灰色の世界の天上の青

ぎんげつ

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灰色の世界の天上の青

15.護られてるだけでは

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 汗が地面に滴り落ちた。

 誰かが駆け寄る足音がして、顔を上げる。
 カタカタ震える手に視線を落とすと、地面がとても近いところにあった。
 ぎょっとして周囲に目をやって、ヴィエナはようやく、自分がぺたりとへたり込んでいることに気づいた。

「ヴィエナ、急にどうしたんだ」

 駆けつけたオーウェンが、片手に持ったままだった剣を地面に放り出し、ヴィエナを抱き起こした。見上げると、まだ中天まで昇り切っていない太陽が、さんさんと中庭を照らしていた。

「し、さい、さま……」

 口の中がカラカラだ。
 掠れて嗄れた声を絞り出そうとして、咳き込んでしまう。
 さっきまでメイサとおしゃべりをしながら洗濯をしていたはずなのに、いったいどうしてこんなことに?
 あの山羊髭の男は、やはり幻ではなく本物の悪魔デヴィルだったのか。

「ヴィエナ、いちど部屋に戻るぞ」

 オーウェンはそう言って手早くヴィエナを上着に包んだ。いたわるように横抱きに抱き上げて、足早に宿舎へと向かう。

 もどかしそうに鍵を出し、どうにか扉を開けて中へと入ると、まっすぐ奥の寝室へヴィエナを連れて行く。そのまま寝かせて熱や喉のようす、瞼の裏を確認して、目に見える異常がないことにほっとする。

「メイサが中庭から出ていった後、お前がいきなりしゃがみこんだんだ……いったいどうした? 身体の調子が悪いのか?」

 水を入れたカップを渡され、ひと口こくりと飲み込んだ。カラカラだった喉に湿り気が戻り、ようやく普通に声が出せるようになった。

「――幻かも、しれない、ですけど」

 ヴィエナはごくりと喉を鳴らす。
 オーウェンが先を促すように、静かに頷いた。
 カップを持ったまま小さく震えるヴィエナの手を、安心させるように、上からそっと包み込む。

「……夏が終わったら、“賭け”も終わるって、悪魔が……山羊髭の悪魔が、言いに来たんです」
「山羊髭の悪魔?」

 オーウェンが呆然と目を見開いた。
 まさか、と小さく呟いて、魔除けの祈りの一節を呟く。すばやく周囲を見回し、戦神の聖印を掲げて聖別された場を作るためのの聖句を唱える。
 山羊髭の悪魔と言われたら、あれしか思いつかない。
 あの、“大災害”が世界を襲った日、“魔女”が呼び出して“名無し”が賭けを持ち掛けた大悪魔アーチデヴィルだ。

「すまない。わたしにもう少し力があれば気づけただろうに」
「あの、でも、司祭様の戦神の御守りがあったから、大丈夫で……」

 頭を抱え込まれ、慌てて取り繕うように続けようとして、すぐ近くにオーウェンの声と吐息を感じて、不意に、どきん、と心臓が跳ね上がった。

「あ」

 言葉がそれ以上続かなくなる。
 いったいどうして……と、間近にあるオーウェンの顔を見上げた。
 オーウェンの、天上の青ゼニスブルーを宿した瞳でまともに見つめ返されて、息が苦しくなる。
 目を合わせていられなくて、慌てて視線を逸らす。

「ヴィエナ?」

 急に口を噤んでしまったヴィエナを、オーウェンは怪訝な表情を浮かべ、探るように覗き込む。

「どうしたのだ?」

 ヴィエナは理解してしまった。

 母の言っていた“大切なひと”がいったい何のことなのか、唐突に理解してしまった。
 悪魔と自分が、“何”を、“賭け”ているのか、どうして母が“賭け”に負けてしまったのか……なぜ、今、このタイミングで悪魔が現れたのか、全部わかってしまった。

