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灰色の世界の天上の青
17.“勝ち取れ”
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何かボタンを掛け違えてしまっているような変な噛み合わなさを残したまま、表面だけは平穏な日々は続く。
オーウェンは何かと「心配するな」を口に出し、ヴィエナは「大丈夫です」と返すようになっていた。
けれど、オーウェンの目には隠し切れない焦りがじわりと滲み出ていて……ヴィエナは、やはり自分にできるのはひとつしかないと考えていた。
* * *
ぼんやりと霧がかったような、不思議な場所だった。教会でも竜屋敷でも、町の中のどこかでもなく……かといって、町の外でもないどこかだった。
「君は、本当にそれでいいの? もう、君で最後だけど」
「私、もう決めて……皆も、解放されるんじゃないかなって思うし」
「君は? ただじゃ済まないだろう? もしかしたら……」
「私は平気」
「彼は護ることも愛することもどういうことかを知っている。だから、僕は彼ならと思ったんだけどな」
大きく温かい、けれど、剣だこも何もない手を握って、どこかをゆっくり歩いている。ここはいったいどこなんだろうと考えながら、ヴィエナは頷いた。
「でも、そうすれば、オーウェン様は無事だから」
「そうか」
立ち止まり、急に抱き締められる。
目の前に、片方が折れてしまった黒い角と銅色の髪が揺れている。
「君もやっぱり、僕らの末裔なんだね」
* * *
「もう疲れたの」
「どうせ救われないのだから、同じだわ」
「次代に移って相手が変わっても、やっぱり皆同じなの」
「いつもいつも手を引いてしまうのよ。そうして、またひとりここに加わる」
「なら、最初から諦めてしまえばいいのに、やっぱりほんの少しだけ期待してしまうの。もしかしたら、って」
「でも、もうそれも終わるわ。最後の子も、やっぱり思い切れなかった」
自分の周囲を、揺らめく炎に炙られるように、いくつもの人影が揺れている。だが、この場に漂っているのは諦観と寂寥ばかりで……。
「魔女、なのか……“月の魔女”?」
オーウェンの目の前に、ゆらり、と人影が現れた。
「“彼”がいないのに、幸せになどなれるわけがないのよ」
「なぜだ? “彼”はお前の幸せを願ったのではなかったか」
ゆらゆらと頼りなく燃える灯火のような人影に、オーウェンは一歩近づく。
「“彼”は、生きてくれと言った。私に、生きろって。酷い言葉よ。“彼”もいないのに、“悪魔憑き”なのに、生きてる意味なんてわからなかったのに……」
「だが、子供がいたから、お前は生きようと思ったのだろう?」
ゆらり、と影が揺れて……小さく頷いたように見えた。
「どうして。ずっとできなかったのに、どうして、今さら……」
「子供を得て、お前は幸福を感じなかったのか?」
たまらず、オーウェンはもう一歩を踏み出した。
「お前は子供を慈しんで育てたのだろう? “彼”の遺した角を夜の女神の護符に変えて、子供を護ってくれと思いを込めて」
ゆらゆらと、影は揺らめき続ける。
「でも、“彼”が戻って来たわけではないわ」
「だが何も残ってなかったわけでもない。お前と彼の血を分けた子供がいた」
「でも……」
影のゆらぎが大きくなる。
「お前と彼の血を引いたヴィエナは、私が護る。だからとは言わないが、もう嘆くのはやめないか。悪魔の賭けから解放されたら、お前は彼と共に神の御元へと昇るのだろう?」
大きくゆらりと揺れて、影はじっとオーウェンを見つめた。
「それなら、どうしてあの子は諦めてるの?」
「なに?」
「どうせ、あなたも同じなんでしょう?」
「同じ?」
また、影は揺れ始める。じっとオーウェンを見つめながら。
「“彼”がいないのに、私たちが幸せになれるわけないのに……誰も、“彼”の代わりになんてならないのに、どうして期待してしまうんだろう」
「何を……なぜ、そんなに、お前たちは諦めているんだ」
ゆらゆら、ゆらゆら、影は炎に捲き上げられて踊るように揺れる。
