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【第二部】東の国アル・ハダール
閑話 凍てついた大地
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「気を付けろ! 堤が切れるぞ!」
「土嚢を押さえろ! そこの三人、向こうへ回れ!」
「合図とともに馬を引くんだ! いくぞ、一、二、三、今だ!」
「おぉおおッツ!!」
男たちが一斉に勢いよく流れる水を堰き止めて土嚢を積み上げ、堤を補強する。だがまだ年若い男が担いだ土嚢を取り落とし、その隙にそこから水が溢れそうになった。
サイードはすかさず駆け寄り、土を詰め込んだ重い袋を担ぎ上げると崩れかけた堤の隙間を塞ぐように投げおろした。
「も、申し訳ありません、サイード様」
土嚢を取り落とした男がすまなそうに謝る。疲労に落ちたその肩を一、二度叩いて励ますとサイードは再び堤の上に戻って周囲を見渡した。
慈雨の神子の降臨により急激に水が戻りつつあるイコン河だが、水が枯れかけていた間に河底にわずかに残った水を求めて出入りした多くの家畜やその飼い主たち、そして北の蛮族が踏み荒らした堤は今にも崩れそうな箇所がいくつもあった。
冷たく乾燥しきって牧草も麦もろくに育たないこの不毛の地に水が戻ったのは何よりも喜ばしい。だがその河の堤がしっかりしていなければせっかくの水は溢れて平地に流れ出し、逆に大きな被害をもたらしてしまうだろう。
(今の時点でイコン河に戻った水の量は最盛期のおよそ半分。恐らくカイの力がさらに満ちればもっと水量は増えるはずだ。その前に切れた堤を回復させておかなければ)
サイードはこの地に駐屯している第三騎兵団と辺り一帯からかき集めた人々を指図し、突貫工事で堤の修復作業を進めていた。
(敵に落とされたという橋も掛け直す必要がある。だが水量がここまで戻った河での橋梁工事はなかなかの難物だな)
こればかりは水が枯れかけていた時の方がはるかに簡単だったが、それは贅沢な悩みというものだ。
この厳しい環境の中、本来なら家畜の世話や小麦を育てるのにあてるべき貴重な男手を大勢駆り出すのは民たちにとっては大きな痛手だろう。それでも彼らは数十年ぶりに水の戻ったイコン河を前に歓喜の涙を流し、砂と石ころだらけの地に跪いては口々にラハル神と慈雨の神子を褒め称え、そしてこの困難極まりない難工事に従事してくれている。
サイードはここよりも上流で同じ作業を指揮している部下のナスィーフからの報告を聞き、連日の重労働に疲れきった男たちに交代で食事をとらせ、徴用した馬たちの中で限界が近いものがいないか調べて回った。
「サイード様、どうか休憩を。食べなければとても身体がもちませぬ」
ダーヒル神殿領から帝都までの旅も共にしてきたアキークが言う。
「神子殿がお知りになられたら、悲しまれましょう」
そう言われてサイードの脳裏に黒髪の優しげな顔立ちをした少年の姿が浮かんだ。
以前、神殿領から帝都イスマーンを目指す旅の途中に大事に育てた馬に自らの手で止めを刺したサイードを、カイは悲しそうな顔をしてそっと見ていた。
元から口がうまくないサイードはそんなカイを上手く慰める言葉が浮かばず、結局最後まで何も言うことができなかった。
アキークの言葉に、そんなカイを思い出して密かに苦笑する。
「わかった。何かあったら呼べ」
「はっ」
サイードは堤から降りながらどこまでも続く荒野を見渡す。
徐々に水と緑が戻りつつあった帝都周辺とは異なり、この辺りはまだ乾いて凍てついた砂漠のままだ。
同じ砂漠の大陸でも地方によって様子はまったく異なる。ダーヒルの神殿領はサラサラと熱く柔らかな砂が広がっていたが、神殿領よりもずっと北方かつ内陸のこの地は小石が転がる固く冷たい礫砂漠だ。それでも水と太陽の光さえ戻ればきっと草木は育ち、馬も羊も山羊ももっともっと増えていくだろう。