 悪魔の言葉のとおりなら、夏が終わるまで……賭けが終焉を迎え、すべての決着が付く日まで、あと数ヶ月だ。
 ヴィエナは俯いて、オーウェンに頭をもたせかける。

 オーウェンの手が優しく背を撫でる。だが、それだけだ。
 それだけなのに、夏が終わるまでに賭けに勝つことなんて、とても無理だ。

 それに、もし賭けに勝ってしまえば、たくさんの魂を取り逃がした悪魔の怒りは、きっとオーウェンへと向かう。それがどんな理不尽な怒りであっても、オーウェンが悪魔の怒りを買ってしまうことになる。

 中庭で見たものが幻なのか現実なのか、ヴィエナにはわからなかった。しかしそれでも、あの悪魔に恐ろしい力があることは感じ取れた。
 ヴィエナは、そんなものにオーウェンを晒したくない。

「ヴィエナ、どうした? もしや、悪魔がお前に何か……」

 耳元に口を寄せ、心配そうに声を落として尋ねるオーウェンに、ヴィエナはふるふると頭を振る。

「その、大丈夫です。司祭様の御守りが、護ってくれたから」
「では……」
「悪魔は、賭けの期限を教えなきゃフェアじゃないって言いにきたんです。それに……賭けを降りるのも自由だって。
 降りたら私の負けだけど、私だけは見逃してもいいって」

 オーウェンの顔色が変わる。ヴィエナが迷うように視線を泳がせると、たちまちオーウェンの表情は険しくなった。

「見逃す、だと?」
「司祭……さま」
「ヴィエナ、悪魔の紡ぐ言葉に耳を貸してはいけない」

 こくりと小さく頷くヴィエナの頭に、オーウェンの大きな掌が乗った。

「奴らが提示する取引は、とても簡単で良いものに見えるかもしれない。けれど、悪魔の言葉に乗せられたものは必ず陥れられ、破滅を迎えてしまうんだ」
「わかってます。悪魔は……すごく怖かったんです。私が見逃してくれるなら降りるって言ったら、きっと今度は別な何かの理由をつけて……結局、私のことも地獄へ連れて行く気なんだって……」
「大丈夫、心配するな。お前のことはちゃんと護ると誓ったろう?」

 ヴィエナは小さく頷く。
 頷きながら、どうして、最初の何かは自分をオーウェンに預けたのだろうと考えた。
 オーウェンに、いったい何を期待して預けたんだろう、と。



 それから数日、また日々は平穏に過ぎる。

 ただ、ヴィエナにとって、オーウェンと目を合わせることはどうにも気恥ずかしくてしかたがないものになってしまった。
 夜、休むときもすぐそばにオーウェンがいると考えるだけで、心臓が高鳴って苦しくて、なかなか寝付けない。
 全部、ここへ来てから変わらずにずっと続けてきたことなのに、ヴィエナだけが変わってしまった。

 オーウェンは、ヴィエナがこの教会の中にまで悪魔が姿を現したことに怯えているだけだと考えているようだが……ヴィエナは、どうしたら悪魔の怒りを買うことなく、悪魔に手を引かせられるだろうかと、ずっと考えていた。



「最近、どうにもヴィエナのようすがおかしいように思うのだ。何か気づいたことはないだろうか」

 今日も日課となった竜屋敷通いだ。
 いつものように教会から持ち込んだ書類の束を揃えながら、オーウェンは茶を淹れてくれたイヴリンに尋ねてみた。

 そう、最近の……あの、中庭で悪魔に会った後のヴィエナのようすは、明らかに以前と違うものになっていた。何かがずっとヴィエナを悩ませている。けれど、ヴィエナは決してその何かが何であるかを話そうとしない。
 それほどまでにオーウェンが頼りないのだろうか。
 悪魔を目の前にして、オーウェンでは役に立たないと考えてしまったのだろうか。

 だが、オーウェンの質問と溜息に、イヴリンは思い切り眉を上げただけだった。いったいこの男は、今さら何を言い出しているのかという顔だ。
 それから、外でアライトに魔法の指導を受けるヴィエナを見やる。

「オーウェン司祭って、有能そうなくせしていちばん肝心なところが鈍感で、本当のところはただのボンクラなんじゃないかと思うわ」
「ボン……? いったい何を……」

 面食らったように目を見開いて、オーウェンはイヴリンを凝視する。
 自分が訊いたのは、そんなことだったか?

