月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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web版【第一部】おまけ&後日談

回想 戯言と誘惑

「どうかしたのか、カイ」

 その晩、カイがそろそろ寝ようと寝台に横になった頃、様子を見に来たサイードがカイを見るなりそう尋ねてきた。
 そうやって気に掛けて貰えるのが嬉しい反面、すぐに自分の不安や動揺を悟られてしまったことが少しばかり恥ずかしくてカイは力なく笑う。

「……ちょっと気がかりなことが増えてしまって……」
「それは以前神殿長殿と話したことか?」
「えっ?」

 一瞬なんのことかわからず聞き返すと、サイードはカイの傍らに腰掛けて言った。

「以前、神殿長殿と話をした折にカイがひどく動揺しているようだったと聞いた」
「え……ああ、ウルドから?」
「そうだ」

 それを聞いてふと、サイードが突然市場スークへ行こうと誘ってくれたのはそのせいだったのか、と気が付いた。

「また心配かけちゃってたんですね」

 しかもサイードだけでなくウルドにも、とカイは情けない思いで枕に頬をぎゅっと押し付ける。けれどそんなカイの髪を梳いてくれたサイードの手の暖かさにまた泣きたくなるような安堵を覚えた。

(ああ、駄目だな。また前みたいにこんなことで狼狽えて)

 この世界に来たばかりの頃、カイはいつも気持ちが落ち着かなくて小さなことで泣きたくなってばかりいた。そして自分の涙が持つ力に気づいてからは必死に泣くのを止めようとして余計に心が不安定になっていた。

 今はその異常なほどの感情の揺れと涙は全部『慈雨の神子』としての力を引き出すためだったのだとわかる。
 自分でその力をちゃんとコントロールできるようになれば恐らくそんな風に泣いてばかりいることはなくなるはずだ。実際、エイレケのアダンの一件があってからはずっと意味もなく涙が出たり泣きたくなることもない。それにカイが特に涙を流さなくても神殿の地下水源に変化はないらしいと聞いて、ここしばらくは前の世界と同じようにそれなりに穏やかな生活を送っていた。

 けれど夜になって一人寝台に横たわった時、色々な疑問や不安や動揺が一気に押し寄せてきた。久々に感じる腹の奥底に潜むくろぐろとした気配に密かに息を詰めていた時、サイードが来たのだ。

(……ああ……やっぱりサイードさんの手はあったかくてきもちがいいなぁ……)

 サイードに前髪を梳かれ、額を撫でられてカイはようやくホッと息を吐きだした。

「いい歳していつまでもオロオロしてちゃ駄目ですね」

 ついそう呟くと、サイードが言った。

「そんなことはない。俺もこの年になって初めて己の心の内を知ったくらいだ」
「え?」

 そういえば最近はわりといつも『俺』というようになったなぁうれしいなぁと思いつつ、もっと詳しく意味を知りたくて問い返す。するとサイードはカイの頭に乗せた手はそのままに、めずらしくどこか別のところを見つめながら答えた。

「人の心の機微に疎いのが俺の欠点だが、あまり感情の起伏がないのが自身の長所だとも思っていた」
「あー、サイードさんはいつでも穏やかですもんね」
「穏やか……というのとは恐らく違うな」
「えっ?」

 思わず声を上げてしまったが、サイードはただ微かに笑ってカイの髪を撫でただけだった。そして突然話を変える。

市場スークに行った日、俺は少しおかしかっただろう?」
「えっ?」

 さっきから「えっ?」しか言ってないようだが仕方がない。

(ええと市場スーク……、ああ、クリスティアンさんと言い合いみたいになった時、なぜか僕を抱えたまんまなかなか降ろしてくれなかったことかな)

 それにその夜は寝台ではぎゅっとカイを抱きしめて離さなかったことを思い出す。途端に顔がカッと熱くなってカイは慌てて冗談で誤魔化そうとした。

「それって、サイードさんが夜、僕に妙に甘えてたことですか?」
「ああ、そうだ」
「う゛ぇっ!??!」

 驚きのあまり喉に引っかかって妙な声が出た。思わず飛び起きたカイに目を見開いてサイードが天蓋の外にいるウルドに水を持ってこさせようとする。それを慌てて止めてカイは言った。

「え、サイードさん、本気でホントに僕にあ……あま……甘え……えっ……!?」

 冗談のつもりが真顔で返されて、照れるあまりつい口ごもってしまうカイにサイードはあっさりと「そうだ」と答えた。そしてしばらく何かを考えてから口を開く。

「俺は自分のことを話すのが上手くない。だがカイはいつも心を開いて自分の不安や恐れを話してくれるだろう?」
「え、いやそれは単なる僕の愚痴というかなんというか……どっちかっていうといらんことばっか言ってる気がしますけど……」
「だが俺はそれが聞けてとても嬉しい」

 あまりにもドストレートな言葉にカイはそれ以上何も言えなくなる。しかしさすがというべきか何なのか、サイードの攻撃はまだ終わらなかった。

「以前、俺たちの考えが足りずにカイを不安にさせたことがあっただろう。だから俺もダルガートもこれからは言葉を惜しまぬようにと決めたのだ」
「えッツ!??!? そ……ッ、えッ!!??」

