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第5章 奈落の底で絆を深める

40 石橋を叩いて(※視点がぶれます)

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 颯月に連れられて執務室までやって来た綾那は、すっかり専用になった長ソファの上に寝かされた。

 何故真昼間から寝かされているのか訳も分からず、不思議な心境のまま颯月を見上げれば――彼は困ったような顔をして、小さくため息を吐いた。
 そうして綾那と視線を合わせるため床に膝をつくと、薄いブランケットを掛けて頭を撫でてくれる。

「綾、ここで大人しく俺の帰りが待てるか?」
「ええ~……そーげつさん、どこか行っちゃうんれすか?」

 綾那は白い頬を紅潮させて、舌っ足らずな喋り方でアホみたいな質問をした。
 匂いだけでここまでベロベロになるとは、一体どこまで酒に弱い体なのか。いや、恐らくこれも「解毒デトックス」のもつ特性のせいだろう。

 ルシフェリア曰く「解毒」のギフトを失った保持者は、今まで打ち消せていたモノが一切打ち消せなくなるらしい。それはつまり、本来なら簡単に打ち消せたはずのアルコールや毒に対して、常人よりも更に弱くなるという事に違いない。

 颯月は片手で額を押さえると、参った様子で「可愛いのは……可愛いんだがなあ――」と苦笑交じりに呟いた。

「表彰式が終わったら、すぐに戻ってくる。それまでここを動かずに寝ててくれ」
「それは……さみしーので、ヤです……寝ません。だっこしてください」
「オイ、勘弁しろよ天使。このままじゃあ俺の理性がビアデッドタートルされちまう――いや、そうか……今の綾は、何も打ち消せないんだったな。それなら――」

 颯月は何かに思い至ると、綾那の額に手を添えた。

「――「催眠スリプル」」

 颯月が魔法――まず間違いなく、対象者を眠りに誘うものだろう――の名を口にすれば、綾那は途端にウトウトし始める。そうして十秒も経たない内に瞳を閉じると、意識を手放した。

「あとで起こしてやるからな――ここに入れるヤツは限られているから、ひとまず安心だろう」

 この部屋の扉を開けるのは、颯月が許可した者のみだ。彼はしばらく綾那の寝顔を眺めていたが、やがて小さく頭を横に振ると、名残惜しそうにしながら執務室から出て行った。

 そうして綾那だけ残された部屋の中が、眩い光に包まれる。ややあってから光が消えると、ソファの横には、綾那とよく似た少女が呆れたような表情をして立っていた。


 ◆


「はいはーい! って事で、ちょっとしたトラブルはあったけど……表彰式が始まったら盛り上げてくれっか、皆ー!!」
「イエーー!」

 颯月と綾那が席を外した直後の室内訓練場。
 陽香は「まずったなあ、完全に判断ミスだったなあ」と反省しつつも、こうしてはいられないと再び会場を温め直した。
 舞台上の片付けは順調に進んでいるし、こんな時はさっさと撮影を終えてしまうに限る。今後の対策については、色々な事が落ち着いてからゆっくりと練れば良いだろう。

 颯月達が居なくなってから、困惑気味にざわつき始めた若手らの言葉に耳を澄ませれば――「正直顔を隠しているぐらいだから、あんなに美人だとは思わなかった」とか「やけに色っぽい人だったな……」とか、口々に綾那を褒める言葉が聞こえてきた。

 幸い好意的な意見ばかりで、否定的な意見も「元側妃に似てる」なんて不穏な言葉も聞こえてこなかった。恐らく現時点では、そう問題視する必要はないだろう。
 まあそれも、綾那の話がこの場で留まればの話だが。

 古今東西人の口に戸は立てられぬと言うし、好意的な意見しか出てこないからこそ、つい他所で綾那の容姿について言及してしまう者も出てくるだろう。
 ただでさえ街に駐在する騎士の間では、綾那についてまるで寝物語のような美々びびしい噂が出回っている。いつか本当に、国王の耳に届いてしまう時も来るかも知れない。

「ま、まあでも……だけ届いたところで、写真や動画さえ出回らなけりゃあ平気っしょ? 流石に『色白』『ボイン』だけで元側妃様に似てるかも! 呼んで来~い! なんて、ならない……よな? まず笑った顔が似てるっていう、限定的な話だしさ――」

 陽香は竜禅の元へ近寄ると、コソコソと確認するように問いかけた。しかし彼は熟考するように黙り込んで、短く刈り込んだ顎髭を撫でるだけだ。
 返事のない竜禅に不安を煽られたのか、陽香は頭を抱えて「さーて、この国の整形事情はどうなってるんだ……?」と、ぶっ飛んだ事を気にし始めた。

