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ほんとうは、
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再び氷原に出て五日。日に日に冷たくなっていく風に、ヴァロが「いつもより冬の訪れが早そうだ」と呟いた。
「ヴァロさん、降ってきた!」
冷たく湿った風の匂いで、天候が崩れることはわかってた。
この時期はまだ雨のはずで……けれど雨宿りできる場所までもう少しというところで降り出したのは、霙だった。べしょべしょに解けかかった雪混じりの雨は、すぐに大降りに変わる。
霙はただの雨や雪よりずっとマントに貼り付きやすい。これでは、いかに目が詰まっていてしっかりと油を引いた布でも、あっというまに水が染み込んでしまう。
おまけに、これから日が傾けばどんどん気温が下がって、この霙は雪に変わる筈だ。すぐに乾かさないと命取りになってしまう。
岩が重なりあった場所に駆け込むまでの、たった四半刻程度の間に、エリサもヴァロもマントの下までぐっしょりと濡れて、歯の根が合わないほどに震えていた。
「エリサ、着替えは無事か?」
「だ、大丈夫なのも、いくつか……」
「なら、毛布を被ってすぐに着替えるんだ。グラートを上着の中にいれて、いっしょに温まるといい」
「ヴァ、ヴァロさんは」
「私は先に天幕を張るよ。風が出てきたらまずい。エリサは着替えが終わったら火を起こしてくれ。火起こし棒を使っていいから」
「は、はい」
できるだけ乾いた場所を選んで、ヴァロは天幕の準備をする。
エリサは凍えてままならない手で荷物を広げて、少し湿ってしまった毛布と着替えを取り出した。寒いのか、布に包まれたグラートはまん丸に羽毛を膨らませ、ヒヨヒヨと鳴いている。
毛布を被って、どうにか着替えて、上着の合わせの下にグラートを入れるとようやく少しだけ温まった。鳴いて餌をねだるグラートに、凍りかけた肉を手で解かしてから与えると、もっと欲しいとまた鳴いた。
「少し待ってね」
天幕を張ろうと悪戦苦闘するヴァロをちらりと見て、それからエリサは燃料袋から出した練炭をいくつか積み上げて、火起こし棒を擦り付ける。
魔術ではなく錬金術で作ったという火起こし棒は、不思議な薬を塗った指くらいの大きさの木の棒だ。エリサには何故そうなるのかわからないが、とにかくこうして練炭に擦り付けさえすれば火を起こすことができる、とても便利な道具だった。
いつもなら火打ち石で難なく点火できても、今日のような悪天候の中では果たしてうまく点けられるかどうか。こういう便利なものがあって良かったと、火が移って赤く染まり始めた練炭にほっとした。
「ヴァロさん、火が点いたよ」
「ああ、よかった」
ようやく天幕を張り終えたヴァロが、濡れそぼったマントを脱いだ。その下の衣服も、きっと下着までぐっしょりと濡れてしまっているだろう。
「ヴァロさんも早く着替えて。毛布は出してあるよ」
「ありがとう。じゃ、少し失礼するよ」
濡れて色が変わってしまった革のブーツとグローブを火のそばに置いて、ヴァロはごそごそと荷物を漁る。その隙にフロスティは火のそばの良い場所を陣取って、自分の毛皮の手入れを始めた。
「荷物も完全に無事ってわけにはいかなかったな」
「でも、湿ってるくらいで、そこまで濡れてないから」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、毛布の中でヴァロが着替えている。
エリサは小さな手鍋を出して火にかけた。中の水が湯に変わり、ふつふつと小さな泡が立ち始めたところに幾ばくかの薬草を入れてしばらく煮出す。最後に、少しばかりの干し果実と蒸留酒を注いで煮立てれば完成だ。
「ヴァロさんも、薬草茶飲むでしょう?」
「ああ、いただくよ」
寒くて寒くて仕方ない夜、暖かく寝るためにと、父の酒を拝借して母が作ってくれた薬草茶だ。“谷”を出る前にレシピを聞いておいて良かったと考えながら、エリサはヴァロにカップを渡す。
「ありがとう、エリサ。
