92 / 161
【第二部】東の国アル・ハダール
閑話 懐かしい温もり
意識を取り戻した時、サイードは自分がどこかの川岸に流れ着いたことに気づいた。
空を見上げればまだ夜のままだ。河に落ちた時はかなり夜も更けた頃だったが、今は一体何刻頃だろうか。
慎重に身体を起こしてみるが危惧していたような痛みや怪我はどこにもない。まさに不幸中の幸いか、とサイードは息をついた。
ぐっしょりと濡れた服を脱いできつく絞り、再び身に付ける。この一帯は日が暮れた途端に一気に気温が下がるはずだが、なぜかあまり寒さは感じなかった。普通なら寒い夜間に濡れた服など着ていれば一発で体温を持っていかれて下手をすれば死んでしまうだろう。
(これもカイの力だろうか……?)
以前サイードは同じようにずぶ濡れの姿で夜の道を歩いたことがある。それは《カルブの儀式》のためにアジャール山へ行った時のことだ。
神子の聖壇を目指す途中でエイレケの騎士に襲われ、サイードはカイとダルガートを先に行かせて敵と戦った。そして叩きつけるような雷雨の中、カイの後を追って山道を登ったのだ。
あの時の、本来ならありえない激しい雷雨と冷たい吹雪は、神子の聖壇に一人取り残されたカイの不安や恐怖を表しているようだった。
そして今、乾いて冷え切った礫砂漠であるはずのこの地で、サイードはイコン河の濁流に吞まれながらも怪我もせず、凍えもせず不安もなく歩いている。
(この夜の穏やかさがカイの心が満たされている証であればいいが)
そう思った時、ふと前方に何かが蹲っているのに気が付いた。
「……山羊の仔か」
それはまだ幼い山羊のこどもだった。こんな不毛の土地で野生の山羊が生きていけるとは思えない。きっとこの近くの遊牧民に飼われているのだろう。群れからはぐれてここで震えていたのに違いない。
「もう大丈夫だ」
そう声を掛けてサイードはその小さく温かな身体を抱き上げた。仔山羊はむずかるように細い手足をばたつかせたが、サイードが小さく口笛を吹くと力を抜いてくったりと身体を預けてきた。
昔、サイードがまだ子どもだった頃、群れからはぐれた山羊や羊を探して弟たちと草原を探し回ったことが何度もあった。そして無事見つけると妹のショールに包んで大事に連れ帰った。
遊牧民にとって山羊や羊は確かに家畜だが大事な家族でもある。まだ子どもだったサイードにとって、目を離すとすぐにはぐれてしまう山羊の仔は、手のかかるもう一人の弟のようなものだった。勝手気ままに駆けていっては迷子になって、こうしてサイードが迎えに来るのを待っている。そして甘えて頭を押し付けて鳴くのだ。
抱えた小さな山羊の仔の体温がサイードの腕や胸に伝わって来る。ふと、ダーヒルや帝都で何度も抱きしめたカイの温もりを思い出した。
(カイは幸せに暮らしているだろうか)
ヤハルやダルガートやカハル皇帝がついているのだ。身の安全にはさほど心配はしていない。だがカイは悩みや苦しみを一人で抱え込んでしまう癖がある。
彼の思慮深さや我慢強さは確かにカイの美点の一つだ。それでもサイードは、かつてカイが自分の負の感情が天候を荒らすと知って必死に泣きたい気持ちを押さえ込み、我慢ばかりしていた姿を思い出しては胸を痛めた。
(願わくは、もしもカイが何か思い悩むことがあったとしても、ダルガートがそれに気づいて上手く吐き出させてやってくれているといい)
それはどう逆立ちしても自分にはできないことだ。
サイードはかつて一族郎党すべてを失い、その仇を打つこともできずに砂漠を一人彷徨っていた時に、誰かを愛し慈しむ心を忘れてしまった。そして二度と同じ思いをしなくてもいいように、誰かに己の心を預けることをやめてしまった。
自分を拾ってくれたカハルに仕えるのは簡単だった。人として誠心誠意、二心なく相対すればいい。だがカイを愛し慈しむための方法は、それとは違う。
