、そこをピシッと木剣の平で叩かれるのだ。
「はじめてなのに、無理言わないでよ」
「はじめてだから、きちんと覚える必要があるのだ」
もう何十回目かの注意に、ヴィエナは目を潤ませて溜息を吐いた。
「もっと優しく教えてくれるんだと思ったのに」
思わず溢した言葉に、オーウェンが眉を上げる。
「十分優しく教えているが?」
ほんの少し休むだけですぐ動けと言われるし、息はぜいぜい切れてて脇腹だって痛いし、腕もだるくて上がらなくなってきたのにまだ続けろというし……オーウェンのいったいどこが優しいというのか。ヴィエナの眉尻が下がる。
「……お前は少し体力がなさすぎるようだ。この後、基礎体力を付ける運動もしよう」
「え」
このうえまだ何かやらなきゃいけないのかと、ヴィエナはちょっと本気で泣きたくなってしまった。本当に、オーウェンが優しいなんて評判はどこから出てきたのだろうか。
「大丈夫だ。お前の体力に合わせるから」
にこやかにそう言うオーウェンの笑顔からは、不安しか感じない。
昨日、オーウェンの妹だって言ってたじゃないか。“兄上はかわいがってくれるし甘えさせてくれるけど、だからって手加減してくれるわけじゃないんだ”……と。
絶対、基礎とかいうレベルじゃないに決まってる。
“基礎体力作り”は、ヴィエナの予想通りに基礎どころの話じゃなかった。
「あちこち痛くなってきた……」
ご飯を食べて、身体をきれいにして……疲れで眠ってしまいたいのに、関節はギシギシいうし腕も足も熱を持ったみたいにじんわりと痛くなって、どうにも眠れそうにない。
どうしようかと考えていると、オーウェンが戸棚から小さな壺を取り出した。
「ヴィエナ、袖をまくって、腕を出してごらん」
言われた通り、袖を引っ張り上げて腕を突き出すと、オーウェンが壺からクリームのようなものを指に掬い上げて、ぺたりと塗りつけた。
「臭い。司祭様、これ何? なんだか鼻につーんとくる」
「筋肉の痛みを和らげる塗り薬だ」
塗られたところがすうっと冷たくなるような、冷たいのに熱いような不思議な感覚がするが、確かに少し痛みが治まったような気もする。薬を塗って解すように軽くマッサージをされると、とたんにだるかった腕が軽くなったように感じてヴィエナは目を瞠る。
「すごく楽になったよ。でも、教会ってなんでも神術で治してしまうんだと思ってた。薬も使うんだね」
「神術で癒すのは簡単だが、それでは痛みに慣れる機会を失ってしまう。痛みは何も忌むばかりのものではない。己の限界を教えてくれるものでもあるのだ」
「ふうん」
「それなりに鍛錬を積んだ後で上を目指すというなら別だが、お前のように鍛錬を始めたばかりの者なら、神術には頼らずこうして自然治癒で治したほうがよいのだよ。
どこまでやると限界が来るのか、どのくらい痛いと動けなくなるのか、そういうことを知るのも必要なのだ」
「そうなんだ」
逆の腕は自分でやってみなさいと言われて、見よう見まねで薬を塗りたくる。ぐにぐにと揉んでみたが、痛いだけでさっぱりだるさは取れない。
「ぜんぜん気持ちよくない……」
「力を入れすぎだ。それではよけい傷めてしまうよ」
くつくつとオーウェンが笑いながら、どうすればいいかと教えてくれた。その通りに腕を揉んで足を揉んで、やっとなんとなくコツがわかった気がした。
「司祭様、背中もやって」
「ん?」
「背中も痛い。びきびきする」
「……わかった」
仕方ないなと、オーウェンからうつ伏せになるように言われてヴィエナは従う。手足が楽になった分、背中に痛みが回ってきたように感じていたのだ。
枕を抱え込むように無防備にうつ伏せになったヴィエナに、オーウェンは少し呆れたように溜息を吐いた。けれど、ふと、妹にもこうしてよく薬を塗ってやったことを思い出し、笑みが浮かぶ。
「では、薬を塗ろうか。上着を捲くるぞ。どのあたりが痛む?」
「うん。ええと、上の、骨のあたりかな」
「ああ、剣の素振りもしたからな」
そう言いながらオーウェンは肩甲骨のあたりを中心に薬を塗り広げていく。すうっとする感覚の次の熱いような感覚と一緒に、オーウェンの手が軽くマッサージをするように動くとだんだん楽になってきたらしく、ヴィエナがうとうと船を漕ぎ始めた。
これはすぐにでも寝てしまいそうだなと、オーウェンはまた笑みを漏らす。
なんだかんだと文句を言いつつも言われたように頑張るのは、ヴィエナが基本的に素直だからだろう。なかなかの負けず嫌いでもあるようだ。
ひととおり背中を揉みほぐし、服を戻そうとして、オーウェンはそれに気付いた。
──うっすらと、ヴィエナの背、ちょうど左肩の後ろのあたりに浮かぶ痣。
「これは……」
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指で触り、それが確かに痣であることを確認し、オーウェンは小さく溜息を吐いた。やはりヴィエナは義弟の懸念どおり、“月の魔女”とやらに関わりがあるということなのか。
「……“戦いと勝利の神の猛き御名にかけて、この者に祝福を”」
聖印を押し付けるようにして、聖なる祝福を与える祈りを唱える。
だが、痣に変化は見られない。
「やはり」
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無理やり首をめぐらせて、くっ、と嘲るような笑みをオーウェンに向ける。
『無駄だ。“定命の者”にこの印は消せぬ』
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『無駄だと言った。“定命の者”には消せぬ。せいぜい足掻け。お前が賭けに勝つことなどできぬ、愚かな魔女よ』
悪魔の尊大な言葉に、オーウェンは睨みつけるように痣とヴィエナを見比べる。
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