しかし参ったな。予想ではもう少し後に降り出すはずだったのに、こんなに早く雨雲が移動してくるなんて失敗した。
しかも、明日には雪になりそうだ」
「今年は早く冬が来るのかな」
「どうだろう。そんな兆候はなかったと思うんだけど」
ふうふうと吹いて、ヴァロはカップで手を温めながら口を付ける。それから、ほっと息を吐いて「ひとりじゃなくて、よかったなあ」と呟いた。
「ひとりなら、火起こしまでの全部を自分でやらなきゃならなかったけど、エリサがいてくれたおかげで天幕を張るだけで済んだよ。
おまけに、こんなに温まるお茶まで出てきた」
「でも、ヴァロさんならひとりでもすぐに全部できたんじゃ?」
「いや、こんなに早く全部は無理だね」
不思議そうに自分を見るエリサに、ヴァロは小さく笑う。
「エリサ、こっちにおいで」
ヴァロが急にエリサを手招いた。まだ小さく震えていることに気づいたのだ。いっしょにフロスティも寄ってくる。
「グラートは?」
「上着の中で寝てる」
「そうか」
ヴァロはエリサの手を引いて、毛布の中に招き入れた。フロスティはヴァロの背を温めるように後ろで丸くなる。片手にカップを持ったまま、もう片手でしっかりエリサを抱えて、ヴァロは毛布の合わせを閉じた。
「さすがにやっつけの野営では寒いな」
天幕を叩く水音は、だんだんと静かになってきた。
もちろん、霙がやんだわけではなくて、雪に変わりつつあるからだ。
エリサを毛布ごと抱え込むようにして、ヴァロは練炭をもうひとつくべた。
「一度、小屋に寄ったほうが良さそうだ。
この様子じゃ、明日には完全に雪だろうな。朝になったら一番近い小屋へ行こう」
この季節の夜の訪れは早い。
ましてや、この悪天候ではもう夜のように空は暗い。
エリサは天幕を見上げた。
隙間からひゅうっと風が吹き込んで、思わず首を竦める。
首を撫でる冷気に、ぶるりと身体が震えた。
「髪は完全に上げないで、下ろしたほうがいいだろうな」
「え?」
「下ろして上着の中に入れたほうが暖かいんだ。首とか、背中がね」
しっかりと編み込んだ髪を巻いたエリサの頭に、ヴァロが顎を乗せる。
そういえば、とエリサは羊番をする時は首と背があまり冷えないようにと、ゆるくまとめるだけにしてマントの下に入れていたことを思い出した。
「でも、邪魔にならないかな」
「顔の周りの髪を編んでおけばいいよ。森妖精で髪の長い者たちは、皆そうしてる。
目にかからなけりゃ、意外に大丈夫なんだ」
そんなことを言うわりに、ヴァロの髪は短い。
顎のあたりで切り揃え、紐で押さえているだけだ。
「ヴァロさんは長くしないの?」
「私はいいんだ。うまく編み込めないから」
ふうんと首を傾げて、それから、ふとアイニに言われたことを思い出す。
“ヴァロさんはどうなの?”と。
何でもかんでも結婚に結びつけたがるのは、アイニに限った話ではなかった。
“谷”でだって、若い適齢期の娘が集まれば、そんな話はしていたのだ。夫にするなら誰がいいか、どんな夫が欲しいか……たとえ父や長兄が決めることでも、そうやって好き勝手に夢を語るのは皆がすることだった。
それに、こうして男とふたりきりでくっついて夜を過ごすなんて、たとえフロスティやグラートが一緒だとしても、“谷”ではありえないことだった。
「ねえ、ヴァロさん」
「ん?」
「アイニに聞いたんだけど、ヴァロさんはニクラス様と同じ歳って本当?」
いきなりの質問に、ヴァロは目を瞬かせる。
「そうだね……正確には私のほうがふたつほど上かな」
「そうなの? でも、ヴァロさんは領主様と同じくらいにしか見えないのに」
「私は半分妖精だからね。長生きな分、人間より歳を取るのが遅いんだ」
「ヴァロさんは長生きなの? どれくらい?」
「そうだなあ……だいたい人間の倍くらいだって聞いてるよ」
「倍!? じゃあ、千年くらい!?」
「えっ?」
千年? と、ヴァロがぎょっとした顔で腕の中のエリサを見下ろす。エリサも驚いた顔でヴァロを見上げていた。