「あなたも同じなのよ。どうせわからない。だから、私たちももう期待しない。どうせ、皆、あの悪魔のものとなって、九層地獄界の業火と汚泥の中を這いずる魔霊に成り果てるのだから」
ごお、と大きく炎が噴き上がり、周囲の影は溶け崩れるように消えた。
後に残るのは、しん、と静まった闇と……。
* * *
がば、とオーウェンは起き上がった。
は、と短く息を吐いて、ここが自分の寝室であることを確認する。
「司祭様?」
ヴィエナの寝ぼけた声がすぐ横から聞こえて、今度はほっと息を吐いた。
見上げるヴィエナの顔を確かめて……目を細め、ヴィエナの目にどんな光が宿っているのかを見定めようとする。
「どうしたの、司祭様……オーウェン様」
なぜだかオーウェンが泣きそうだと感じられて、ヴィエナは起き上がった。手を伸ばし、もう一度「オーウェン様?」と呼び掛けて頬を撫でる。
オーウェンは不思議そうに見返すヴィエナの頭を抱き締めて……額にそっと触れるように口付けを落とした。
伸ばしていたヴィエナの手がぴくりと揺れる。頬から首へと滑り落ち、後ろへと回された後、きゅ、と押し付けるように身体を寄せた。
オーウェンの手がゆっくりと髪を撫で、目蓋に口付け、頬に口付け……とうとう、唇を啄ばんで――
「しさい、さま」
驚いて目を見開くヴィエナに、オーウェンはハッと我に返った。慌てて身体を離し、ヴィエナを毛布に包む。
「あ、いや、その……すまない」
「えと、大丈夫、です」
ヴィエナは小さく頭を振って毛布に潜り込んだ。
まだ暗いのにこのまま起きてしまおうというのか、ベッドから降りるオーウェンの気配を感じながら、唇が触れたところを指先でなぞる。
顔が、熱い。
心臓が、どきどきする。
うれしくて、しかたない。
もしかして、オーウェンは自分を? と考えてヴィエナの顔に血が上り……けれど、すぐに上った血は引いていった。
なら、急がなきゃいけない。
毛布に潜り込んだまま悶々と、ヴィエナは、今日すべきことを考える。
あれ以来、オーウェンとミーケルは喧嘩別れのような形になってしまったが、ヴィエナの竜屋敷通いは続いていた。
いつものように……とはいかず、今朝の出来事のせいか、まともに顔を見ることができない。けれど手は繋いで、教会から竜屋敷へと向かう。
教会は領主家にいちばん近い広場に面していて、竜屋敷は少し奥まった山寄りの住宅街の中だから、ゆっくり歩けば四半時ほどの距離だ。いつもなら、道すがら見掛けたものなど他愛もないことを話しながら歩くのに、今日はどうにも言葉が出てこなくて……ふたりとも無言で、ただ黙々と足を動かすだけだった。
けれど、これが最後かもしれないんだ、とヴィエナは空を見上げる。
暑い季節が始まった空はどこまでも青く澄んでいて、天の頂上へ行くほどにその色は濃さを増していく。
まるで、オーウェンの瞳のような青に。
初めてオーウェンと会った時、目の色がこの空の青だと思ったんだっけと考えて、なんとなく笑ってしまう。
オーウェンは、あの時感じた印象どおり少しだけ怖くて、でも、とても頼りになって、優しくて……。
「どうした?」
不意に声を掛けられて、ヴィエナはオーウェンを降り仰いだ。
「よく晴れてるなって思って……オーウェン様みたいな、天上の青だなって」
言われて、オーウェンも空を仰ぐ。
「この赤毛と青い目は、カーリスの家の特徴なんだ。我が家の直系は、なぜだかこの色で産まれてくることが多い。
ヴィエナの色も、先祖から代々受け継いできた色なんだろうな」
「そうかな」
ヴィエナの薄い金の髪と紫の目も、何か由縁があってこの色なんだろうか。そういえば、母もよく似た色だった。
お下げに編んだ髪を持ち上げてしげしげと眺めるヴィエナの頭に、オーウェンの手がぽんと乗る。
「きれいな月の光の白金に、夕暮れの紫だ。淡い色の者は北方の出身が多いというから、ヴィエナの血筋を辿ると北に行くのかもしれないな」
「北に……」
全部が済んで、それでも、もし自分が無事でいられたら、北へ行ってみるのもいいかもしれない。
竜屋敷では、今日は庭で魔法の訓練だった。
始めたばかりのどうにもならないところを過ぎてコツを掴んで見れば、ヴィエナはなるほど、“魔女”の末裔だけあると思えるほどに魔法への適性を見せた。
