月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

閑話 宰相・サルジュリークの苛立ち

「……逃げたな」

 虎髭のカーディムがぐびり、と酒を飲んで言った。

「逃げられましたね」

 宰補のアドリーも頷く。それをジロリ、と睨んでアル・ハダール宰相サルジュリークはぐい、と茶を飲み干した。それを見てカーディムの義兄のサファルが豊かな髭を撫でながら言った。

「素直で良い子ではないか」
「ええ、わかりますよ。そのくらいは」

 空になった茶碗を差し出すと、アドリーが急いでおかわりを注いでくれる。いっそ酒でも呑みたい気分だったが、感情に波がある時に呑んではすぐに酔ってしまうことはすでに実証済みだ。以前、それで酷い目にあったサルジュリークは我慢して茶をすする。案外と酒に弱いことをこれ以上知られるわけにはいかないのだ。

「で、宰相殿はあれをどう見たんだ」

 カーディムがニヤニヤ笑いながら尋ねてくる。

「あの年頃にしては随分と謙虚で控え目ですね。自ら功を誇らず、大言壮語も吐かない。ですが非常に思慮深い反面、思考に囚われすぎて今一つ行動が遅れるところがある」
「なかなか手厳しいな」
「そうでもないですよ」

 サファルの言葉をサルジュリークは否定した。

「旅はどうだったかと聞いた時、適当にお茶を濁すこともできたのに神子は逡巡して答えを言わなかった。彼は言葉の重きを知っている。そこがもっとも好ましいと思いましたね」
「なるほど。宰相殿らしい答えだ」

 サファルが重々しく頷いた。その横でカーディムが肉を勢いよく咀嚼しながら尋ねる。

「で、あの神子さんが現れてからうちの領土内の変化について、すでに報告は上がっているのかい?」
「ええ、目覚ましいものがありますよ。まず南のアルハン大河に水が戻りました。渇水の一番激しかった北方でも河川や井戸水、湧き水の水量が明らかに増えたと辺境部隊から早馬が来ています。この分だとギリギリ春まきの小麦には間に合いそうですね」
「そいつは良かった。これ以上民が飢えるのは見たくないからなァ」

「しかし」とアドリーが口を挟む。

「神子の恵みはアル・ハダール領内に限られたこと。この分だと増えた収穫物や水源を狙って南蛮や北狄の侵攻が激化しそうではありますが」
「それを押さえるのは我らの役目だ」

 サファルの言葉にカーディムが頷いた。それを見てサルジュリークは茶を含むふりをして考える。
 あの『慈雨の神子』が持つ力のすべてを知っている者はまだほとんどいない。多くが、文字通り水の恵みをもたらす者だとしか考えていない。だがそうではないことを、アドリーやカハル皇帝からの話でサルジュリークはすでに知っていた。

(エイレケのアダンに攫われた時、彼は自らの意志の力で大風を呼び砂漠に砂嵐を起こしたとか)

 それが本当であればアドリーの言う夷狄の襲撃など容易く撃退できるだろう。南蛮だろうが北狄だろうが物の数にも及ばない。

(とはいえ、あのお方はそれを良しとは思われぬだろうな)

 サルジュリークは上座で神子とそのイシュクたちを前に豪快に笑い声を上げている主君の姿を目の端に収める。
 一事が万事『面白いか面白くないか』ではかるカハルの独特の価値観に慣れるまで、サルジュリークもかなりの努力を要した。だが今はその凡人には捉えがたき度量がまさしく『面白い』。

「しかし、そうなると選定の騎士としてサイード将軍に神殿へ行って戴いたのはまさに慧眼だったと言わざるを得ませんね」

 そう呟くとカーディムがギロリ、と睨んできた。

「おう、わしはともかくサファルの兄者が行ってもあの神子さんは我がアル・ハダールを選んだに違いないぞ」
「まあ、そうかもしれませんが」

 サルジュリークが視線を向けると、アドリーが頷いて言った。

「他の二国の選定の騎士を、神子殿は初めから苦手に思われていたようですね。私も離れた場所から様子を窺っておりましたが、エイレケの騎士もイスタリアの騎士もどちらも神子殿を取って食おうとせんばかりの形相でございました」
「エイレケの騎士はかのアダンの弟だったな。自らが選ばれなかったからといって、神殿に忍び込み力ずくでかどわかそうとする男を選んでいたら、あの神子さんじゃ今頃どんな目に合わされていたかわかったものではないわ」