大人になってから誰かを愛したことなど一度もなかったサイードは、未だにどうすればカイを笑わせ幸せにしてやれるのかわからない。
できるのは敵から守り、戦うことだけだ。
そして自分には見えないものを見て、できないことをやってのけることができるダルガートの存在を心からありがたく思っていた。
その時、東の空が白み始めたと同時に小さな幕家の影を遠くに見つけた。恐らくこの山羊の飼い主だろう。
幕家に近づくにつれてほかの山羊や人影も見えてくる。牧草を求めて少しでも遠くへ放牧にいくために夜明け前から起きだして山羊の乳を搾っているのだ。
すでに向こうもサイードに気が付いていて、こちらに手を振っている。
「将軍!」
その声にサイードは驚いて瞬きをした。近寄ってきた老人の顔を見て思わず口角を上げる。
「驚くべき偶然だな、翁よ」
「ラハル神のお導きにございましょうか。サイード将軍」
それは数か月前にダーヒル神殿領から帝都へと旅した途中、サイードたちに一晩の宿や酒を与えてくれた老人だった。
彼はサイードの腕の中の仔山羊を見て顔をほころばせ、再び幕家に招いてくれた。
彼らはイコン河に水が戻ったと聞いて、一縷の望みを掛けて以前の場所よりさらに北へと移動してきたらしい。老人とその長男夫婦、次男の夫婦と子どもたちが全員天幕の外に出てきて久し振りの再会を口々に喜んだ。
そしてサイードに馬を一頭貸すことを承知し、その前に食事を摂るように薦めた。
サイードは火を囲み温めた山羊の乳を飲みながら、家畜を放牧に連れて行く年嵩の子どもと狩りに行く夫を見送る妻たちの声や思わぬ客にはしゃいで駆けまわる子どもたちの歓声に耳を傾ける。
(もしも一族がみな無事であったら、きっとおれもこんな暮らしをしていただろう)
夜明け前に起きて乳を搾り、馬を駆って羊を追い、大地に根を張り自然とともに生きる。毎日同じ日課を繰り返し、何百年も前から変わらぬ草原の民の生き方を。
ふと人の気配がして振り向くと、幼い兄妹がはにかみながらサイードの後ろに立っていた。
「どうかしたか」
そう尋ねると、兄の方がサイードの膝に先程の迷子の仔山羊を置いた。
「あのね、アマルを連れ帰ってくれてありがとう」
兄がそう言うと、その背中に隠れた妹も顔を真っ赤にして小さく頷く。
「アマルというのか、この山羊は」
「そう。ターラが名付けた。一緒に生まれた仔山羊は死んでしまったけど、この仔は元気だったから」
「そうか」
恐らくターラというのが後ろに隠れている妹の名だろう。サイードは《希望の光》と言う家畜につけるには少々立派すぎる名を持つ仔山羊の背を撫でて言った。
「アマルは運がいい。きっと大きく育ち、よく乳を出すようになるだろう」
「うん」
幼い兄妹は顔を見合わせて笑った。それを見てサイードは幼い自分の弟妹を思い出す。
サイードとはだいぶ年の離れていた弟と二人の妹は、いつでもサイードの後を付いて回っていた。そしてサイードが口笛ひとつで山羊や羊を呼び寄せ軽々と馬に跨るたびに手を叩いて喜んだ。
サイードが十六の時に、一族が大事に守り続けてきた土地を狙われ、皆殺された。
サイードは、冬を前に身ごもっていた母と幼い弟妹たちに少しでも多く食べさせてやりたくて一人で狩りに出ていて留守だった。そして戻ってきて見たのは、火を掛けられて跡形もなくなった天幕の残骸と無残に殺された一族の亡骸だった。
幼くして死んだ弟妹と今目の前にいる兄妹は、背格好がとてもよく似ていた。生きていればとっくに所帯を持って、まさにこの兄妹のような子を持っていたかもしれない。
サイードはつい握り締めてしまいそうな拳を意識して開き、眠る仔山羊の背をなでる。
何年もかけて一族を殺した仇を追ったが、見つけた時にはすでにイスタリアの兵によって処刑された後だった。それもこの目で死に目を確かめたわけではなく、人から聞いた話で知ったことだった。
一族の仇もとれず、敵の死を確かめることもできず、宙ぶらりんの心のままサイードは砂漠を彷徨い、そしてカハルに拾われた。
