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《序章 精霊刀剣》【選ばれし子どもたち編】
第九話〜前日譚〜 かわいい子どものいる世界
しおりを挟む【一年前 東京都足立区】
俺の名前は、菊池登志池。35歳。
会社員。
東京都足立区内にある建設会社で総務の仕事をしている。
大学を卒業して、新卒でこの会社に入社してるから、なんやかんやでもう13年近く働いている。
この会社は世間的にはホワイト企業と呼べる部類だ。
繁忙期を除けば定時であがれるし、有給だって申請すれば基本通る──はずだった。
だが最近は、繁忙期でもないのに定時で上がれず、それどころか休日出勤までしなければ回らないほど多忙だ。
理由は単純。
──ほら、また来たよ。
「ごめん菊池くん!
小松さんのお子さんが体調不良らしくて、今日急遽休みになっちゃったから、小松さんの業務を巻き取ってもらえるかな?」
「えー!?またですか!?
嫌ですよ!
私だって自分の仕事でもう手一杯なんですから!」
「そこをなんとか頼むよ!
他の人にも頼んだんだけど断られちゃって……もう頼めるのは菊池くんしかいないんだよ!
ちゃんと残業代は支払うから!ってことでこれ、あとよろしくー!」
「えっ!ちょっと!
待ってくださいよ部長!」
──今週二回目だ。
先週もやった。
俺の机に、また人の仕事が雪崩れ込んできた。
口では「またかよ!」と毒づきながらも頭のどこかで、イクメンで有名な、あの小松さんが今ごろ子どもの横で心配そうに額を触っている光景がよぎる。
俺には想像するしかできない、家庭の一コマ。
その“当たり前”を持っている人間が、正直、羨ましくてたまらない──と、思ってしまった自分にさらに腹が立つ。
「お客様は神様だ!」から「お子様は神様だ!」へ──
現代社会は、そう変わりつつある。
カスタマーハラスメントが横行し、「お客様」に“様”をつける気力すら失せたこの国。
そんな世の中で新たに浮上した“様”問題が、「子持ち様論争」だ。
子持ち様論争──子を持つ親社員が、子どもを理由に優遇され、独身社員がその尻拭いをする。
その構図は、理屈では「仕方ない」で片付けられる。
だが感情は、そう簡単に納得してくれない。
つまりは、子持ち様社員 vs 独身様社員。
そして俺は、表では後者を名乗りつつ、裏では前者に足を踏み入れられなかった男だ。
この構図はニュースやSNS、現実でも毎日のように火花を散らしている。
「『独身だからどうせ土日も暇なんでしょ?だから代わりにこれやっといて!』って、上司に無理やり子持ち様社員分の仕事を押し付けられた
独身にだって用事ぐらいあるわボケ!」
「お子様の体調不良なんて言われたら何も言えない
仕方ないことだとは思うけど、代わりにやってもらった仕事に関してお礼を言わなかったり、お子様がいるから代わってもらうのは当たり前のことみたいな感覚の子持ち様社員もいるから、正直すごいむかつく!」
「事務仕事で、子持ち様社員の仕事を巻き取る意味がわからない!
在宅勤務させればいいだけだろうが!バカじゃないのかこの会社は!?」
「子持ち様社員分の仕事を負担させられると、当然自分の仕事は滞る
なのに上司から『なんでまだ終わってないの?』って詰められた
挙げ句の果てに、仕事が終わらないのはわたしの仕事のやり方が悪いからってことにされて、休日にサービス残業させられた
ほんと勘弁してほしい!」
「『子どもがいるから仕方ないよね』って、何回聞かされれば気が済むんだろう
こっちは残業続きでヘトヘトなのに、あの人は保育園の迎えで毎日定時帰り
なんで“普通に帰れる人間”がヒーローみたいな顔してんの?」
「『子育ては社会全体で支えるべき』って言うけど、社会全体ってつまり、“独身社員が犠牲になること”なんだよな」
「子持ち様社員の分のシフト埋めて、休日出勤もした
そのせいで婚活パーティーの予定をキャンセルした
──あ、俺の将来の子ども、今この瞬間に存在ごと消えたな」
……まあ、わかる。
俺だって今まさに、その真っ只中だ。
そして、この“最後のやつ”は──先月、俺がSNSに投稿したコメントだ。
笑い話のつもりで書いたけど、笑ったのは画面の向こうの誰かで、
書いた本人は、その夜、暗い部屋で天井のシミを数えていた。
だが、心の奥底でうすうす気づいている。
本当に悪いのは子持ち様社員じゃない。
育児で疲弊する同僚を、まともに支えられない会社の体制。