「俺が教えられるのは初歩の初歩だからな。本格的にやるなら、ちゃんと師匠を探したほうがいい。あんたが続けたいなら、司祭の兄さんに頼んでおけば探してくれるだろ。都にも伝手があるんだからな」
ヴィエナはこくんと頷いて、庭に面した窓をちらりと見た。今日も持ち込んだ書類を片付けながら、オーウェンがこちらを見返す。
「アライトさん」
「ん?」
「お願いがあるんです」
「お願い? そりゃ内容によるな」
窓から視線を外し、アライトへと向ける。
アライトは小さく首を傾げた。
「私を、魔術師イレイェンの塔に連れてって欲しいんです」
「なんで俺に? 司祭の兄さんに頼めばいいだろう?」
「オーウェン様は、たぶん連れてってくれません。でも、私、行かなきゃならないんです。悪魔の印を消せる天の者って、私が知ってる限り、イレイェンの塔のトーレさんしかいないんです」
「あんた……確かそれって、危険なんじゃなかったか?」
「その、危険は、ちょっとだけだから」
じいっと目を眇めるアライトに、ヴィエナはきゅっと唇を噛み締めて、それからぐいと顔をあげた。
「危なくても、そうしなきゃいけないんです。それに、私の足じゃオーウェン様にすぐ追いつかれちゃうけど、竜の翼は強くて速いっていうから、アライトさんに頼むのがいちばんだと思ったんです。
お願いします、連れてってください」
「あんたさ、よく考えて決めたのか?」
アライトは、ゆっくりと頷くヴィエナの目を覗き込む。じっくり見つめて、大きく息を吐いて……それから、「しかたねえな」と呟いた。
「あんたが決めて、絶対だというならしかたない、送ってやる。だけど、飛び始めたらあっという間に着いちまうんだ。止めるなら今のうちだぞ」
「止めません」
アライトは目だけでオーウェンを見やり、「あーあ」とまた呟いた。
「俺が貧乏くじ引いてる気がするけどしかたない。ほら、乗りな」
アライトの輪郭がぼやけたと思った次の瞬間、大きな竜が目の前に現れた。ヴィエナが乗りやすいよう、首を下げ、身体を低くして背に跨がれと促す。
急いで首の根元に乗り、背に生えた棘にしっかりと捕まると、「手を離すなよ」と言ってアライトは力強く羽ばたいた。
ばたんと窓が開いて、オーウェンの声が響く。
「アライト殿!? ヴィエナ、どこへ!」
「オーウェン様、ありがとうございました」
小さく呟くヴィエナを乗せたアライトは、瞬く間に空を飛び去って行く。
急に強い風が吹き付けるように窓がガタついて、オーウェンは顔を上げ……窓の外に見えた光景に息を呑んだ。
ヴィエナを乗せた竜型のアライトが、今にも飛び立とうとしていたのだ。
慌てて窓を開けて呼び掛けたが、ふたりとも、オーウェンを一瞥しただけで飛び去ってしまい……。
シルルを抱いたイヴリンも立ち上がり、「あらあら」と窓の外に顔を出す。
オーウェンはしばし愕然として、それからヴィエナに付けたさせたままだった指輪を思い出した。しかるべき“言葉”を唱え、集中すれば、対になった指輪の持ち主の居場所がわかるという魔道具だ。
ヴィエナが向かった先が、山の……あの、以前訪ねた魔術師の塔の方向とすぐにわかって、オーウェンは思わず唸り声をあげた。
「とー、そら」
「アライト、飛んでったわね」
そのオーウェンを横目に、空を指差して父竜さながら翼をはためかせるシルルに話しかけながら、イヴリンはちらりとオーウェンを見やった。
そこに、ノックの音が響く。
ガチャリと扉が開くと、珍しく少し慌てたミーケルが入って来た。
「イヴリン、ヴィーが産気づいたんだ」
「え、今? このタイミングで?」
さすがに驚いたイヴリンが目を丸くする。
オーウェンも驚きに呆然と固まってしまう。
「でも、アライトは……」
「うん、さっき窓から見えたからわかってる。とにかく僕は産婆を呼んで来るから、その間ヴィーに付いててくれないか」
「ええ、構わないけど……」
イヴリンがちらと視線を動かすと、そこではまだ、オーウェンが口元を手で覆ったまま呆然としていた。
ミーケルは、珍しい義兄の姿に、ふん、と鼻を鳴らす。
「で、義兄殿は、どうするの」
「どう……」
「ヴィーについていたい? それとも、ヴィエナを追い掛ける?
