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修羅を覗き込む【3】
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「一条くん何かあった?」
「はい?」
思わぬところから思わぬ声がかかって素っ頓狂な声が出た。チーフの河合さんである。
「べつに何もありませんけど」
「嘘ぉ。さっきから三分おきに十秒手が止まって空中眺めてるよ。それだけで君の時給で見れば一日に約1250円の損失だ」
「…お暇なんですか…?」
「失敬な。エンジニアのメンタル管理も僕の仕事だって」
からからと笑う恵比須顔は、憎めないけれど俺はずっと苦手だ。
「何があったんだよ。彼女とうまくいってないの?」
部下のプライベートに深入りするのってナントカハラスメントに当たらないのだろうか。
「…ええと」
何か言わないと解放してくれなさそうなので瞬きの間に脳味噌を絞った。
「うちで面倒見てるガキがいて」
「え何、隠し子?」
「違いますって。親戚の子を訳あって預かってて」
なんかこう微妙にとっつきづらい冗談をいちいち挟んでくるからげんなりするんだよな。
「俺ガキの世話とか慣れてないから」
「はあ。それは大変だねえ」
河合さんは何度も深く頷いた。家にいるのは親戚の子でも、なんなら言うほどガキでもないのに信じ込んでいる様子の気の良いおじさんである。
「うちの娘もむずかしい年ごろでね。僕の眼を見もしない。さみしいもんだね。ははは」
けれども大抵の気の良いおじさんがそうであるように、ここで自分の話しかしなくなるような男ではないのだ。そこが河合さんの馬鹿でないポイントで、扱いづらいポイントでもある。
「自分よりもひとまわり、ふたまわりと歳下のひとは、僕らとあまりに違っていて、まだ何にも染まらない眼で、僕らのことを思いもよらないところから映して見せてくるような気がするよね」
「…はあ、…」
「ひとと対峙するっていうのは、常に自分の中身を暴いてくるものだけれど」
「そうですか?」
「君は、ひとを動かすのに長けているからなあ」
河合さんは柔らかい笑みの中で黒々と光る眼をして、俺をじっと見つめた。
「一度、自分の中をじっくり眺めてごらん。そしてコミュニケーションにおける最強の手札は」
「正直さです」
河合さんがいつも言って聞かせていることだから、後を引き取って答えた。
「百点だ」
彼はにっこり笑った。
正直に言って、俺は正直さの何たるかがわかっていなかった。正直なのと脳直なのは違う。正直なのと素直なのも率直なのも違う。
そもそも自分の中を見るって何だ。頭で考えていることはすべて意識下の脳が処理していることなんだから常にモニターされているはずだ。じゃあ心で感じることを見ろっていうのか。
心は、どこにある?
「馬鹿だね、一条くんは」
毎週金曜日に会う女のうちのひとりが言った。
「あなたはいつもふらふらしてる。いつもいそがしそうにして、その実自分と向き合うのを避けているだけじゃない」
「…そう?」
お前は馬鹿だと、面と向かって言われるのははじめてだった。
「もうこんなことやめちゃいたいくせに。私だってごめんだわ。彼氏にそろそろプロポーズされそうだから」
「そうか」
俺の反応が鈍いからか、彼女はため息をついた。
「いい加減認めなさい。一条くん、好きなひとがいるんでしょ」
そんなはずはなかった。女と会うのをやめたくなるほどの人間が別にいるはずがなかった。
「毎週ご飯連れてってもらえるし、ふたりとも気楽にきもちよくなれるなら願ったり叶ったりじゃんって思ってたけど、一条くんは違ったんだよね。あくまで私のわがままに付き合ってただけ」
赤ワインのグラスを傾けながら、彼女は淡々と言った。
「あなたはいつもそう。ひとがあれしたいこれしたいって言って、あなたが合わせる。そういうポーズなのかって思ってたけど違った。単純に、自分が何がしたいのかわかんないだけ」
秋が終わり、冬もあけたら、三十になる。常にいそがしさで埋め尽くしていた俺の人生の、はじめの季節が終わる。
そう考えたときに、橙色の明かりの下で上品に盛られた料理の数々を前にして真っ先に思ったのは、早く帰ってあいつに飯を作ってやりたいってことだった。今日これからスーパーに寄って、肉も野菜もデザートも持ち切れないほど買って帰って、食べるのが好きなくせにがっつくたびに気まずそうにしてるあいつに、もう良いよって言うまで食わせてやりたい。