「だって……“谷”でいちばんの長生きのおばあは、もう五百年くらい生きてるんじゃないかって言われてて……お母さんが子供の頃からずっと、おばあは変わってない、あのままのおばあだって……だから、おばあの倍なら、千年でしょう?」
「いやいや……いくらなんでも千年なんて、竜でもなきゃ無理だよ」
「でも」
「そのおばあも人間だろう? それならどんなにがんばってもいいとこ百年だ。極たまに、百年を少しだけ超えることもあるとはいうけどね。
だから、半妖精ならその倍で二百年ってところかな」
「ええ……?」
なあんだと、エリサは少しがっかりする。
妖精なんて種族なら千年くらい生きても不思議はないし、おばあだって五百年くらい生きていても不思議じゃないと思っていたのだ。
「ちょっとがっかり」
ヴァロがくっくっと笑って、身体が揺れる。
笑いはなかなかおさまらないらしく、エリサを抱えたまま、いつまでもヴァロの身体が揺れていた。
「――町に帰った時に、イェルハルド様とパルヴィ様に君のことを聞いたんだ」
「私のこと?」
「そう、君のことだ」
ようやく笑いがおさまって、ヴァロは大きく深呼吸をした。
「“女王”を崇める氷原の民の女性は、普通、郷から外に出ようなんて考えないし、武器を持ったりもしない。それは“女王”と神子が禁じているからだ」
いったい何の話をと、エリサの心臓がどきんと跳ね上がる。もしかして、“谷”の娘のくせに神子や“女王”の教えを破るのかと、責められるのだろうか。
エリサはもう町に引き渡されたのに。
「でも、君は戦士になりたいと武器を持ったし、野伏になることを了承して氷原にも出た。いくら町では許されるといっても、どうして信仰する女神の教えに反してまでそうしようと考えたのか、不思議だったんだ」
身体をこわばらせたエリサを落ち着かせるように……どこか小さな子供を宥めるような調子で、ヴァロの手のひらがポンポンとエリサの頭を叩く。
「――私、町に連れて来られて、領主様の妻になるんだとばっかり思ってたの」
「うん」
「町の長の妻だし、パルヴィが第一夫人でヘルッタが第二夫人なのはたぶん決まりだろうし、でも、ふたりが上の夫人なら第四か第五夫人でもひどい扱いはされないんじゃないかって、だから別にいいかなと思ってた。
でも、領主様に、妻はひとりしかいらないし、パルヴィ以外とは結婚しないって言われて、じゃあどうすればいいんだろうって途方にくれたの」
「……なるほどねえ」
たしかに、イェルハルドなら、もし押し切られて五人全員を妻に迎えていたとしても、なるべく全員を正当に誠実に遇しようと努めたかもしれない。
実際は、そんな事態に陥ることもなく、町の者たちも領主が良識的な人物だったと安心したのだが。
それに、パルヴィが、エリサの母はエリサしか子供を産めなかったのだと言っていた。“谷”――氷原の民の間で、息子を産まなかった妻は肩身がせまいと聞く。妻たちの順列の下位に置かれるし、夫もあまり顧みなくなるのだと。
エリサは、そんな父と母の姿を見て、夫に期待なんてできないのだと考えるようになったのか。
娘は母に似ると言われる。
結婚したところで、エリサ自身も母と同様に息子は産めないのではないか、息子が産めなければエリサも母のようになるんじゃないか……パルヴィの話から、エリサはそんなことまで考えてる節があるとも伺えた。
「それで、自活したいって考えたのか」
「だって、領主様が好きなことをしていいって言ったもの。それに、私はもう“谷”に戻ることはないんだから、神子の教えじゃなくて町の教えに従わなきゃ」
エリサはどこか思い詰めたように、赤く燃える練炭をじっと見つめる。
また、ヴァロの手がポンとエリサの頭を叩いた。
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ」
「気負う……?」
「誰もエリサに何かを強要することはない。もちろん、町の法や道徳を守らないのは困るよ。でも、エリサのことはエリサ自身が判断して決めていいんだ」
ヴァロの声は低く、エリサの耳に優しく響く。
「エリサは野伏になると決めて私の弟子になった。私はエリサが一人前になれるよう、しっかりと教えよう」
