女暗殺者の嫁もまた暗殺者

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ストレス値が上がっています

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「帰るわね」
 そう紗美に連絡して四十分後、恵叶は家の前で立ち尽くしていた。
 リビングから明かりが漏れているということは、紗美はすでに帰宅している。
 いつもなら何とも思わない光景なのに、今は中で何をしているのか、無性に気になった。
「おかえり」
 玄関に入ると、紗美が優しい笑顔で出迎えてくれた。
 真っ赤なドレスに身を包み、お気に入りのピアスを付けている。髪を下ろして、化粧もばっちり直していた。
 エロい服装でお出迎えなんて、何年振りだろう。
 恵叶はそれについて深く追求せず、ただ笑顔で応えた。
「ただいま」
「今日はお疲れ様。……見積もりのほうは、大丈夫だった?」
 恵叶はしゅるりとネクタイを解きながら、寝室に向かう。
 夕飯の香ばしい匂いが漂っていた。
「まだ後始末に追われてるわ。紗美は?」
「私も少しトラブってる」
「……そう」
 鞄を寝室に置くと、恵叶は紗美を振り返った。
 部屋の前で、紗美がワイン片手にこちらを見ている。
 ビー、ビーと室内AIの警報音が鳴り響いた。
『ストレス値が上がっています。カウンセリングの予約を入れてください。ストレス値が上がっています……』
 どちらも言葉を発しなかった。うるさい警報音のなか、ただ黙って見つめ合っていた。
『ストレス値が上がっています。ストレス値が上がっています……』
 紗美はベッドのほうを顎でしゃくった。
「疲れているみたいね。ちょっと寝る?」
「……ううん」
「シャワーにする? ご飯?」
 恵叶は金髪をかき上げながら、にこりと笑った。
「じゃあ、ご飯」


 テーブルには、美味しそうな料理がずらりと並んでいた。
 焼けたお肉に、ソースのかかったアスパラガス。オニオンスープにライス。
「恵叶、何飲む?」
 紗美が冷蔵庫を開けて、中を覗き込む。
 その隙に、恵叶は家事ロボを操作して、料理履歴を調べた。最新の履歴は、昨夜になっていた。
「恵叶?」
 紗美がぱたっと冷蔵庫を閉める。恵叶は未開封のミネラルウォーターを開けると、軽く振ってみせた。
「これでいいわ」
「そう。……ねえ、恵叶?」
 紗美はグラスを置くと、そっとテーブルに腰掛けた。ちょいちょいと人差し指を曲げて、誘惑するように恵叶を呼ぶ。
「さっきから、私の唇ばかり見てるわね」
「……」
 恵叶は紗美の太ももを割って、間に体を滑り込ませた。至近距離で見つめ合いながら、紗美の顎に指を滑らせる。
『カウンセリングの予約を入れてください。ストレス値が上がっています。カウン……』
「……キスしたくて」
「そんなこと言われるの、久しぶりね」
 紗美の後れ毛を耳にかけてやる。さらりと黒髪が揺れて、首元に紫色のあざが見えた。
 紗美は恵叶の首に腕を回して、耳元に唇を寄せると、妖艶にこう囁いた。
「それともまだ聞こえにくいの、恵叶?」
 バシャッ!
「わぷっ」
 紗美が手を振り上げた瞬間、恵叶は持っていた水をその顔にぶちまけた。
 視界を遮られ、ナイフで掻き切ろうとしていた紗美の手が止まる。
 はずみで、テーブルの上の料理が落ちた。
 ビイイイイイ!!! と今までにない音量の比で、警報音が鳴り出した。
『微細な暴力行為を検知しました。近くの警備ロボを向かわせます。指示に従い、ただちに強制カウンセリングを……』
 微細て。
 恵叶が逃げ出すと、紗美のイライラした声が追いかけてきた。
「ご飯を粗末にするなんて最低!」
「どうせ毒入りでしょ!」
 恵叶は廊下の角に身を潜めてパスポートを起動すると、『付き添いジャンプ』の画面に進んだ。
 紗美がやってくるのを見計らい、彼女の腕をつかむ。
 その手には思った通り、スマホがあった。
 やっぱり。ここじゃ何もできないものね。
 二人ともがパスポートを持っていれば、一人分の操作で、同じ地点にジャンプできる。
 手続きの簡略化を利用して、恵叶は紗美とともに異世界にジャンプした。