今でも時々、夢に見ることがある。
本当に一族の仇は死んだのだろうか。
イスタリアによって処刑されたという一味が、本当に一族の仇だったのだろうか。
それを確かめる術はすでにない。他の人々にとってはよくある話でとっくに終わった事件だ。それでもサイードは、答えは出ないとわかっていながら時々そんな疑いを抱く。
その時、膝の上の仔山羊が目覚めて頭を上げた。サイードはその仔を兄妹に返して立ち上がる。
「行かれますか、将軍」
「ああ、世話になった」
そして老人が連れてきた馬の手綱を受け取った。
「できるだけ早く返しに来る」
「お気をつけて、ラハルのご加護を」
だがその時、やや離れた場所から女の悲鳴と何かが崩れるような音が聞こえてきた。
「何事じゃ、一体」
驚く老人をよそにサイードが駆けつけると、三つある幕家の一つが大きく傾いて倒れていた。
「急に支柱が折れて……中に子どもが……!」
「ここで待っていろ」
サイードは慌てふためいて倒れた幕家の壁を掻きむしる女を抑えて入口を探し、力任せに垂木を持ち上げ中に入った。
遊牧民が住む幕家は中央に立てた柱と周りを囲う格子状の木の壁とを何本もの垂木で繋ぎ、毛織の厚い布を幾重にも巻きつけて建てる。圧し掛かる垂木を肩で押し上げ目を凝らすと、壁側に積み上げた布団と長持の影になるところに赤ん坊が木の箱に入れて寝かされているのが見えた。
倒れてきた屋根は長持に支えられ、ちょうど空間ができている。赤子は自分の危機も知らず無邪気に自分の丸めた拳を舐めてくうくう声を出していた。
自分の身体を盾にして垂木を持ち上げその子を抱き上げると、急いで幕家から這い出る。するともう一人の女に肩を抱えられたさきほどの女が涙を流して駆け寄った。
「ああ……! ありがとうございます! ありがとうございます!」
「良かった、良かったわ、義姉様……!」
おそらく老人の長男と次男の妻たちだろう。二人の女が赤子を抱いて、泣きながらサイードに礼を述べた。
「重ね重ね……まことに感謝申し上げます、将軍」
老人もやや不自由な足で駆けつけ、頭を下げる。
「いや、無事でよかった」
そう答えると、サイードはひしゃげた入口から中を覗き込んで言った。
「翁よ、支柱の代わりはあるのか」
「あちらに予備のものが。この幕家は古く、次に土地を移る時は支柱も垂木も取り替えねば、と息子たちとも話しておったのです」
「そうか」
さきほどの幼い兄妹も心配そうに母親の後ろから倒れた幕家を見上げている。
この家の男手である老人の長男と次男、そして彼らの年嵩の息子たちはみな放牧や狩りのためにすでに幕家を出た後だ。
「垂木と屋根だけでも先に降ろそう」
そうすれば中の荷物が外に出せるし、夫たちが戻り次第新しい支柱を使ってもう一度幕家を建てられる。
「お急ぎではないのですか、将軍」
もちろん、イコン河の上流では河に落ちたサイードの安否をみなが心配しているだろう。それでもこれを放っていくことはできない。すまなそうに謝る老人に首を振って、サイードは立ち上がった。
「ナイフを貸してくれ。自分のは河でなくしてしまったから」
「それではこちらを」
サイードは受け取ったナイフを腰に差し老人や女子どもを下がらせると、分厚い毛織の布を垂木に縛りつけている縄の結び目を丁寧に解き始めた。
空を見上げればまだ夜のままだ。河に落ちた時はかなり夜も更けた頃だったが、今は一体何刻頃だろうか。
慎重に身体を起こしてみるが危惧していたような痛みや怪我はどこにもない。まさに不幸中の幸いか、とサイードは息をついた。
ぐっしょりと濡れた服を脱いできつく絞り、再び身に付ける。この一帯は日が暮れた途端に一気に気温が下がるはずだが、なぜかあまり寒さは感じなかった。普通なら寒い夜間に濡れた服など着ていれば一発で体温を持っていかれて下手をすれば死んでしまうだろう。
(これもカイの力だろうか……?)