「――うん」
上着の下でもぞもぞと身動ぎをするグラートをそっと抱え直して、エリサは小さく息を吐いた。
「ヴァロさん、降ってきた!」
冷たく湿った風の匂いで、天候が崩れることはわかってた。
この時期はまだ雨のはずで……けれど雨宿りできる場所までもう少しというところで降り出したのは、霙だった。べしょべしょに解けかかった雪混じりの雨は、すぐに大降りに変わる。
霙はただの雨や雪よりずっとマントに貼り付きやすい。これでは、いかに目が詰まっていてしっかりと油を引いた布でも、あっというまに水が染み込んでしまう。
おまけに、これから日が傾けばどんどん気温が下がって、この霙は雪に変わる筈だ。すぐに乾かさないと命取りになってしまう。
岩が重なりあった場所に駆け込むまでの、たった四半刻程度の間に、エリサもヴァロもマントの下までぐっしょりと濡れて、歯の根が合わないほどに震えていた。
「エリサ、着替えは無事か?」
「だ、大丈夫なのも、いくつか……」
「なら、毛布を被ってすぐに着替えるんだ。グラートを上着の中にいれて、いっしょに温まるといい」
「ヴァ、ヴァロさんは」
「私は先に天幕を張るよ。風が出てきたらまずい。エリサは着替えが終わったら火を起こしてくれ。火起こし棒を使っていいから」
「は、はい」
できるだけ乾いた場所を選んで、ヴァロは天幕の準備をする。
エリサは凍えてままならない手で荷物を広げて、少し湿ってしまった毛布と着替えを取り出した。寒いのか、布に包まれたグラートはまん丸に羽毛を膨らませ、ヒヨヒヨと鳴いている。
毛布を被って、どうにか着替えて、上着の合わせの下にグラートを入れるとようやく少しだけ温まった。鳴いて餌をねだるグラートに、凍りかけた肉を手で解かしてから与えると、もっと欲しいとまた鳴いた。
「少し待ってね」
天幕を張ろうと悪戦苦闘するヴァロをちらりと見て、それからエリサは燃料袋から出した練炭をいくつか積み上げて、火起こし棒を擦り付ける。
魔術ではなく錬金術で作ったという火起こし棒は、不思議な薬を塗った指くらいの大きさの木の棒だ。エリサには何故そうなるのかわからないが、とにかくこうして練炭に擦り付けさえすれば火を起こすことができる、とても便利な道具だった。
いつもなら火打ち石で難なく点火できても、今日のような悪天候の中では果たしてうまく点けられるかどうか。こういう便利なものがあって良かったと、火が移って赤く染まり始めた練炭にほっとした。
「ヴァロさん、火が点いたよ」
「ああ、よかった」
ようやく天幕を張り終えたヴァロが、濡れそぼったマントを脱いだ。その下の衣服も、きっと下着までぐっしょりと濡れてしまっているだろう。
「ヴァロさんも早く着替えて。毛布は出してあるよ」
「ありがとう。じゃ、少し失礼するよ」
濡れて色が変わってしまった革のブーツとグローブを火のそばに置いて、ヴァロはごそごそと荷物を漁る。その隙にフロスティは火のそばの良い場所を陣取って、自分の毛皮の手入れを始めた。
「荷物も完全に無事ってわけにはいかなかったな」
「でも、湿ってるくらいで、そこまで濡れてないから」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、毛布の中でヴァロが着替えている。
エリサは小さな手鍋を出して火にかけた。中の水が湯に変わり、ふつふつと小さな泡が立ち始めたところに幾ばくかの薬草を入れてしばらく煮出す。最後に、少しばかりの干し果実と蒸留酒を注いで煮立てれば完成だ。
「ヴァロさんも、薬草茶飲むでしょう?」
「ああ、いただくよ」
寒くて寒くて仕方ない夜、暖かく寝るためにと、父の酒を拝借して母が作ってくれた薬草茶だ。“谷”を出る前にレシピを聞いておいて良かったと考えながら、エリサはヴァロにカップを渡す。
「ありがとう、エリサ。
しかし参ったな。予想ではもう少し後に降り出すはずだったのに、こんなに早く雨雲が移動してくるなんて失敗した。
しかも、明日には雪になりそうだ」
「今年は早く冬が来るのかな」
「どうだろう。そんな兆候はなかったと思うんだけど」