 バチィ! という耳慣れたジャンプ音がして、二人は犯罪都市に出た。
 夜空にぽっかりと月が浮かび、その周りをサーチライトがくるくる回っている。中心街からの演出だろう。
 大人な魅力漂う真っ暗な世界に、真っ赤なドレスの紗美はよく映えた。
 場所は、中心街を少し外れた草むら。
 都会の刺激を求めてくる人間は、用もなくわざわざここに来たりしない。
 夜ということもあり、人影は皆無だった。
 二人の間を、涼しい風が吹き抜けていく。恵叶は紗美から目を離さないようにしながら、静かに口を開いた。
「紗美、一つ言わせて」
「……水かけてごめん?」
「じゃなくて。靴持ってきたの、ずるくない?」
 紗美はしっかり靴を履いていた。恵叶はそんなもの、すっかり忘れていたと言うのに。もうすでに草がチクチクする。
「心配しなくても、すぐに歩けなくなるわ」 
 二人は同時に、同じ方向に走り出した。この近くに射撃場があるのを知っていたのだ。
 射撃場は昼間しかオープンしていないので、人目を避けて仕事を片付けるには、絶好の場所だ。
 射撃場の施錠など、現世に比べればあって無いようなもの。
 二人とも腕に力を込めて体を引き上げ、二メートル超の鉄の門扉を飛び越える。
 走っているうちに、いつの間にか紗美の姿は見えなくなっていた。
 拳銃は横長のガンロッカーに保管されていた。鍵穴を見ると、ディンプルキーになっていて、恵叶の腕ではピッキングできない。
 武器がほしくて最初に浮かんだのがこの場所だったが、トリガーにはチェーンロックがかかっているだろうし、早計だったかもしれない。
 ……無理やり、壊せるかな。
 無茶な思考に陥っていると、銃声が響いて足下の床が細かく割れた。
「ピッキングは苦手?」
 問われた恵叶は両手を挙げて、ゆっくりと振り返る。
 ベレッタの銃口を向けた紗美が、冷たく恵叶を見据えていた。
 結局、紗美を有利にしただけだったらしい。さらに二丁、腰にさす余裕まで見せている。
 しかし、次の攻撃はいつまで待っても来なかった。
「どうしたの、紗美。撃たないの?」
「……黙って」
 紗美は構えたまま、固まっていた。
 銃口が少し揺れているのを見て、恵叶は馬鹿にしたように笑う。
「撃ち方知らないの?」
「黙ってよ」
 紗美が拳銃を向け続ける。恵叶は決して視線を外さず、指の動きと銃口だけを見ていた。
「そろそろ私、手を挙げてるの辛いんだけど」
「黙ってったら!」
 弾けるような音がして、銃弾が撃ち出された。二発、三発。
 恵叶はそれを全てギリギリで躱してみせた。
 もともと急所から外れた狙い方だったが、わざわざ当たってやるつもりもない。
 走り出して屈み込み、一気に距離を詰める。紗美がはっとして、慌てて狙い直そうとするも、
「銃弾避けるのが、そんなに珍しい?」
 その前に、恵叶は下方から蹴りを繰り出した。紗美の手から拳銃を叩き落とす。
「くっ……」
 紗美は慌てて後退して、どこかへと行ってしまう。恵叶は拳銃を拾い上げると、中身を調べた。
 M9。残り四発。
 初めて持ったわけでもないのに、今日だけは銃の重みが手にずっしりときた。的が設置された、外のフィールドへと、紗美の後を追いかけていく。
「……紗美」 
 

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