 憤然とした顔でカーディムが吐き捨てた。その声が大きすぎることを嗜めてサファルが言う。

「だがイスタリアの騎士は大層な美丈夫であったと聞いておるが」
「ええ、ですが次期女王の配偶者の地位を欲しているようで、神子を得て己の地位を上げようという欲が顔に出すぎていましたね」

 アドリーの答えを聞いてカーディムがニヤリと笑った。

「無私無欲という点じゃあ、うちのサイードを超える者はおるまいて。どうやらサイードも神子さんを大層気に入っている様子じゃないか。相思相愛でいいことだ。おまけにもう一人、あの神子さんはとんでもない難物まで釣り上げたようだがのう」

 そう、そこだ。サルジュリークは大きく息を吐きだした。まさか彼があの・・ダルガートまでをも味方につけてしまうとは予想もしなかったことだ。

 サルジュリークとダルガートの不仲はアル・ハダールの中でも有名だ。とはいえサルジュリークの方が一方的に彼を嫌っているとも言える。
 以前カハル皇帝に『なぜそんなにあの男を嫌うのだ』と苦言を呈されたことさえある。それに対してサルジュリークは『一度おのれの主君を裏切った男が二度同じことをせぬとは限りませぬ』と答えた。

 もちろんかつての彼の王ジャハールの無知蒙昧ぶりはサルジュリークとて理解しているし、カハルこそがこの国を救うと見抜き、信じ、すぐに行動に移して帝都陥落の糸口を作ったダルガートの慧眼と行動力を密かに評価してさえいる。
 だがそれとこれとはまた別だ。
 ひと言でいえば、腹の底が知れぬ。あまりに得体が知れなさすぎて信用できぬのだ。
 宰相たるサルジュリークはアル・ハダールの民、重臣、そして君主の心さえも読んでうまく使いこなせなければならぬ。なのにあの男だけは何を考えているのかまるでわからない。

(なのに、あの神子殿は彼の人となりをたった数日で見抜いたというのか)

 なぜダルガートを信用するのか、と聞いたサルジュリークにあの神子は『自分が何をしても、そしてできなくても、彼は変わらないだろうから安心できる』と答えた。

(……それはなんとなく、分かる気がするな)

 あのダルガートという男は人の目や意見にまるで頓着しない。
 二君に仕えた男と謗られようが、愛想もなく融通も利かぬ陛下の犬よと貶められようが、いつもあの冷ややかな目をして陰口を叩く彼らを鼻にも引っ掛けぬ。
 おのれの信ずるところ、おのれの行く道は、他人にどう見られようが自分だけがわかっていればいい。そう思っている節がある。
 サルジュリークにしてみればそういうところが癇に障るのだが、あの神子は違うらしい。

「気に入らぬようだな、宰相殿よ」

 かすかに笑ってサファルが言った。思わずそれに唇を曲げる。
 サルジュリークは笑顔も驚いた顔もショックを受けた顔も、全部計算の上で相手に見せる。実際のところはどんな相手にでも出鼻をくじかれたり意表を突かれたりということはない。
 だが、時として皇帝ハリファカハル以上の落ち着きと威厳を見せるこの義兄弟の二兄が、ダルガートとは違った意味で少しばかり苦手だった。

「不満はありませんよ。『慈雨の神子』をこのアル・ハダールに縛りつける楔が一つでも多い方がわたくしとしては安心ですから」

 わざと斜に構えたような言葉を返すサルジュリークに、サファルは酒杯に口に運びながらまたうっすらと微笑んだ。その、まるで頑是ない子どもをあやすような顔つきが気に入らなくて思わず言い返す。

「サイード将軍はわかりますよ。彼は寛容で包容力があるし、派閥にも属さず視点も利にも偏っていないから物事を広く見渡せる。不安に慄く神子殿を上手に良い方向へと導いていけるでしょう」
「わかっておらんのう、宰相殿は」

 突然カーディムが虎髭に覆われた顎を掻きながらニヤリと笑った。それにサファルも静かに頷く。

「あの神子さんと一緒にいて助けられるのはサイードの方さ。のう、兄者」
「そうだな」
「え? どういう意味です?」

 だが二人の義兄弟たちは笑うばかりで、まるで一本取られたようか形にサルジュリークは納得いかない気持ちを豊かな香りの茶とともに飲み下した。
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