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第3章 奈落の底を見て回る

25 幹事の存在

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「転移」もちの男は、屋敷の二階から陽香を凝視している。声こそこちらまで届かなかったが、その唇は「なんで」と動いたように見えた。
 いきなり大声を上げて不躾な視線を投げかけてくる男に、陽香は初め不思議そうに首を傾げていた。しかし男の顔を確認すると、グッと眉根を寄せる。

「ああ――見覚えのある顔だ。あれは確かに、で間違いねえ」
「え、嘘。あんな知り合い、居た……?」

 綾那は改めて男の顔を見たが、やはりピンとこない。とは言え、ただでさえ家族から異性との接触を禁じられていたのだから、知らなくて当然のような気もしてくる。

(もしかして、私が一方的に記憶していないだけ? それって凄く失礼なのでは――)

 うーんと悩む綾那を横目に、陽香はため息交じりの説明を始めた。

「あいつ一、二年前――アリスにしつこく付き纏った上に手まで出そうとして、警察に接近禁止令出してもらったヤツだ。結構過激派だったから、スゲー覚えてる……アーニャは外の現場が少なかったから、知らなくて当然だな」

 その説明に、綾那はギョッとする。

「じゃあ、あの人「表」でも犯罪者だったって事?」
「まあ、まだ厳重注意止まりだったけどな。禁止令を無視して会いに来てくれりゃあ、一発アウトだったんだけど……ストーカー規制法って、結構シビアなんだと」

 綾那は改めて、「転移」の男を見やった。
 ただでさえスタチューバーは、付きまとい行為の被害に遭いやすい職種である。その上アリスは「偶像アイドル」もち――動画越しに見ている分には影響がないのだが、直接会ってしまえば最後、異性は皆彼女の虜になってしまう。
 その度合いと言ったらもう、割と頻繁に刃傷にんじょう沙汰の事件が起きるほどだ。

 この「偶像」に惹かれるのは異性のみで、同性は彼女の事を嫌悪してしまう。ギフトのせいで同性の友人が皆無のアリスは、「直接会うと、女の子のファンに嫌われちゃうから」と、握手会やイベントには出来るだけ参加しないようにしていた。
 しかし、動画撮影に関わる外出だけは別だ。

 屋外で撮るアウトドアやアスレチック系などの動画は、もっぱら陽香とアリスの領分だった。恐らくあの「転移」の男は、撮影のために外出するアリスを偶然しまったのだろう。そうして彼女に首ったけになった結果が、度を超えた付きまとい行為という訳だ。
 陽香の言葉から察するに、何もかも未遂に終わったのだろうが――アリスがこうむった精神的苦痛を想うと、綾那の胸の奥がずっしりと重たくなる。

「やっぱり、すり潰すべきだったのかな――」

 ほぼ無意識の内に口をついた綾那の言葉に、陽香が目を丸めた。

「スゲエ。マジで怒るようになったんだな、アーニャ……ぶっちゃけ怖ぇけど、でも前より人としてよっぽど健全な気はする。ただし、間違ってもあたしの事はすり潰さないように」

 やけに真剣な瞳で主張する陽香に、綾那は苦笑した。
 そうして話し込んでいると、立ち入り禁止のロープを張られた先の庭に、光る陣――転移陣が展開された。恐らく、二階の男が転移するつもりなのだろう。
 陣の光が収まると共にその場に立っていたのは、やはり軽薄そうな男であった。

「へえ、魔法とは違う力だね。これでキラービーの巣を櫓の周りに置いたんだ」

 感心した様子で呟く右京に、「転移」の男が眉を吊り上げた。

「いきなり蜂の巣を移動しろって言われて、何事かと思ったら――やっぱりお前らのせいだったのかよ! こちとら、急に使える力が少なくなっちまって、あれだけの巣を移動させるのマジで大変だったのに……聞けばあっという間に燃やし尽くされたって言うじゃねえか!? 俺らに無駄な労力使わせやがって、一体どういうつもりだよ!!」

 突然やって来ていきなり喚き散らし始める男に、右京はこてんと小首を傾げて、その愛らしい瞳をじとりと細めた。そうして小さな唇から紡がれた言葉は、「彼、バカなんじゃないの?」である。
 見た目十歳児から面と向かって罵倒されて、男はカッと顔を赤く染めたが――右京の言う通り、確かにバカであるとしか言いようがない。

「転移」が弱まったのは、力を悪用して暴走する彼らを見かねたルシフェリアが罰として吸収したからであり、自業自得だ。
 彼はきっと、悪魔ヴェゼルが考えたゲームのためにキラービーの巣を転移させられたのだろう。そのプレイヤーとして綾那と陽香が選ばれた訳だが、こちらからすればそんな事を頼んだ覚えはないし、知った事ではない。

 それに右京がキラービーを駆除しなければ、間違いなく街と住人にまで被害が出ていたのだ。何事もなく済んだ事を感謝されこそすれ、非難されるいわれはないのである。
 怒りなのかそれとも羞恥なのか、ぷるぷると震えている男に向かって陽香が口を開いた。