まあ、ヴィーも大好きな兄上がいるなら安心だし喜ぶと思うから、付いててくれても構わないけど」
「あ、いや……」
歯切れ悪く、どうしたものかと視線を揺らすばかりのオーウェンに、ミーケルは今度こそ大きく嘆息した。
「何を迷ってるんだよ。即断即決猪突猛進がカーリスのお家芸じゃなかったのか、義兄殿らしくない。
そんな義兄殿に、ヴィーから伝言だよ。“兄上はかつて私に言っただろう。それでもカーリス家の者か、勝ち取れって”」
オーウェンは驚いたように瞠目する。
「“勝ち取れ”、だと……」
「何のことか知らないけど、家訓なんだろ?」
オーウェンは告げられた言葉を小さく繰り返して、それから、くっ、と堪えきれずに噴き出した。
ひとしきり笑って、大きく息を吐く。
「そうだな。我が妹の言う通り、“勝ち取れ”というのが我がカーリス家の家訓であり伝統だったな」
オーウェンはくるりと踵を返し……それから、言い残したことを思い出してもういちど振り返る。
「我が義弟よ、妹とその子のことはお前に任せた。私は事がすべて終わったら、顔を出すことにする」
「偉そうな顔して何言ってるんだよ。当たり前だ、僕の子なんだから、義兄殿の出る幕なんかこれっぽっちだってないさ」
「そうだったな」
オーウェンは破顔して軽く片手を振った。足早に竜屋敷を出ると、そのまま山へ……イレイェンの塔へと足を向けた。
オーウェンは何かと「心配するな」を口に出し、ヴィエナは「大丈夫です」と返すようになっていた。
けれど、オーウェンの目には隠し切れない焦りがじわりと滲み出ていて……ヴィエナは、やはり自分にできるのはひとつしかないと考えていた。
* * *
ぼんやりと霧がかったような、不思議な場所だった。教会でも竜屋敷でも、町の中のどこかでもなく……かといって、町の外でもないどこかだった。
「君は、本当にそれでいいの? もう、君で最後だけど」
「私、もう決めて……皆も、解放されるんじゃないかなって思うし」
「君は? ただじゃ済まないだろう? もしかしたら……」
「私は平気」
「彼は護ることも愛することもどういうことかを知っている。だから、僕は彼ならと思ったんだけどな」
大きく温かい、けれど、剣だこも何もない手を握って、どこかをゆっくり歩いている。ここはいったいどこなんだろうと考えながら、ヴィエナは頷いた。
「でも、そうすれば、オーウェン様は無事だから」
「そうか」
立ち止まり、急に抱き締められる。
目の前に、片方が折れてしまった黒い角と銅色の髪が揺れている。
「君もやっぱり、僕らの末裔なんだね」
* * *
「もう疲れたの」
「どうせ救われないのだから、同じだわ」
「次代に移って相手が変わっても、やっぱり皆同じなの」
「いつもいつも手を引いてしまうのよ。そうして、またひとりここに加わる」
「なら、最初から諦めてしまえばいいのに、やっぱりほんの少しだけ期待してしまうの。もしかしたら、って」
「でも、もうそれも終わるわ。最後の子も、やっぱり思い切れなかった」
自分の周囲を、揺らめく炎に炙られるように、いくつもの人影が揺れている。だが、この場に漂っているのは諦観と寂寥ばかりで……。
「魔女、なのか……“月の魔女”?」
オーウェンの目の前に、ゆらり、と人影が現れた。
「“彼”がいないのに、幸せになどなれるわけがないのよ」
「なぜだ? “彼”はお前の幸せを願ったのではなかったか」
ゆらゆらと頼りなく燃える灯火のような人影に、オーウェンは一歩近づく。
「“彼”は、生きてくれと言った。私に、生きろって。酷い言葉よ。“彼”もいないのに、“悪魔憑き”なのに、生きてる意味なんてわからなかったのに……」
「だが、子供がいたから、お前は生きようと思ったのだろう?」
ゆらり、と影が揺れて……小さく頷いたように見えた。