 本気か冗談か分からない事をブツブツと呟いている陽香の元に、舞台上の片づけを手伝っていたらしい若手の一人が近付いてくる。

「前々から不思議に思っていたんですが……綾さんはどうして、顔を隠しているんです?」
「ん……お!? なんだ、弟じゃーん! 久しぶりだな!」

 陽香に声を掛けた若手は、右京の弟――伊織だった。

「いい加減その、『弟』という呼び方はなんとかなりませんか? 私に兄弟は居ませんし、呼ばれる度に妙な感覚で」

 弟という呼称に眉を顰めた伊織に、陽香は「おっと」と口元に手を当てた。
 それからやや逡巡して、「あたしの弟と同じぐらいだからさー、ついな」と、それらしい言い訳を返した。

 右京は伊織に物心がつく前に勘当されているため――血の繋がりがあるにも関わらず――彼は、右京が実兄である事を知らずに育ったのだ。
 他でもない右京自身が「今更話すつもりはない」「色んな意味で恥ずかしいから、実弟と思いたくない」というスタンスを貫いているため、部外者の陽香が「いや、オメー、兄貴そこに居んぞ?」なんて、口を挟んで良いはずがない。

 陽香は、舞台の片付けにリタイア者の世話にと、休む事なく動き続ける美少年の背中を一瞥すると、ごほんと一つ咳ばらいをした。

「あー、まあ、なんつーか……とある尊いお方の面影があるとかないとかで、あんまり顔バレすると面倒な事になるんだとよ」
「尊いお方――そうですか。綾さんの存在そのものが十分尊いのに、それは難儀な事ですね」

 したり顔で頷く伊織に、陽香は「うーん、お前も歪みねえよなぁ」と、感心しているのか呆れているのか判断しづらい表情を浮かべた。

「それはそうと、会場中が綾さんについて邪推しています。箝口令かんこうれいを敷くなら敷くで、それなりに納得できる理由を伝えておいた方が良いんじゃあないですか」
「邪推?」
「何やら、街の駐在騎士……若手の私達からすれば先輩に当たる方々ですね。「団長の婚約者は雪の精だ」とか「顔を隠しているのは、実は異大陸から亡命して来た姫だからだ」とか――面白おかしく脚色した話を流布るふしているそうです。今日集まった若手の中でも、先輩から噂を聞かされた事があるという者は多いですよ。だから皆して「先輩の話は本当だった」なんて盛り上がっているんです。事実、綾さんは雪の精だとしてもなんらおかしくない美貌の持ち主ですから」

 聞いているだけでむず痒くなるような話に、陽香はなんとも言えない顔になった。
 元はと言えば、綾那の噂の火消しをするために陽香が繊維祭に出るという話だったが――果たして、それで火消しは間に合うのだろうか?
 今日この場で若手に顔を晒した事で、輪をかけておかしな噂が蔓延する可能性だってある。

 しかしだからと言って、颯月が「死んだ母上に似てるらしい」とか「綾を陛下に取り上げられたくない」とか、そんな理由をバカ正直に説明できるはずもない。

 そもそも彼からすれば、笑い顔だけとは言え綾那が実母に似ているという件は、どうも不服極まりないもののようだ。事実、陽香からマザコンの嫌疑を掛けられた際には、大層気にしていた。
 国王云々の話だって、むやみに広めれば不敬に当たるだろう。何せ、「国王は、ちょっぴり頭が病気の酷い束縛男なんでーす!」と触れ回るようなものだ。

 確かに、伊織の言う通り箝口令を敷く理由を伝えるべきなのだろうが――なかなか難しい。
 やはり、整形させるしかない。陽香がまたしてもぶっ飛んだ事を考えていると、今まで黙り込んでいた竜禅が口を開いた。

「綾那殿は、しばらく王都を離れた方が良いかも知れないな」
「えっ、マ……? そこまでヤバヤバのヤバなん? もはや、王様のお迎え待ったナシって感じ?」
「陽香殿の考える通り、さすがに写真や物証がない状態で陛下も動かないだろうが――色白だけで呼び出されていたら、ルベライト領出身の人間は王都に住めないからな。ただ、念には念を入れた方が良い。せめて繊維祭で陽香殿が領民を惹き付けるまでは、陛下が物理的に呼び出せない場所へ身を隠した方が良いと思う」
「マジかあ……うーん。それはまあ、面倒事を避けるためには仕方ないんだろうけど――でもアーニャが抜けると、下手したらアイツが居ない間に「偶像アイドル」が復活しちまうんだよなあ……」

 陽香はルシフェリアと直接会話していないため、アリスのギフトの封印が解かれる正確な日取りを把握していない。
 ただ綾那から、颯月が眷属狩りに精を出しているので、もう一、二週間もすれば封印が解かれるのではないか――と聞かされているだけだ。