そして、その負担を当然のように独身社員に押し付ける経営陣。
腐っているのは、結局そこだ。
……でも。
頭で理解できても、感情は言うことを聞かない。
「あの人に子どもがいなければ、俺の休日は潰れなかった」
「子どもの発熱が、なぜ俺の残業時間になる?」
そんな卑しい思考が、ふっと胸をよぎる。
すぐに打ち消すけれど、吐き気のようにまた戻ってくる。
──夕方を過ぎ、夜になり、日付が変わってもパソコンの画面は青白く光っていた。
最後の書類を片付け、ふと壁の時計を見る。
「はああ……結局また、休日出勤か……」
椅子から立ち上がりながら、背中に重い疲労と、心の奥にしつこく絡みつく感情を感じる。
苛立ちだけじゃない。もっと面倒くさい、説明しづらい感情だ。
──小松さん、今ごろ子どもの隣で寝てるのかな。
昼間の笑顔で「うちの子がね~」と話す声。正直、あの時間は耳が勝手に遠くなる。
でも、不意に見せられるスマホの写真──
小さな手を握って笑うあの人の顔や、布団の上で熱を出した我が子の額に手を当てる仕草が、妙に胸をざわつかせる。
俺は一度も経験したことがない。
そして、このままじゃきっと、経験できないまま人生が終わる。
羨ましくなんてない──そう思っていた。
でも違う。
子どもがいるから早退できるとか、休めるとか、仕事を放り出せるとか、そんな特権じゃない。
ただ“子どもがいる”という事実。
それを持っている人生そのものが、何よりも羨ましい。
──会社を出ると、金曜の夜の街は酔っ払いであふれていた。
笑い声、歌う声、吐く声。
そんな連中を横目に、俺はひとり黙々と家路を急ぐ。
「はああ、やっと着いた」
二階建て木造のボロアパート、203号室。
──帰宅して靴を脱ぎ、ため息を吐く。
「すぅぅぅ、ふぅぅぅ……
あ~、疲れた~……」
タバコに火をつけ、煙を吐き出す。
口から出た煙と一緒に、昼間のモヤモヤを吐き出そうとするが、胸の奥の重さは取れない。
「なんで俺が毎回こんな目に……」
言葉は苛立ちなのに、その裏に浮かぶのは……
──俺も、家に帰って誰かに“おかえり”って言われたい。
──自分の存在をまるごと必要としてくれる、小さな手に触れてみたい。
でも、部屋に返事はない。
聞こえるのは、冷蔵庫の低い唸り声だけ。
ベッドに倒れ込み、天井の暗がりをぼんやり眺めていたら──
いつの間にか、眠っていた。
──どれくらい眠っていたのかは分からない。
ただ、鼻の奥を刺す焦げ臭さで目が覚めた。
「……な、なんだ、これ!?」
次の瞬間、熱気が肌を焼いた。
壁が赤く揺れている──炎だ。
パチパチと木が裂ける音。天井から落ちる黒いすす。
息を吸った途端、喉が焼けるように痛み、激しく咳き込む。
「カッ……ゴホッ!なんだよ……火事……!?」
慌てて窓を開けた。
外の冷たい空気が一瞬だけ肺に入り──その直後、炎が勢いを増して部屋に襲いかかってきた。
顔の皮膚が引きつるほど熱い。
玄関へ向かう通路は、すでに炎の壁だった。
二階の窓から飛び降りれば助かる──頭では分かっている。
でも足は動かない。
火の音と、自分の荒い呼吸音しか聞こえない。
頭の中が真っ白で、体の制御が効かない。
視界がだんだん暗くなっていく。
酸素が足りない。
耳鳴りの中で、不意に昼間の小松さんの声が蘇った。
『昨日、子どもが“パパ大好き”って言ってくれたんだ!』
──ああ、いいな。
一度でいいから、そんな言葉を言われてみたかった。
喉から声が出なくなり、手の力も抜ける。
炎が視界の端で踊っている。
最後に見えたのは、天井から落ちてくる火の粉だった。
──翌日。
火災の原因は、タバコの不始末。
一階の住民は全員避難し無事だったが、二階の住民は──俺を含め、全員死亡。
──本当は、子持ち様に苛立っていたわけじゃない。
この歳になっても、子どもを持てなかった自分に苛立っていただけだ。
「かわいい子どものいる世界」
来世こそ、どうかそれが叶いますように……
─────────────────────────────────────
※用語解説
・火の精霊 (悪霊):“火属性”の精霊 (悪霊)。
その魂の起源は、建物火災や車両火災などによる焼死、火災現場での崩落・倒壊による圧死など、“火に起因する死”によって命を終えた者に由来するとされている。
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