ふうふうと吹いて、ヴァロはカップで手を温めながら口を付ける。それから、ほっと息を吐いて「ひとりじゃなくて、よかったなあ」と呟いた。
「ひとりなら、火起こしまでの全部を自分でやらなきゃならなかったけど、エリサがいてくれたおかげで天幕を張るだけで済んだよ。
おまけに、こんなに温まるお茶まで出てきた」
「でも、ヴァロさんならひとりでもすぐに全部できたんじゃ?」
「いや、こんなに早く全部は無理だね」
不思議そうに自分を見るエリサに、ヴァロは小さく笑う。
「エリサ、こっちにおいで」
ヴァロが急にエリサを手招いた。まだ小さく震えていることに気づいたのだ。いっしょにフロスティも寄ってくる。
「グラートは?」
「上着の中で寝てる」
「そうか」
ヴァロはエリサの手を引いて、毛布の中に招き入れた。フロスティはヴァロの背を温めるように後ろで丸くなる。片手にカップを持ったまま、もう片手でしっかりエリサを抱えて、ヴァロは毛布の合わせを閉じた。
「さすがにやっつけの野営では寒いな」
天幕を叩く水音は、だんだんと静かになってきた。
もちろん、霙がやんだわけではなくて、雪に変わりつつあるからだ。
エリサを毛布ごと抱え込むようにして、ヴァロは練炭をもうひとつくべた。
「一度、小屋に寄ったほうが良さそうだ。
この様子じゃ、明日には完全に雪だろうな。朝になったら一番近い小屋へ行こう」
この季節の夜の訪れは早い。
ましてや、この悪天候ではもう夜のように空は暗い。
エリサは天幕を見上げた。
隙間からひゅうっと風が吹き込んで、思わず首を竦める。
首を撫でる冷気に、ぶるりと身体が震えた。
「髪は完全に上げないで、下ろしたほうがいいだろうな」
「え?」
「下ろして上着の中に入れたほうが暖かいんだ。首とか、背中がね」
しっかりと編み込んだ髪を巻いたエリサの頭に、ヴァロが顎を乗せる。
そういえば、とエリサは羊番をする時は首と背があまり冷えないようにと、ゆるくまとめるだけにしてマントの下に入れていたことを思い出した。
「でも、邪魔にならないかな」
「顔の周りの髪を編んでおけばいいよ。森妖精で髪の長い者たちは、皆そうしてる。
目にかからなけりゃ、意外に大丈夫なんだ」
そんなことを言うわりに、ヴァロの髪は短い。
顎のあたりで切り揃え、紐で押さえているだけだ。
「ヴァロさんは長くしないの?」
「私はいいんだ。うまく編み込めないから」
ふうんと首を傾げて、それから、ふとアイニに言われたことを思い出す。
“ヴァロさんはどうなの?”と。
何でもかんでも結婚に結びつけたがるのは、アイニに限った話ではなかった。
“谷”でだって、若い適齢期の娘が集まれば、そんな話はしていたのだ。夫にするなら誰がいいか、どんな夫が欲しいか……たとえ父や長兄が決めることでも、そうやって好き勝手に夢を語るのは皆がすることだった。
それに、こうして男とふたりきりでくっついて夜を過ごすなんて、たとえフロスティやグラートが一緒だとしても、“谷”ではありえないことだった。
「ねえ、ヴァロさん」
「ん?」
「アイニに聞いたんだけど、ヴァロさんはニクラス様と同じ歳って本当?」
いきなりの質問に、ヴァロは目を瞬かせる。
「そうだね……正確には私のほうがふたつほど上かな」
「そうなの? でも、ヴァロさんは領主様と同じくらいにしか見えないのに」
「私は半分妖精だからね。長生きな分、人間より歳を取るのが遅いんだ」
「ヴァロさんは長生きなの? どれくらい?」
「そうだなあ……だいたい人間の倍くらいだって聞いてるよ」
「倍!? じゃあ、千年くらい!?」
「えっ?」
千年? と、ヴァロがぎょっとした顔で腕の中のエリサを見下ろす。エリサも驚いた顔でヴァロを見上げていた。
「だって……“谷”でいちばんの長生きのおばあは、もう五百年くらい生きてるんじゃないかって言われてて……お母さんが子供の頃からずっと、おばあは変わってない、あのままのおばあだって……だから、おばあの倍なら、千年でしょう?」
「いやいや……いくらなんでも千年なんて、竜でもなきゃ無理だよ」
「でも」