あいつを見てるとあたたまる場所で、心の在処がわかるような気がする。
「はい?」
思わぬところから思わぬ声がかかって素っ頓狂な声が出た。チーフの河合さんである。
「べつに何もありませんけど」
「嘘ぉ。さっきから三分おきに十秒手が止まって空中眺めてるよ。それだけで君の時給で見れば一日に約1250円の損失だ」
「…お暇なんですか…?」
「失敬な。エンジニアのメンタル管理も僕の仕事だって」
からからと笑う恵比須顔は、憎めないけれど俺はずっと苦手だ。
「何があったんだよ。彼女とうまくいってないの?」
部下のプライベートに深入りするのってナントカハラスメントに当たらないのだろうか。
「…ええと」
何か言わないと解放してくれなさそうなので瞬きの間に脳味噌を絞った。
「うちで面倒見てるガキがいて」
「え何、隠し子?」
「違いますって。親戚の子を訳あって預かってて」
なんかこう微妙にとっつきづらい冗談をいちいち挟んでくるからげんなりするんだよな。
「俺ガキの世話とか慣れてないから」
「はあ。それは大変だねえ」
河合さんは何度も深く頷いた。家にいるのは親戚の子でも、なんなら言うほどガキでもないのに信じ込んでいる様子の気の良いおじさんである。
「うちの娘もむずかしい年ごろでね。僕の眼を見もしない。さみしいもんだね。ははは」
けれども大抵の気の良いおじさんがそうであるように、ここで自分の話しかしなくなるような男ではないのだ。そこが河合さんの馬鹿でないポイントで、扱いづらいポイントでもある。
「自分よりもひとまわり、ふたまわりと歳下のひとは、僕らとあまりに違っていて、まだ何にも染まらない眼で、僕らのことを思いもよらないところから映して見せてくるような気がするよね」
「…はあ、…」
「ひとと対峙するっていうのは、常に自分の中身を暴いてくるものだけれど」
「そうですか?」
「君は、ひとを動かすのに長けているからなあ」
河合さんは柔らかい笑みの中で黒々と光る眼をして、俺をじっと見つめた。
「一度、自分の中をじっくり眺めてごらん。そしてコミュニケーションにおける最強の手札は」
「正直さです」
河合さんがいつも言って聞かせていることだから、後を引き取って答えた。
「百点だ」
彼はにっこり笑った。
正直に言って、俺は正直さの何たるかがわかっていなかった。正直なのと脳直なのは違う。正直なのと素直なのも率直なのも違う。
そもそも自分の中を見るって何だ。頭で考えていることはすべて意識下の脳が処理していることなんだから常にモニターされているはずだ。じゃあ心で感じることを見ろっていうのか。
心は、どこにある?
「馬鹿だね、一条くんは」
毎週金曜日に会う女のうちのひとりが言った。
「あなたはいつもふらふらしてる。いつもいそがしそうにして、その実自分と向き合うのを避けているだけじゃない」
「…そう?」
お前は馬鹿だと、面と向かって言われるのははじめてだった。
「もうこんなことやめちゃいたいくせに。私だってごめんだわ。彼氏にそろそろプロポーズされそうだから」
「そうか」
俺の反応が鈍いからか、彼女はため息をついた。
「いい加減認めなさい。一条くん、好きなひとがいるんでしょ」
そんなはずはなかった。女と会うのをやめたくなるほどの人間が別にいるはずがなかった。
「毎週ご飯連れてってもらえるし、ふたりとも気楽にきもちよくなれるなら願ったり叶ったりじゃんって思ってたけど、一条くんは違ったんだよね。あくまで私のわがままに付き合ってただけ」
赤ワインのグラスを傾けながら、彼女は淡々と言った。
「あなたはいつもそう。ひとがあれしたいこれしたいって言って、あなたが合わせる。そういうポーズなのかって思ってたけど違った。単純に、自分が何がしたいのかわかんないだけ」
秋が終わり、冬もあけたら、三十になる。常にいそがしさで埋め尽くしていた俺の人生の、はじめの季節が終わる。
そう考えたときに、橙色の明かりの下で上品に盛られた料理の数々を前にして真っ先に思ったのは、早く帰ってあいつに飯を作ってやりたいってことだった。今日これからスーパーに寄って、肉も野菜もデザートも持ち切れないほど買って帰って、食べるのが好きなくせにがっつくたびに気まずそうにしてるあいつに、もう良いよって言うまで食わせてやりたい。
あいつを見てるとあたたまる場所で、心の在処がわかるような気がする。
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