 カイは、ただでさえ破壊力満点の二人のアレやソレな発言が今後はバンバン自分に飛んでくるのかと激しくうろたえる。だがサイードが言おうとしていることはもっとずっと真面目なことだった。

「だからカイも今何か心に伸し掛かる重荷があるのなら話してはくれないだろうか。神子の畏れを俺が祓うことは難しいかもしれないが、重荷をともに背負うことはできると思う」

 あ、そっちの話か、とカイは慌てて口を噤む。するとサイードはじっとカイを見つめて言った。

「もちろん、無理にとは言わないが」
「…………はい」

(そうか……僕が鬱々としてたことをそんなにも心配してくれてたんだ……)

 なのに自分は夜に寝台で聞かされた睦言などを連想したりして、一人動揺したのが恥ずかしくてたまらない。

「…………あの、」

 思わずため息をついて顔を覆った指の隙間から目だけを覗かせて、カイは答えた。

「……あの、まだ自分でもよく整理できてないので、また今度聞いてくれますか?」
「ああ、いつでもカイの望むままに」

 それから二人で明日最後の荷物の点検の後にまた馬に乗る練習をしようと話し合った。そしてカイの口から大きな欠伸が漏れた時に、サイードはいつものように額に口づけて言う。

「よく休め」
「……おやすみなさい」

 寝台から立ち上がろうとしたサイードが、なぜかもう一度カイの上に屈み込んできた。

「……本音を言えば、話の中身など何でもいい」

 いつも不意に浮かび上がるサイードの笑みに目を奪われた時、まるで辺りを憚るように耳元で囁かれる。

「ただ、カイの声が聞きたいだけだ」

 カイはたまらず悶絶した。
 再び両手で顔を覆って撃沈したカイに、サイードが驚く。

「どうした、カイ」
「…………なんでもないです…………」
「そうか」

 いつも「そうか」と言ってなんでも受け入れてくれるサイードだが、さすがにこの時は何かがおかしいと思ったようだ。まるで潰れたカエルのような声で唸るカイを撫でながらさらに顔を覗き込もうとしてくる。

「う゛う~~」
「カイ?」
「いやいやそうかこれが大人のみりき~~~~~」
「みりき?」
「……気にしないで下さい……現代人でも古すぎてわかんないと思うんで……どっちかっていうと僕も8より7の方が好きだし……」

 などと意味のないことをベラベラしゃべってなんとか冷静さを取り戻そうとするが、心配したサイードがますます顔を近づけてきてまったくの逆効果になってしまった。

「カイ?」

 眼前に迫るサイードの顔の近さに息を呑む。そして何度見ても見足りないと思うような端正な顔立ちに思わず目を吸い寄せられた。

(……しっかし、ほんとにサイードさんって綺麗な顔してるよな……)

 異国情緒たっぷりの褐色の肌にエキゾチックに結われた黒髪、秀でた額、まっすぐで意志の強そうな眉と神秘的な黒い瞳。高い頬骨もスッと伸びた鼻も滑らかな頬も豊かな口元も何もかもが奇跡のように整っているけれど、そのシャープな美しさはどこまでも男性的でカイはいつも見蕩れてしまう。

(あー、僕、サイードさんの声には絶対逆らえないなーって思ってたけど、この顔にもめちゃくちゃ弱いんだなぁ……)

「……僕、サイードさんの顔、すごい好きだぁ……」

 すっかり魅入られてしまってうっかり頭に浮かんだことをそのまま口にすると、サイードは驚いたように目を見開いた。そして少し笑うと「それは良かった」と言った。
 鼻先が触れそうなくらい間近で、まるで世界にカイしかいないみたいに自分だけを見てそう囁くサイードの声に、ゾクゾクと甘い痺れが這い上がって来る。

(……どうしよう……なんか、……すごく……)

 すごく、サイードの唇が気になる。
 ものすごく近いのに、触れそうで触れない距離がひどくもどかしい。
 ドクドクと妙に鼓動がうるさく響く。

(ああ、なんかぼく、へんだ)

「……サイード、さん……」
「どうした? カイ」

 だがそれには答えず、恐る恐る手を伸ばしてさっきから気になって仕方がないサイードの口に触れてみた。すこしかさついていて、でもあたたかくて弾力のある感触になぜか胸が高鳴る。

(……うわ、なんで、突然……こんな……)

 顔が熱くて、頭がぼんやりしてきて、脈が速くなって視界が潤む。

「…………カイ」

 不意に、サイードの声に何かの色がついた。
 ひどく低くて、甘くて、深い声。そして黒い目の奥に、カイを落ち着かなくさせるような何かが宿る。
 サイードの顔がさらに近づいてきて、でもようやく唇が触れるかというところで止まってしまう。そして何かを探るようにカイの目の奥を覗き込んできた。
 はぁ、と熱いため息が漏れる。そしてついに我慢できなくなったカイは、初めて自分から首を伸ばしてサイードに口づけた。

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