「わからないならそのままわからないでいなさいよ。私の口から言っていいことじゃないもの。オーウェン司祭は自分で考えることね」

 呆れた口調で畳み込まれて、さすがのオーウェンも返す言葉がない。イヴリンの口調では、やはりオーウェン自身にヴィエナの態度の原因があるようだが、その原因はオーウェンが考えているものとは違うようで……。

「ねえ、オーウェン司祭に、ヴィエナはどう見えてるの?」
「どう、とは?」
「司祭には、護らなきゃならない小さな女の子としか見えてないみたいよね」

 イヴリンが何を言いたいのかわからず、オーウェンは首を傾げる。窓の外に見えるヴィエナは、どう見ても“小さな女の子”なのだ。
 呆れたように吐息を漏らすイヴリンに、視線を戻す。

「十五っていったら、立派な大人としての振る舞いを求められる歳よ。早い子ならもう結婚相手を決めていて、十六になると同時にお嫁に行ったりもするわね」
「たしかに、そうだが」
「オーウェン司祭、ヴィエナは強い子だわ。それに、たぶん頭もいい子ね。親を亡くしてから今まで、ひとりきりで無事に生きてきたんだもの」
「そうだな。それに、あの子は苦労のわりにあまり擦れていない。きっと母親が大切に育ててきたのだろう」

 ガタガタと部屋の端から丸椅子を持ってきて、イヴリンは腰を下ろした。
 窓の外で、ヴィエナは何度も……うまく点いたり点かなかったりする灯りの魔法を繰り返しているようだ。

「エルヴィラとオーウェン司祭って、さすが兄妹よ。よく似てるわ。ふたりとも、それは見事な“護ることが嬉しい”タイプで……さすが戦神教会ね」

 窓の外をじっと見つめたまま呆れた口調を崩さないイヴリンを、怪訝そうに見やる。だが、イヴリンの表情は口調ほど呆れたものではなく――

「ヴィエナは……そうねえ、ただ護られるだけじゃ我慢できない子じゃないかしら。かといって、エルヴィラとも違うわね」
「護ること、か」

 オーウェンも、また外のヴィエナへと視線を移した。

 まだ十にも満たない頃、幼い妹とふたり連れ立って町へと出たことがある。両親にはまだ早いと止められていたのに、自分がいれば大丈夫だとこっそり連れ出しての、いわば子供の冒険だ。
 だが、その小さな冒険は、散々な結果に終わってしまった。
 祖父への的外れな逆恨みを抱いた暴漢に襲われて、危うく妹ともども儚く終わるところだったのだ。
 思えば、誰かを護れるほどに強くならなくてはと本当に考えたのは、あれが最初だったのだろう。

 もちろん、今はもう無力な子供ではない。戦神に仕える高司祭として、かなりの神術の行使も許されている。
 だが、今度の相手は単なる暴漢ではない。九層地獄界インフェルノのひとつの階層を統べるほどの力を持つ悪魔大公デヴィルプリンスだ。
 未だに“賭け”の勝利条件もわからないまま、オーウェンが感じているのは、やはりどうしようもない無力感だった。



「アライトさん、悪魔デヴィルを出し抜くことって、できると思いますか?」

 小さな灯りを作るだけの魔法を、繰り返し繰り返し何度も練習しながら、ヴィエナはアライトに尋ねてみた。
 竜ならヴィエナの知らないことも知っているのではないかと期待して。
 アライトはちらりとヴィエナを見下ろして、ふむ、と考えてみる。

「んー……まあ、できないことはないだろうけど」
「どうすれば出し抜けるんですか?」
「だいたいは、悪魔が考えもしなかったことをするとかじゃねえかな。俺よりミーケルのほうが、そういうのは詳しいぞ」
「ミーケルさん、なら」

 アライトの答えはヴィエナの期待してたものとは少し違った。
 けれど、たしかに、古今東西の伝承に通じた吟遊詩人なら、何かよい知恵を持っているかもしれない。

 じっと考え込むヴィエナに、アライトは肩を竦めるだけだった。


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