(カイは元気だろうか)
冷たい風に髪をなぶられながら、サイードは帝都にいるカイを思う。
こんな風に遠征先で残してきた誰かのことを考えるのは初めてのことだ。
カイの顔が見たい。けれど今彼がこの冷たく凍てついた地よりはるか遠く、安全な場所にいることは喜ばしく思う。
例え自分がどこでどんな目にあっていようが、カイが暖かく腹も満ち足りて幸せにしているのならサイードはそれで満足だった。
サイードは荷駄の前に座り込んで言葉少なに種なしパンを齧っている一団に混じって腰を下ろす。すると遊牧民たちがよく着ている毛織の厚い袍を着た男たちが声を掛けてきた。
「将軍。この工事が終わればこの一帯は安全になりましょうか」
「ああ」
サイードは頷く。
「神子の力はこれよりますます強く、あまねく全土を潤していくだろう。そうすれば牧草も増え、馬も羊も飢えることなく仔を産み育っていくだろう」
「ああ、早くその日が来ますように」
頭を垂れて祈る男たちに、サイードは尋ねた。
「お前たちはこの辺りの者か」
「はい。もう少し南で山羊と羊を飼っております」
「今はどのくらいいる」
「そうですな……儂らのひいじいさまの頃はは二百を下りませんでしたが、今はどちらも両手ほどしかおりません。家族が食べていくのでやっとでございます」
「そうか」
サイードはお付きの従士が持ってきた熱い湯を飲んで身体を温める。そして喉を通り腹の中からじわじわと広がる熱の心地よさを味わう間もなくさらに問いかけた。
「この辺りでは真冬はどうしている。北の山脈から吹き下ろす風は相当強く、厳しいだろう」
すると一番年嵩の初老の男が髭をしごいて答える。
「左様にございますな。ナウルの月の頃の北風には馬でさえも飛ばされまする」
「我らのところでは幕屋を一つ開けてそこに家畜を囲っております」
「この時ばかりは数が少なくて助かりますな」
「確かに」
そう言って笑う男たちをサイードは無言で見つめた。
この男たちは皆、かつてのサイードと同じ羊や馬を追って生きる者たちだ。サイードが生まれたのはもっと南西の温かい土地だったが、彼らが自分たちの家畜の話をする時の顔は昔サイードがいつも見ていた父や叔父たちのものとそっくり同じだった。
「神子様のお陰で水が戻って、日さえ照れば……」
「きっと昔のようにこの地にも緑が戻る」
「山羊も羊にも、早く腹いっぱい食わせてやりたいのう」
「儂らの馬にもなぁ」
火を囲み刻み煙草を回しながらそう話す男たちの声に、サイードは子どもだった頃と同じように黙って耳を傾けた。
◇ ◇ ◇
その夜、作業の遅れが気になったサイードは松明を手に堤へと向かった。地元の遊牧民で同じ境遇の者たちのまとめ役をしている男が同じように灯りを掲げて川面を覗き込む。
「将軍、朝より水量が増えたような気がしませんか」
「ああ」
それに勢いも強い。
イコン河はアル・ハダール国内で南のアルハン大河につぐ規模だ。四か月ほど前にサイードがこの地へ来た時は川底から三分の一ほどの高さまで水が戻っており、ここ一か月ばかりはさらに半分まで水量が増えた。
だが今、松明の灯りに照らされた川面は堤の縁から見て2メルドもない。これではもし上流で大雨が降って水量が増えればすぐに堤は切れてしまうだろう。
「将軍、これは一体……」
と言いかけた男を、サイードは手を上げて押しとどめる。
(何か、音がする)
低く、重く、地を揺るがすような何かが近づいている。サイードは松明を掲げ暗闇の中で目を凝らし五感を研ぎ澄ました。
「将軍! あれを!」
突然、上流の方から飛沫を上げて黒く巨大なうねりが襲い掛かってくるのが見えた。
(あれは……波?)