「なあ、どういうつもりだ――は、こっちのセリフなんだけど。お前も懲りねえよな、「表」が無理ならこっちでバカやらかそうってか?」

 男は一瞬言葉に詰まったが、しかしすぐに開き直ってふてぶてしい態度を見せる。

「スゲーな、問題起こしたファンの事いちいち覚えてんのかよ? 俺以外にも同じような事するヤツなんて、いくらでも居るだろうが! 俺がたまたま運が悪かっただけだ、もっとヤベエ事してるヤツだって居るのに、なんで俺だけ接近禁止令を出されなきゃなんねえんだよ!!」
「はあ、出たよ。どうしてこう馬鹿なヤツって、揃いも揃って「他にも同じ事してるヤツが居る」なんて言い出すかなあ――他に居たとして、それがお前の免罪符になるとでも思ってんのかよ」
「――っせぇ……うるっせえな!! アリスは……あいつは、俺の女なんだよ! アリスはいつも俺に向かって笑いかけてんだ! 俺のためだけに動画投稿してんだよ!! ヤろうとして何が悪いんだ、アリスだって喜んでるに決まってんだろうが!? それを、お前が――お前らが邪魔した!」

 好き放題叫んだかと思えば、男は肩を大きく上下させてハアハアと荒い息遣いを繰り返している。陽香は綾那を見やると、静かな声色で「――な? ヤバヤバのヤバだろ?」と肩を竦めた。

(確かにこのタイプは、ちょっと久しぶりに見たかも……確実に、握手会は出禁になるタイプだね――)

 男の言い分に引いたせいか、綾那の浮かべた笑みは相当引きつっている。
 男性ファンが多く、陽香から『お色気担当大臣』なるものに任命されている綾那もまた、イベントでこういった過激な手合いの相手を強いられる事があった。
 とは言え、ここ最近はかなり法整備が進んでいて、会場スタッフの防犯意識も高まっているのだ。ここまで過激なファン――いや、最早『ファン』とは呼べないような相手と直接対峙するのは、本当に久しい。

「冗談抜きで、いい加減アリスを探し出さねえとやべえな。どうせ他の「転移」もちもなんだろ? あたしらより先にこんなヤツらに捕まったらと思うと、さすがに笑えん状況だぞ」

 声を抑えて呟いた陽香に、綾那も小さく頷き返した。彼女の言う通り、敵がここまで頭のおかしい男の集団ならば、最早一刻の猶予もない。焦ったところで事態は好転しないが、この男の異常さを目の当たりにすると、嫌でも焦りを覚えてしまう。

「しかし「表」で会った時も十分ヤバいタイプだったけど、ここまでじゃなかったぞ。やっぱり悪魔の傍に居ると、頭のおかしさに磨きがかかるみてえだな」
「そっか。じゃあ、まあ……予想通り、領主と僕の対話も一筋縄にはいかないって事だね。それで、あの彼はどうするの? 随分と興奮しているみたいだけど」
「どうって言われても、アレだけキマってたら話し合いなんて無理だろ? 「転移」もち相手じゃあ、逮捕したって無意味だしな……この国にギフトを抑制する拘束具がある訳ねえし」

 ルシフェリアも言っていた事だが、基本的に「転移」のギフトもちを捕らえたところで、意味がないのだ。
 しかし、ギフトがあって当然の世界――「表」には、ちゃんとした対策が講じられている。身に着けると一切のギフトが発動しなくなる特殊な拘束具が存在して、「転移」もちに限らず、「表」の犯罪者は全員この道具でギフトを封じられるのである。

 例えばの話、「怪力ストレングス」もちの綾那が犯罪に手を染めて檻に捕らえられたとしても、今朝領主の屋敷の檻や壁を壊した時のように、いとも簡単に脱走できては元も子もないのだから。

「なあお前、別にあたしらには用がないんだろ? アーニャにぶん殴られたくなかったら、さっさとどっか行った方が良いんじゃねえの?」
「そ、そう簡単に人は殴れないけどね? 相手がなっちゃうか分からないし――」

 苦笑しながらやんわりと否定する綾那だったが、それがかえって「転移」の男を震え上がらせたらしい。男はサッと顔を青くすると、あっという間に足元へ転移陣を敷いた。前回強めに懲らしめた効果もまだ残っているのだろうか。
 ただし、男も黙って逃げるのは癪だったのか――光り輝く陣の中で歪な笑みを浮かべた。

「ふ、ふん! せっかく陽香まで居るんだ。「表」で「転移」もちを大勢集めた幹事の名前、教えてやろうか!?」
「……いや、良いよ。正直察してんだわ」

 陽香は二ヤついた男に向かってシッシッと、まるで野良犬でも追い払うように手を振ったが、しかし彼はめげずに口を開いた。

陽太ひなただよ、聞き覚えあるだろ? あるよなあ! 全く、どれだけ!」

 男は、笑いながらどこかへ転移した。やがて光と共に陣が消えると、陽香は大きなため息を吐き出して「やっぱり、思った通りじゃねえか」と言い、片手で額を押さえる。
 頭痛を堪えるような表情の陽香を、綾那は「大丈夫? 知っている人?だった」と覗き込む。

「弟が――「転移」もちだっつったろ? それだわ」
「えっ」
「やっぱりこの騒動自体、あたしのせいだったじゃんよ」

 陽香の告白に、綾那は絶句した。しばらくの間声を掛けられずにぼんやりしていたが、やがて我に返ると、詳細を聞くために口を開きかけた。しかし、大変間の悪い事に領主の迎えがやって来る。
 陽香は思考を切り替えるように軽く頭を振ると、「とりあえず、面倒事を済ませてからにしようぜ」と言って明るく笑った。綾那は眉尻を下げつつも、肝心の陽香が今は話すつもりはないのだから――と、この件は一旦思考の隅に追いやる事にした。
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