「そのおばあも人間だろう? それならどんなにがんばってもいいとこ百年だ。極たまに、百年を少しだけ超えることもあるとはいうけどね。
だから、半妖精ならその倍で二百年ってところかな」
「ええ……?」
なあんだと、エリサは少しがっかりする。
妖精なんて種族なら千年くらい生きても不思議はないし、おばあだって五百年くらい生きていても不思議じゃないと思っていたのだ。
「ちょっとがっかり」
ヴァロがくっくっと笑って、身体が揺れる。
笑いはなかなかおさまらないらしく、エリサを抱えたまま、いつまでもヴァロの身体が揺れていた。
「――町に帰った時に、イェルハルド様とパルヴィ様に君のことを聞いたんだ」
「私のこと?」
「そう、君のことだ」
ようやく笑いがおさまって、ヴァロは大きく深呼吸をした。
「“女王”を崇める氷原の民の女性は、普通、郷から外に出ようなんて考えないし、武器を持ったりもしない。それは“女王”と神子が禁じているからだ」
いったい何の話をと、エリサの心臓がどきんと跳ね上がる。もしかして、“谷”の娘のくせに神子や“女王”の教えを破るのかと、責められるのだろうか。
エリサはもう町に引き渡されたのに。
「でも、君は戦士になりたいと武器を持ったし、野伏になることを了承して氷原にも出た。いくら町では許されるといっても、どうして信仰する女神の教えに反してまでそうしようと考えたのか、不思議だったんだ」
身体をこわばらせたエリサを落ち着かせるように……どこか小さな子供を宥めるような調子で、ヴァロの手のひらがポンポンとエリサの頭を叩く。
「――私、町に連れて来られて、領主様の妻になるんだとばっかり思ってたの」
「うん」
「町の長の妻だし、パルヴィが第一夫人でヘルッタが第二夫人なのはたぶん決まりだろうし、でも、ふたりが上の夫人なら第四か第五夫人でもひどい扱いはされないんじゃないかって、だから別にいいかなと思ってた。
でも、領主様に、妻はひとりしかいらないし、パルヴィ以外とは結婚しないって言われて、じゃあどうすればいいんだろうって途方にくれたの」
「……なるほどねえ」
たしかに、イェルハルドなら、もし押し切られて五人全員を妻に迎えていたとしても、なるべく全員を正当に誠実に遇しようと努めたかもしれない。
実際は、そんな事態に陥ることもなく、町の者たちも領主が良識的な人物だったと安心したのだが。
それに、パルヴィが、エリサの母はエリサしか子供を産めなかったのだと言っていた。“谷”――氷原の民の間で、息子を産まなかった妻は肩身がせまいと聞く。妻たちの順列の下位に置かれるし、夫もあまり顧みなくなるのだと。
エリサは、そんな父と母の姿を見て、夫に期待なんてできないのだと考えるようになったのか。
娘は母に似ると言われる。
結婚したところで、エリサ自身も母と同様に息子は産めないのではないか、息子が産めなければエリサも母のようになるんじゃないか……パルヴィの話から、エリサはそんなことまで考えてる節があるとも伺えた。
「それで、自活したいって考えたのか」
「だって、領主様が好きなことをしていいって言ったもの。それに、私はもう“谷”に戻ることはないんだから、神子の教えじゃなくて町の教えに従わなきゃ」
エリサはどこか思い詰めたように、赤く燃える練炭をじっと見つめる。
また、ヴァロの手がポンとエリサの頭を叩いた。
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ」
「気負う……?」
「誰もエリサに何かを強要することはない。もちろん、町の法や道徳を守らないのは困るよ。でも、エリサのことはエリサ自身が判断して決めていいんだ」
ヴァロの声は低く、エリサの耳に優しく響く。
「エリサは野伏になると決めて私の弟子になった。私はエリサが一人前になれるよう、しっかりと教えよう」
「――うん」
上着の下でもぞもぞと身動ぎをするグラートをそっと抱え直して、エリサは小さく息を吐いた。
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