「な、なんだあれは!?」
男が狼狽えたように叫ぶ。
「待て、動くな」
「うわぁあッツ!!」
耳を聾する音と突然の激しい増水に驚いた男が足を滑らせた。サイードはとっさにその腕を掴んで上半身をひねると、渾身の力で男を堤の上へ突き飛ばす。だがその拍子に足元の土が大きく崩れた。
「将軍! 将軍ッ!!」
ふわり、と身体が宙に投げ出される感覚とほぼ同時に、サイードは押し寄せる濁流に呑み込まれた。すぐに水を搔いて水面に顔を出そうとするが、流れが速すぎて思うように手足が動かない。
ものすごい勢いで下流へと流されながらも、なぜかサイードは自分がそこまで恐怖を感じていないことに気が付いた。
(なぜだろう、水が温かいせいか)
そう、おかしなことにサイードを飲み込んだ濁流は冷たくはなかった。アル・ハダールの北西の端を流れるイコン河は年中とても冷たいはずだ。
上下もわからぬ真っ黒なうねりの中で、やけに冷静な自分にサイードは驚く。
この激しい流れの中では無理に抵抗してもいたずらに体力と息を失うだけだ。サイードは意識して全身の力を抜くと、一か八か河の流れに身を任せた。
「土嚢を押さえろ! そこの三人、向こうへ回れ!」
「合図とともに馬を引くんだ! いくぞ、一、二、三、今だ!」
「おぉおおッツ!!」
男たちが一斉に勢いよく流れる水を堰き止めて土嚢を積み上げ、堤を補強する。だがまだ年若い男が担いだ土嚢を取り落とし、その隙にそこから水が溢れそうになった。
サイードはすかさず駆け寄り、土を詰め込んだ重い袋を担ぎ上げると崩れかけた堤の隙間を塞ぐように投げおろした。
「も、申し訳ありません、サイード様」
土嚢を取り落とした男がすまなそうに謝る。疲労に落ちたその肩を一、二度叩いて励ますとサイードは再び堤の上に戻って周囲を見渡した。
慈雨の神子の降臨により急激に水が戻りつつあるイコン河だが、水が枯れかけていた間に河底にわずかに残った水を求めて出入りした多くの家畜やその飼い主たち、そして北の蛮族が踏み荒らした堤は今にも崩れそうな箇所がいくつもあった。
冷たく乾燥しきって牧草も麦もろくに育たないこの不毛の地に水が戻ったのは何よりも喜ばしい。だがその河の堤がしっかりしていなければせっかくの水は溢れて平地に流れ出し、逆に大きな被害をもたらしてしまうだろう。
(今の時点でイコン河に戻った水の量は最盛期のおよそ半分。恐らくカイの力がさらに満ちればもっと水量は増えるはずだ。その前に切れた堤を回復させておかなければ)
サイードはこの地に駐屯している第三騎兵団と辺り一帯からかき集めた人々を指図し、突貫工事で堤の修復作業を進めていた。
(敵に落とされたという橋も掛け直す必要がある。だが水量がここまで戻った河での橋梁工事はなかなかの難物だな)
こればかりは水が枯れかけていた時の方がはるかに簡単だったが、それは贅沢な悩みというものだ。
この厳しい環境の中、本来なら家畜の世話や小麦を育てるのにあてるべき貴重な男手を大勢駆り出すのは民たちにとっては大きな痛手だろう。それでも彼らは数十年ぶりに水の戻ったイコン河を前に歓喜の涙を流し、砂と石ころだらけの地に跪いては口々にラハル神と慈雨の神子を褒め称え、そしてこの困難極まりない難工事に従事してくれている。
サイードはここよりも上流で同じ作業を指揮している部下のナスィーフからの報告を聞き、連日の重労働に疲れきった男たちに交代で食事をとらせ、徴用した馬たちの中で限界が近いものがいないか調べて回った。
「サイード様、どうか休憩を。食べなければとても身体がもちませぬ」
ダーヒル神殿領から帝都までの旅も共にしてきたアキークが言う。
「神子殿がお知りになられたら、悲しまれましょう」
そう言われてサイードの脳裏に黒髪の優しげな顔立ちをした少年の姿が浮かんだ。
以前、神殿領から帝都イスマーンを目指す旅の途中に大事に育てた馬に自らの手で止めを刺したサイードを、カイは悲しそうな顔をしてそっと見ていた。
元から口がうまくないサイードはそんなカイを上手く慰める言葉が浮かばず、結局最後まで何も言うことができなかった。
アキークの言葉に、そんなカイを思い出して密かに苦笑する。
「わかった。何かあったら呼べ」
「はっ」
サイードは堤から降りながらどこまでも続く荒野を見渡す。
徐々に水と緑が戻りつつあった帝都周辺とは異なり、この辺りはまだ乾いて凍てついた砂漠のままだ。
同じ砂漠の大陸でも地方によって様子はまったく異なる。ダーヒルの神殿領はサラサラと熱く柔らかな砂が広がっていたが、神殿領よりもずっと北方かつ内陸のこの地は小石が転がる固く冷たい礫砂漠だ。それでも水と太陽の光さえ戻ればきっと草木は育ち、馬も羊も山羊ももっともっと増えていくだろう。
(カイは元気だろうか)
冷たい風に髪をなぶられながら、サイードは帝都にいるカイを思う。
こんな風に遠征先で残してきた誰かのことを考えるのは初めてのことだ。