 国王が物理的に呼び出せない場所が具体的にどの辺りを指すのかは知らないが、繊維祭が終わって綾那の噂が陽香の話題で上書きされる――かされないかは運次第だが――までとなると、それこそ一、二週間は王都を離れなければいけないのではないか。

 陽香からすれば、ルシフェリアが綾那に肩入れしている事など知る由もない。
 綾那の気持ちなんて少しもかえりみず、彼女が王都へ帰って来るのを待つなんて気遣いは一切なく、天使の力とやらを取り戻し次第即刻アリスの封印を解きに現れるのではないか――と睨んでいるのだ。

 自身の関知しない所で颯月を失う綾那の想いを考えると、「それはちょっと、どうなんだ?」と眉を顰めてしまう。

 ――いや、かえって離れている内に事が運べば、変わり果てた颯月の姿を見ずに済むのだから、綾那にとってはその方が良いのかも知れない。
 しかしそれでは、颯月も今までの男と同様「簡単に鞍替えするような浮気野郎である」と分からせて、早々に別れるよう仕向ける――という、最大の目的を逸脱している。

 アリスの「偶像」は、放置していると颯月だけでなく全ての男を魅了してしまう。アリス自身が望んでいる事からして、きっと颯月を釣り次第「偶像」は即座にルシフェリアに吸収される事になるだろう。
 そうでなれば、アイドクレース騎士団は――いや、王都はおしまいだ。

「でもそうなると結局、肝心のアーニャがを目撃できないんだよなあ……それじゃあ全く意味がないんだけど――」

 陽香は、親指の爪を噛みながら低く呟いた。
 彼女の呟きに、伊織が「浮気?」と首を傾げる。陽香は考え耽っていて返事をしなかったが、伊織もまた何事か熟考するように黙り込んだ。

 事が済んで、王都の噂も落ち着いた頃に戻って来た綾那が目にするのは何か。一度はアリスに鞍替えしたとは言え、「偶像」の効果が切れてすっかり正気に戻った颯月である。
 例えばルシフェリアに「もう一回釣るから、「偶像」返してくれ」と言ったって素直に聞き入れるとは思えない。肝心の颯月の汚れた部分を目にしなければ、二人を別れさせて、渚を怒らせずに済ませたい! という願いが叶わないのだ。

 まあ、本人の意思ではどうしようもないとは言え、一度は綾那を裏切ってしまったという後ろめたさがあれば――颯月の方から勝手に離れて行くかもしれないが。

 陽香は、今日中に通訳のヴェゼルを捕まえて、ルシフェリアと話し合うべきだと考えた。
 今後綾那が王都を離れるにしろ、離れないにしろ――やはり、彼女の居ない所でコソコソ事を運ぶのは間違っている。

 一、二週間なんて悠長な事は言っていられない。多少ルシフェリアに無理を強いてでも、とにかく綾那の居る目の前で「偶像」の封印を解いてもらわねば困るのだ。

 それに、もしも――万が一にも、億が一にもあり得ぬ話だが、颯月が「偶像」に耐えるとしたら。その雄姿だけは人から伝え聞くのではなく、絶対に綾那自身の目で見届けるべきなのだから。

 陽香が「まあ、有り得ねーけど」と肩を竦めると、ようやく颯月が戻って来た。

「悪い、待たせたな。さっさと表彰式に移ろう、一刻も早く綾の所へ戻りたい」
「随分と時間がかかりましたね……一体、どちらまで隠しに行かれたのですか?」
「ここ最近、綾が愛用している『ベッド』まで。しかし、天使は酔っ払っても天使なんだな、色々とギリギリだった――綾の色気は凶暴すぎる……」

 颯月は竜禅と話しながら、ふと伊織の存在に気付くと、本当に一瞬だけ勝ち誇ったような顔をした。

「なあ陽香、綾に抱っこをせがまれた時には、遠慮なく抱いても良いのか」
「ッグ……!!」

 陽香が反応するよりも前に、伊織が悔しそうに顔を歪めた。陽香は「おとなげねえヤツだな」と目を眇めて、口を開く。

「ハグだろ? 抱擁だよな? ――だとしてもアウトだな、相手酔っ払ってんだし……てか颯様、詳しい事は後で話すけどさ。もし可能だったら、「偶像」の封印解くの早めても良いか?」

 珍しく顔色を窺うよう表情をした陽香に、颯月は目を瞬かせた。

「――なんで。俺はまだ、心構えができていないんだが」
「は? な、なんだよ。あれだけ「勝つ、勝つ」って言ってたくせに、いきなり弱気な事を――」
「ああ、いや、違う。そっちじゃない――キスの方だ」

 神妙な面持ちで告げる颯月に、陽香は笑顔で青筋を立てると「やっぱ、今日にでも封印解いてもらう事にするわ!!!」と吠えた。
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