「どうして。ずっとできなかったのに、どうして、今さら……」
「子供を得て、お前は幸福を感じなかったのか?」
たまらず、オーウェンはもう一歩を踏み出した。
「お前は子供を慈しんで育てたのだろう? “彼”の遺した角を夜の女神の護符に変えて、子供を護ってくれと思いを込めて」
ゆらゆらと、影は揺らめき続ける。
「でも、“彼”が戻って来たわけではないわ」
「だが何も残ってなかったわけでもない。お前と彼の血を分けた子供がいた」
「でも……」
影のゆらぎが大きくなる。
「お前と彼の血を引いたヴィエナは、私が護る。だからとは言わないが、もう嘆くのはやめないか。悪魔の賭けから解放されたら、お前は彼と共に神の御元へと昇るのだろう?」
大きくゆらりと揺れて、影はじっとオーウェンを見つめた。
「それなら、どうしてあの子は諦めてるの?」
「なに?」
「どうせ、あなたも同じなんでしょう?」
「同じ?」
また、影は揺れ始める。じっとオーウェンを見つめながら。
「“彼”がいないのに、私たちが幸せになれるわけないのに……誰も、“彼”の代わりになんてならないのに、どうして期待してしまうんだろう」
「何を……なぜ、そんなに、お前たちは諦めているんだ」
ゆらゆら、ゆらゆら、影は炎に捲き上げられて踊るように揺れる。
「あなたも同じなのよ。どうせわからない。だから、私たちももう期待しない。どうせ、皆、あの悪魔のものとなって、九層地獄界の業火と汚泥の中を這いずる魔霊に成り果てるのだから」
ごお、と大きく炎が噴き上がり、周囲の影は溶け崩れるように消えた。
後に残るのは、しん、と静まった闇と……。
* * *
がば、とオーウェンは起き上がった。
は、と短く息を吐いて、ここが自分の寝室であることを確認する。
「司祭様?」
ヴィエナの寝ぼけた声がすぐ横から聞こえて、今度はほっと息を吐いた。
見上げるヴィエナの顔を確かめて……目を細め、ヴィエナの目にどんな光が宿っているのかを見定めようとする。
「どうしたの、司祭様……オーウェン様」
なぜだかオーウェンが泣きそうだと感じられて、ヴィエナは起き上がった。手を伸ばし、もう一度「オーウェン様?」と呼び掛けて頬を撫でる。
オーウェンは不思議そうに見返すヴィエナの頭を抱き締めて……額にそっと触れるように口付けを落とした。
伸ばしていたヴィエナの手がぴくりと揺れる。頬から首へと滑り落ち、後ろへと回された後、きゅ、と押し付けるように身体を寄せた。
オーウェンの手がゆっくりと髪を撫で、目蓋に口付け、頬に口付け……とうとう、唇を啄ばんで――
「しさい、さま」
驚いて目を見開くヴィエナに、オーウェンはハッと我に返った。慌てて身体を離し、ヴィエナを毛布に包む。
「あ、いや、その……すまない」
「えと、大丈夫、です」
ヴィエナは小さく頭を振って毛布に潜り込んだ。
まだ暗いのにこのまま起きてしまおうというのか、ベッドから降りるオーウェンの気配を感じながら、唇が触れたところを指先でなぞる。
顔が、熱い。
心臓が、どきどきする。
うれしくて、しかたない。
もしかして、オーウェンは自分を? と考えてヴィエナの顔に血が上り……けれど、すぐに上った血は引いていった。
なら、急がなきゃいけない。
毛布に潜り込んだまま悶々と、ヴィエナは、今日すべきことを考える。
あれ以来、オーウェンとミーケルは喧嘩別れのような形になってしまったが、ヴィエナの竜屋敷通いは続いていた。
いつものように……とはいかず、今朝の出来事のせいか、まともに顔を見ることができない。けれど手は繋いで、教会から竜屋敷へと向かう。