カイの顔が見たい。けれど今彼がこの冷たく凍てついた地よりはるか遠く、安全な場所にいることは喜ばしく思う。
例え自分がどこでどんな目にあっていようが、カイが暖かく腹も満ち足りて幸せにしているのならサイードはそれで満足だった。
サイードは荷駄の前に座り込んで言葉少なに種なしパンを齧っている一団に混じって腰を下ろす。すると遊牧民たちがよく着ている毛織の厚い袍を着た男たちが声を掛けてきた。
「将軍。この工事が終わればこの一帯は安全になりましょうか」
「ああ」
サイードは頷く。
「神子の力はこれよりますます強く、あまねく全土を潤していくだろう。そうすれば牧草も増え、馬も羊も飢えることなく仔を産み育っていくだろう」
「ああ、早くその日が来ますように」
頭を垂れて祈る男たちに、サイードは尋ねた。
「お前たちはこの辺りの者か」
「はい。もう少し南で山羊と羊を飼っております」
「今はどのくらいいる」
「そうですな……儂らのひいじいさまの頃はは二百を下りませんでしたが、今はどちらも両手ほどしかおりません。家族が食べていくのでやっとでございます」
「そうか」
サイードはお付きの従士が持ってきた熱い湯を飲んで身体を温める。そして喉を通り腹の中からじわじわと広がる熱の心地よさを味わう間もなくさらに問いかけた。
「この辺りでは真冬はどうしている。北の山脈から吹き下ろす風は相当強く、厳しいだろう」
すると一番年嵩の初老の男が髭をしごいて答える。
「左様にございますな。ナウルの月の頃の北風には馬でさえも飛ばされまする」
「我らのところでは幕屋を一つ開けてそこに家畜を囲っております」
「この時ばかりは数が少なくて助かりますな」
「確かに」
そう言って笑う男たちをサイードは無言で見つめた。
この男たちは皆、かつてのサイードと同じ羊や馬を追って生きる者たちだ。サイードが生まれたのはもっと南西の温かい土地だったが、彼らが自分たちの家畜の話をする時の顔は昔サイードがいつも見ていた父や叔父たちのものとそっくり同じだった。
「神子様のお陰で水が戻って、日さえ照れば……」
「きっと昔のようにこの地にも緑が戻る」
「山羊も羊にも、早く腹いっぱい食わせてやりたいのう」
「儂らの馬にもなぁ」
火を囲み刻み煙草を回しながらそう話す男たちの声に、サイードは子どもだった頃と同じように黙って耳を傾けた。
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その夜、作業の遅れが気になったサイードは松明を手に堤へと向かった。地元の遊牧民で同じ境遇の者たちのまとめ役をしている男が同じように灯りを掲げて川面を覗き込む。
「将軍、朝より水量が増えたような気がしませんか」
「ああ」
それに勢いも強い。
イコン河はアル・ハダール国内で南のアルハン大河につぐ規模だ。四か月ほど前にサイードがこの地へ来た時は川底から三分の一ほどの高さまで水が戻っており、ここ一か月ばかりはさらに半分まで水量が増えた。
だが今、松明の灯りに照らされた川面は堤の縁から見て2メルドもない。これではもし上流で大雨が降って水量が増えればすぐに堤は切れてしまうだろう。
「将軍、これは一体……」
と言いかけた男を、サイードは手を上げて押しとどめる。
(何か、音がする)
低く、重く、地を揺るがすような何かが近づいている。サイードは松明を掲げ暗闇の中で目を凝らし五感を研ぎ澄ました。
「将軍! あれを!」
突然、上流の方から飛沫を上げて黒く巨大なうねりが襲い掛かってくるのが見えた。
(あれは……波?)
「な、なんだあれは!?」
男が狼狽えたように叫ぶ。
「待て、動くな」
「うわぁあッツ!!」
耳を聾する音と突然の激しい増水に驚いた男が足を滑らせた。サイードはとっさにその腕を掴んで上半身をひねると、渾身の力で男を堤の上へ突き飛ばす。だがその拍子に足元の土が大きく崩れた。
「将軍! 将軍ッ!!」
ふわり、と身体が宙に投げ出される感覚とほぼ同時に、サイードは押し寄せる濁流に呑み込まれた。すぐに水を搔いて水面に顔を出そうとするが、流れが速すぎて思うように手足が動かない。
ものすごい勢いで下流へと流されながらも、なぜかサイードは自分がそこまで恐怖を感じていないことに気が付いた。
(なぜだろう、水が温かいせいか)
そう、おかしなことにサイードを飲み込んだ濁流は冷たくはなかった。アル・ハダールの北西の端を流れるイコン河は年中とても冷たいはずだ。
上下もわからぬ真っ黒なうねりの中で、やけに冷静な自分にサイードは驚く。
この激しい流れの中では無理に抵抗してもいたずらに体力と息を失うだけだ。サイードは意識して全身の力を抜くと、一か八か河の流れに身を任せた。
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