月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

58 迷い

 思えばこの世界に来るまで僕は地平線というものを見たことがなかった。初めてそれを見たのはあのエイレケのアダンと対決した夜の砂漠だ。
 今アル・ハダールへ向かう道は割とあちこちにごつごつした山があるし、北側にはずっとエルミランから続く山脈がある。
 それでもごちゃごちゃと住宅の立ち並ぶ街で生まれ育った僕にとって、どこまでも乾いた大地にわずかに生えている草木と、のんびりと草を食む羊や馬が群れをなしている光景はとても深く胸に残った。

 馬の扱いには慣れているヤハルたちだけど、さすがに羊の世話までは経験がないようだ。
 一宿一飯の恩とばかりにみんなで朝の仕事を手伝ったが、ヤハルたちもいたずら好きな羊にお尻を押されたり勝手な方向へ歩いて行ってしまったりとなかなか苦労している。
 なのにサイードさんだけはおじいさんたちに混じって口笛一つで羊たちを歩かせたり小屋の中で飼われている山羊の乳を絞ったりしていて僕は驚いた。

「サイードさんって何でもできるんですね」

 するとサイードさんは僕を見て答えた。

「昔、飼っていたからな」
「え?」

 飼っていたって山羊や羊を? 騎士ってそんなこともするの? と思ったところで、もしかしたらずっと昔の話なのかも、と思い当たった。
 そして僕と同じくらいの歳の頃に一族を失った、と言っていたサイードさんの言葉を思い出す。

「それってカハル皇帝の騎士になる前ってことですか?」
「ああ、そうだ」

 そう言ってサイードさんは乳を搾り終わった山羊の尻を叩いて群れに戻してやった。
 もっと詳しく聞きたかったけど、そんな悲しい過去を思い出させるような事を聞いていいものか、やっぱり躊躇ってしまう。

 この旅を通じてもう一つ知ったことは、サイードさんは僕が思ってた以上に無口だってことだ。
 確かにこれまでも僕と話してる時は聞き役に回ってることが多かったけど、でも僕が話しかければサイードさんの方も結構あれこれしゃべってくれていた気がする。でも僕が旅の間さりげなく聞き耳を立てていても、ヤハルたちとは本当に必要最低限の会話しかしていない。
 仲間内でもそうなんだから、途中の村や街で出会った人相手なんかは推して知るべしだ。ただ聞かれたことに答えるぐらいで、自分から話すことと言えばこの辺りで事件や事故は起こってないかとか聞くくらいだ。
 こないだサイードさんが、僕の馬がダルガートに似てる云々なんて言っていた時ヤハルが絶句してたのは、その内容もだけどサイードさんがそういう軽口めいたことを言うこと自体が本当に本当に珍しいことだったからなのだと後で気が付いた。

 今も黙々と作業をしているサイードさんを見ていると、以前僕がダルガートに対して感じていたほどの気づまりはないんだけど、それでもうかつに昔のことを聞いていいものか迷ってしまう。
 でもこの時は珍しくサイードさんの方から話を続けてくれた。

「昔、俺の一族も馬を飼い、羊を追って暮らしていた。そこでもやはり雨が降らず牧草が減って難儀したものだ」
「そうなんですか……」

 背中にじゃれついてくる別の山羊を軽くいなして、サイードさんが言う。

「少ない牧草地をいくつもの氏族で取り合うことになる。負ければそこで生きていくことはできない」

 淡々と話すサイードさんの横顔を、僕はただ見つめることしかできなかった。

 思い返せば昨日の夜、僕が夕飯の席で夢うつつに聞いていた声はサイードさんのものだった。
 村や街に泊めてもらっても自分からはほとんど話さないサイードさんが、珍しくここのおじいさんに天気はどうだとか土地は豊かか、とか聞いていた。そして北から攻めてくる異民族の話を聞いては深く何かを考え込むかのように黙り込んだ。
 あれはもしかしたら昔の自分の家族のことを思い出していたんだろうか。そして一族をなくしてしまったというのは、その土地争いで負けてしまったということなんだろうか。

 サイードさんの、いつでも凛々しくて静かな横顔がこの時は少し遠くに感じた。






 遊牧民であるおじいさんたち家族はみな本当に働き者だ。
 今朝も夜明け前から山羊の乳を搾り、羊や馬たちに水を与え、できるだけ早く羊たちを放牧地へ連れていって少しでもたくさん食べさせようと支度を急いでいる。

「牧草ってどうやったら早くたくさん生えてくるんだろう」

 僕も食事を作るための水汲みを手伝いながら呟く。すると隣にいたサイードさんが答えた。

「雨が降って日が照って、しばらく羊や馬を入れなければ生えてくる」
「……まあ、そうですよね……」

 やはりそうそうウルトラC的な裏技なんてなさそうだ。

 神子の力は気象に関するものだからそのくらいならなんとか出来そうな気もするけれど、一つ気になっていることもある。
 果たしてここで僕が勝手に自然の天気に手を加えていいものだろうか、ということだ。

 この世界は当然のことながら神子がいない時間を何万年、何千年も続けてきた。それを勝手に変えてしまうことで何か他の不都合が出てきてしまうことはないのだろうか。

(でもあくまで一時的な変化ならいいかな)

 パンだねを入れずに焼くナンのようなパンとアツアツのスープの朝食を頂いてから、僕は幕家の外に出た。
 今日、午前中にここの人たちにパンを焼いてもらい、水を分けて貰ってから出発する予定だ。それまでの間、僕は羊や馬たちが連れていかれた方に向かって少し歩いてみる。そして乾いた地面に手のひらを当ててみた。

 水を呼ぶ、雨を降らせる、太陽を招く。
 多分、僕はそれができるんじゃないかと思う。実際、似たようなことを三代前の神子だった彼女はやっていた。

 僕が神子の力を呼び起こす過程は、こないだのエイレケのアダンとやり合った時になんとなくわかった。
 一番重要なのは『それができる』と自分が頭から思い込めること。
 僕の場合、そのためには例え思いつきでも屁理屈でも間違っててもいいから、自分で納得できるだけの理屈を鮮明に頭の中で思い描く必要がある。

 今の季節、雲が留まりがちなのは多分北にある山脈のせいだ。だからそれを押し流せるくらいの暖かい風が南から吹けば雲は晴れて日が差し込むし、気温だって上がるに違いない。
 南の海の上を通ってきた暖かく湿った空気がこちらに流れてくれば、雨を降らせることだって多分できる。

 僕が地面に手を当てたまま息を吸い込もうとした時、後ろから「カイ」と名前を呼ばれた。

「サイードさん」
「そろそろ行こう」
「……はい」

 僕は石や砂に覆われた地面から手を離して立ち上がる。
 前を歩くサイードさんの背中に何か言いたかったけど言葉が浮かばない。だから走って追いかけて、黙って隣にくっつくみたいにして一緒に歩いた。そしてふと、こんな時ダルガートだったらどうするんだろう、と思った。
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