教会は領主家にいちばん近い広場に面していて、竜屋敷は少し奥まった山寄りの住宅街の中だから、ゆっくり歩けば四半時ほどの距離だ。いつもなら、道すがら見掛けたものなど他愛もないことを話しながら歩くのに、今日はどうにも言葉が出てこなくて……ふたりとも無言で、ただ黙々と足を動かすだけだった。
けれど、これが最後かもしれないんだ、とヴィエナは空を見上げる。
暑い季節が始まった空はどこまでも青く澄んでいて、天の頂上へ行くほどにその色は濃さを増していく。
まるで、オーウェンの瞳のような青に。
初めてオーウェンと会った時、目の色がこの空の青だと思ったんだっけと考えて、なんとなく笑ってしまう。
オーウェンは、あの時感じた印象どおり少しだけ怖くて、でも、とても頼りになって、優しくて……。
「どうした?」
不意に声を掛けられて、ヴィエナはオーウェンを降り仰いだ。
「よく晴れてるなって思って……オーウェン様みたいな、天上の青だなって」
言われて、オーウェンも空を仰ぐ。
「この赤毛と青い目は、カーリスの家の特徴なんだ。我が家の直系は、なぜだかこの色で産まれてくることが多い。
ヴィエナの色も、先祖から代々受け継いできた色なんだろうな」
「そうかな」
ヴィエナの薄い金の髪と紫の目も、何か由縁があってこの色なんだろうか。そういえば、母もよく似た色だった。
お下げに編んだ髪を持ち上げてしげしげと眺めるヴィエナの頭に、オーウェンの手がぽんと乗る。
「きれいな月の光の白金に、夕暮れの紫だ。淡い色の者は北方の出身が多いというから、ヴィエナの血筋を辿ると北に行くのかもしれないな」
「北に……」
全部が済んで、それでも、もし自分が無事でいられたら、北へ行ってみるのもいいかもしれない。
竜屋敷では、今日は庭で魔法の訓練だった。
始めたばかりのどうにもならないところを過ぎてコツを掴んで見れば、ヴィエナはなるほど、“魔女”の末裔だけあると思えるほどに魔法への適性を見せた。
「俺が教えられるのは初歩の初歩だからな。本格的にやるなら、ちゃんと師匠を探したほうがいい。あんたが続けたいなら、司祭の兄さんに頼んでおけば探してくれるだろ。都にも伝手があるんだからな」
ヴィエナはこくんと頷いて、庭に面した窓をちらりと見た。今日も持ち込んだ書類を片付けながら、オーウェンがこちらを見返す。
「アライトさん」
「ん?」
「お願いがあるんです」
「お願い? そりゃ内容によるな」
窓から視線を外し、アライトへと向ける。
アライトは小さく首を傾げた。
「私を、魔術師イレイェンの塔に連れてって欲しいんです」
「なんで俺に? 司祭の兄さんに頼めばいいだろう?」
「オーウェン様は、たぶん連れてってくれません。でも、私、行かなきゃならないんです。悪魔の印を消せる天の者って、私が知ってる限り、イレイェンの塔のトーレさんしかいないんです」
「あんた……確かそれって、危険なんじゃなかったか?」
「その、危険は、ちょっとだけだから」
じいっと目を眇めるアライトに、ヴィエナはきゅっと唇を噛み締めて、それからぐいと顔をあげた。
「危なくても、そうしなきゃいけないんです。それに、私の足じゃオーウェン様にすぐ追いつかれちゃうけど、竜の翼は強くて速いっていうから、アライトさんに頼むのがいちばんだと思ったんです。
お願いします、連れてってください」
「あんたさ、よく考えて決めたのか?」
アライトは、ゆっくりと頷くヴィエナの目を覗き込む。じっくり見つめて、大きく息を吐いて……それから、「しかたねえな」と呟いた。
「あんたが決めて、絶対だというならしかたない、送ってやる。だけど、飛び始めたらあっという間に着いちまうんだ。止めるなら今のうちだぞ」
「止めません」
アライトは目だけでオーウェンを見やり、「あーあ」とまた呟いた。
「俺が貧乏くじ引いてる気がするけどしかたない。ほら、乗りな」
