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名を失い、名を継ぐ
しおりを挟む重たい両開きの扉が音もなく開いた。
書斎と呼ぶにはあまりにも広く、そして静かすぎる部屋だった。
壁一面の本棚、深紅のカーテンに覆われた窓に高い天井。
すべてがどこか冷たく美しい。
その部屋の奥、ひときわ大きな肘掛け椅子にシャルモント侯爵は座っていた。
フィリーヌが一歩足を踏み入れると、侯爵の視線が動いた。
だがその目は彼女の顔をまっすぐに見ることなく、まず首元——そして、手に持った銀のスプーンに向けられた。
「確かに、家紋は本物のようだな」
低く、硬い声だった。
まるで長年使い込まれた剣が、鞘の中で軋んだような音。
フィリーヌは思わず息を飲んだ。
声を出すのに、少しだけ時間がかかった。
「フィ……フィリーヌ、と申します」
その瞬間、侯爵の眉がぴくりと動いた。
「フィリーヌ、だと? そんな名は我が家には存在しない」
彼は淡々と、切り捨てるように言った。
「今日からおまえは“リリエット・ド・シャルモント”だ。シャルモント家の血を引く者として、それ以外の名を名乗ることは許されん」
フィリーヌの胸の奥がきゅうっと締めつけられた。けれど、声をあげたり否定したりはしなかった。
ただ、そっと目を伏せた。
院長先生がつけてくれた名前。
「フィリーヌ」には、花のようにすこやかに育ってほしいという願いを込めたのよ。
そう言って、やさしく頭をなでてくれた手のぬくもりを思い出す。
誰の子かもわからないわたしに、はじめて与えられた居場所みたいなものだった。
でも、シャルモント家で生きていくにはそれではいけないのだと、理解はできた。
侯爵は椅子に深く身を預けたまま、机の上に組んだ手を動かさずに続けた。
「シャルモントの名を与える以上、それにふさわしくふるまえ。言葉遣い、立ち居振る舞い、衣服、礼儀——すべてを改めることだ。」
淡々と放たれるその言葉が、冷たい霧のようにフィリーヌのまわりを覆っていく。
彼女は胸に抱えた小さな花籠を、そっと抱きしめた。
すると侯爵の目が、その籠に止まった。
「……それは、なんだ」
フィリーヌは、声がふるえないように、答えた。
「これは町の方たちからいただいたお花と、わたしが束ねたものです。」
一瞬、侯爵の目がわずかに動いたように見えた。
「シャルモント家には不要だ。そのようなものを持ち歩くことは、品格を損なう」
胸の奥が、きゅっとつかまれたように痛んだ。けれど、それを顔に出すことはしなかった。
「ラヴレー」
侯爵の呼びかけに応じて、控えていた執事がすっと歩み出る。
「お嬢様、お預かりいたします」
フィリーヌは、花籠をじっと見つめた。
どうしても渡したくなかったけれど、シャルモント家の人としてふるまわなければいけない。そう思って、両手でゆっくりと籠を差し出した。
ラヴレーは黙ってそれを受け取ると、一礼し、足音もなく部屋を後にした。
扉が閉まる直前、フィリーヌはもう一度、花籠を見送った。
まるで、あのやさしい香りまで、この屋敷の中に吸い込まれて消えていくようだった。
「下がれ」
侯爵の声が、低く響いた。
執事ラヴレーが再び現れ、「お部屋へご案内いたします」とだけ告げる。
フィリーヌは一礼し、書斎をあとにしようとした——そのとき。
「……おまえの母は、わたしの一人娘だ」
背中に届いたその言葉に、フィリーヌの足が止まった。
振り返ることはできなかったけれど、静かに耳を傾ける。
「身分違いの男と出会い、家に背いて出ていった。わたしは勘当を言い渡した。二度と名を名乗るな、と。それが最後だった」
声には、感情を押し殺したような重たさがあった。
「娘は町に姿を隠し、病で命を落としたと聞いた。その男も、事故で命を落としたと……。だが、子を産んだとは、知らなかった」
「なぜおまえが孤児院にいたのか、それも分からぬ。……正直なところ、確信はなかった。けれど、見れば分かる。おまえは娘と同じ目をしている」
フィリーヌは、そっと目を閉じた。
名前も、誕生日も、両親の顔も知らなかった。
けれど、お母さんの目をしていると言われた今、少しだけ、胸の奥があたたかくなる。
フィリーヌはそっと、小さくうなずいた。
――わたしは、リリエット・ド・シャルモント。
けれど、フィリーヌの心を忘れずに、ここでちゃんと咲いていこう。
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