バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる

衣草 薫

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28.避けるのをやめた

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 午前のフロアは、いつも通りのざわめきに包まれていた。
 キーボードの音、電話の呼び出し音、誰かの低い声。

 恒一は自席で資料に目を通しながら、無意識に一つの席を視界に入れていた。
 直の背中だ。

 以前なら、必要があればすぐに声をかけていた。
 だがここしばらくは、メールで送るか、田中や別の社員を通すようにしていた。
 自分で距離を作った。その自覚はある。

 ――それでも。

 画面の数字を追いながら、恒一は小さく息を吐いた。
 このままでは駄目だと、今さらながら思う。

 資料の一部に、確認しておくべき箇所を見つけた。
 それも明日の会議で使うから、急ぎだ。だからメールではなく直接聞くのが業務上、自然だろう。

 椅子を引く音が、やけに大きく響いた気がした。
 立ち上がった瞬間、何人かがこちらをちらりと見る。
 だが恒一は気に留めず、直の席へ向かった。

「……葉山」

 名前を呼んだ自分の声が、少し低く聞こえた。

 直が驚いたように顔を上げる。
 一瞬、目が合う。その間が妙に長く感じられた。

「はい」

 直はすぐに立ち上がり、椅子を引いた。
 その動作が以前よりも少しだけ硬い。

「この数字なんだが」

 恒一は資料を指差す。
 意識して、淡々とした口調を保った。

 直は画面を確認し、頷いた。

「こちらですが、想定よりも反応が鈍かったため、次回は施策を一部変更する予定です。補足資料も、まとめておきます」

 説明は簡潔で、無駄がない。
 以前と変わらない、直らしい仕事ぶりだ。

 ――それなのに。

 胸の奥が、わずかに痛んだ。
 直は恒一の顔を見ることもなく、すぐさま資料作成に取り掛かろうとしていた。

 距離を取られているのは、もう自分の方なのだと、思い知らされる。

「……頼んだぞ」

 恒一は直の横顔に短く声をかけた。
 それ以上、何か言おうとして、言葉が見つからない。

「はい」

 直は小さく返事をして、キーボードを叩き始めた。

 自席へ戻ろうと歩き始めた足を止め、恒一は直の方を振り返った。

「葉山」

 直が顔を上げた。
 今度は、ほんのわずかに戸惑った表情を浮かべていた。

「午後、少し時間をくれ」

 業務上の確認だ。
 そう言い聞かせるように、恒一は続ける。

「話したいことがある」

 直は一瞬、言葉を失ったようだったが、すぐに頷いた。

「……わかりました」

 それだけ言って、視線を画面に戻した。

 恒一は自分の席へ引き返しながら、胸の内を持て余していた。
 たったそれだけのやり取りなのに、鼓動が早い。

 避けるのをやめただけだ。
 それだけのはずなのに。

 ――もう、元の距離には戻れない。

 そんな予感だけが、妙に確かなものとして胸に残っていた。
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