アライトの輪郭がぼやけたと思った次の瞬間、大きな竜が目の前に現れた。ヴィエナが乗りやすいよう、首を下げ、身体を低くして背に跨がれと促す。
急いで首の根元に乗り、背に生えた棘にしっかりと捕まると、「手を離すなよ」と言ってアライトは力強く羽ばたいた。
ばたんと窓が開いて、オーウェンの声が響く。
「アライト殿!? ヴィエナ、どこへ!」
「オーウェン様、ありがとうございました」
小さく呟くヴィエナを乗せたアライトは、瞬く間に空を飛び去って行く。
急に強い風が吹き付けるように窓がガタついて、オーウェンは顔を上げ……窓の外に見えた光景に息を呑んだ。
ヴィエナを乗せた竜型のアライトが、今にも飛び立とうとしていたのだ。
慌てて窓を開けて呼び掛けたが、ふたりとも、オーウェンを一瞥しただけで飛び去ってしまい……。
シルルを抱いたイヴリンも立ち上がり、「あらあら」と窓の外に顔を出す。
オーウェンはしばし愕然として、それからヴィエナに付けたさせたままだった指輪を思い出した。しかるべき“言葉”を唱え、集中すれば、対になった指輪の持ち主の居場所がわかるという魔道具だ。
ヴィエナが向かった先が、山の……あの、以前訪ねた魔術師の塔の方向とすぐにわかって、オーウェンは思わず唸り声をあげた。
「とー、そら」
「アライト、飛んでったわね」
そのオーウェンを横目に、空を指差して父竜さながら翼をはためかせるシルルに話しかけながら、イヴリンはちらりとオーウェンを見やった。
そこに、ノックの音が響く。
ガチャリと扉が開くと、珍しく少し慌てたミーケルが入って来た。
「イヴリン、ヴィーが産気づいたんだ」
「え、今? このタイミングで?」
さすがに驚いたイヴリンが目を丸くする。
オーウェンも驚きに呆然と固まってしまう。
「でも、アライトは……」
「うん、さっき窓から見えたからわかってる。とにかく僕は産婆を呼んで来るから、その間ヴィーに付いててくれないか」
「ええ、構わないけど……」
イヴリンがちらと視線を動かすと、そこではまだ、オーウェンが口元を手で覆ったまま呆然としていた。
ミーケルは、珍しい義兄の姿に、ふん、と鼻を鳴らす。
「で、義兄殿は、どうするの」
「どう……」
「ヴィーについていたい? それとも、ヴィエナを追い掛ける?
まあ、ヴィーも大好きな兄上がいるなら安心だし喜ぶと思うから、付いててくれても構わないけど」
「あ、いや……」
歯切れ悪く、どうしたものかと視線を揺らすばかりのオーウェンに、ミーケルは今度こそ大きく嘆息した。
「何を迷ってるんだよ。即断即決猪突猛進がカーリスのお家芸じゃなかったのか、義兄殿らしくない。
そんな義兄殿に、ヴィーから伝言だよ。“兄上はかつて私に言っただろう。それでもカーリス家の者か、勝ち取れって”」
オーウェンは驚いたように瞠目する。
「“勝ち取れ”、だと……」
「何のことか知らないけど、家訓なんだろ?」
オーウェンは告げられた言葉を小さく繰り返して、それから、くっ、と堪えきれずに噴き出した。
ひとしきり笑って、大きく息を吐く。
「そうだな。我が妹の言う通り、“勝ち取れ”というのが我がカーリス家の家訓であり伝統だったな」
オーウェンはくるりと踵を返し……それから、言い残したことを思い出してもういちど振り返る。
「我が義弟よ、妹とその子のことはお前に任せた。私は事がすべて終わったら、顔を出すことにする」
「偉そうな顔して何言ってるんだよ。当たり前だ、僕の子なんだから、義兄殿の出る幕なんかこれっぽっちだってないさ」
「そうだったな」
オーウェンは破顔して軽く片手を振った。足早に竜屋敷を出ると、そのまま山へ……イレイェンの塔へと足を向けた。
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