以前サイードは同じようにずぶ濡れの姿で夜の道を歩いたことがある。それは《カルブの儀式》のためにアジャール山へ行った時のことだ。
神子の聖壇を目指す途中でエイレケの騎士に襲われ、サイードはカイとダルガートを先に行かせて敵と戦った。そして叩きつけるような雷雨の中、カイの後を追って山道を登ったのだ。
あの時の、本来ならありえない激しい雷雨と冷たい吹雪は、神子の聖壇に一人取り残されたカイの不安や恐怖を表しているようだった。
そして今、乾いて冷え切った礫砂漠であるはずのこの地で、サイードはイコン河の濁流に吞まれながらも怪我もせず、凍えもせず不安もなく歩いている。
(この夜の穏やかさがカイの心が満たされている証であればいいが)
そう思った時、ふと前方に何かが蹲っているのに気が付いた。
「……山羊の仔か」
それはまだ幼い山羊のこどもだった。こんな不毛の土地で野生の山羊が生きていけるとは思えない。きっとこの近くの遊牧民に飼われているのだろう。群れからはぐれてここで震えていたのに違いない。
「もう大丈夫だ」
そう声を掛けてサイードはその小さく温かな身体を抱き上げた。仔山羊はむずかるように細い手足をばたつかせたが、サイードが小さく口笛を吹くと力を抜いてくったりと身体を預けてきた。
昔、サイードがまだ子どもだった頃、群れからはぐれた山羊や羊を探して弟たちと草原を探し回ったことが何度もあった。そして無事見つけると妹のショールに包んで大事に連れ帰った。
遊牧民にとって山羊や羊は確かに家畜だが大事な家族でもある。まだ子どもだったサイードにとって、目を離すとすぐにはぐれてしまう山羊の仔は、手のかかるもう一人の弟のようなものだった。勝手気ままに駆けていっては迷子になって、こうしてサイードが迎えに来るのを待っている。そして甘えて頭を押し付けて鳴くのだ。
抱えた小さな山羊の仔の体温がサイードの腕や胸に伝わって来る。ふと、ダーヒルや帝都で何度も抱きしめたカイの温もりを思い出した。
(カイは幸せに暮らしているだろうか)
ヤハルやダルガートやカハル皇帝がついているのだ。身の安全にはさほど心配はしていない。だがカイは悩みや苦しみを一人で抱え込んでしまう癖がある。
彼の思慮深さや我慢強さは確かにカイの美点の一つだ。それでもサイードは、かつてカイが自分の負の感情が天候を荒らすと知って必死に泣きたい気持ちを押さえ込み、我慢ばかりしていた姿を思い出しては胸を痛めた。
(願わくは、もしもカイが何か思い悩むことがあったとしても、ダルガートがそれに気づいて上手く吐き出させてやってくれているといい)
それはどう逆立ちしても自分にはできないことだ。
サイードはかつて一族郎党すべてを失い、その仇を打つこともできずに砂漠を一人彷徨っていた時に、誰かを愛し慈しむ心を忘れてしまった。そして二度と同じ思いをしなくてもいいように、誰かに己の心を預けることをやめてしまった。
自分を拾ってくれたカハルに仕えるのは簡単だった。人として誠心誠意、二心なく相対すればいい。だがカイを愛し慈しむための方法は、それとは違う。
大人になってから誰かを愛したことなど一度もなかったサイードは、未だにどうすればカイを笑わせ幸せにしてやれるのかわからない。
できるのは敵から守り、戦うことだけだ。
そして自分には見えないものを見て、できないことをやってのけることができるダルガートの存在を心からありがたく思っていた。
その時、東の空が白み始めたと同時に小さな幕家の影を遠くに見つけた。恐らくこの山羊の飼い主だろう。
幕家に近づくにつれてほかの山羊や人影も見えてくる。牧草を求めて少しでも遠くへ放牧にいくために夜明け前から起きだして山羊の乳を搾っているのだ。
すでに向こうもサイードに気が付いていて、こちらに手を振っている。
「将軍!」
その声にサイードは驚いて瞬きをした。近寄ってきた老人の顔を見て思わず口角を上げる。
「驚くべき偶然だな、翁よ」
「ラハル神のお導きにございましょうか。サイード将軍」
それは数か月前にダーヒル神殿領から帝都へと旅した途中、サイードたちに一晩の宿や酒を与えてくれた老人だった。
彼はサイードの腕の中の仔山羊を見て顔をほころばせ、再び幕家に招いてくれた。
彼らはイコン河に水が戻ったと聞いて、一縷の望みを掛けて以前の場所よりさらに北へと移動してきたらしい。老人とその長男夫婦、次男の夫婦と子どもたちが全員天幕の外に出てきて久し振りの再会を口々に喜んだ。
そしてサイードに馬を一頭貸すことを承知し、その前に食事を摂るように薦めた。
サイードは火を囲み温めた山羊の乳を飲みながら、家畜を放牧に連れて行く年嵩の子どもと狩りに行く夫を見送る妻たちの声や思わぬ客にはしゃいで駆けまわる子どもたちの歓声に耳を傾ける。
(もしも一族がみな無事であったら、きっとおれもこんな暮らしをしていただろう)
夜明け前に起きて乳を搾り、馬を駆って羊を追い、大地に根を張り自然とともに生きる。毎日同じ日課を繰り返し、何百年も前から変わらぬ草原の民の生き方を。
ふと人の気配がして振り向くと、幼い兄妹がはにかみながらサイードの後ろに立っていた。
「どうかしたか」
そう尋ねると、兄の方がサイードの膝に先程の迷子の仔山羊を置いた。
「あのね、アマルを連れ帰ってくれてありがとう」
兄がそう言うと、その背中に隠れた妹も顔を真っ赤にして小さく頷く。
「アマルというのか、この山羊は」
「そう。ターラが名付けた。一緒に生まれた仔山羊は死んでしまったけど、この仔は元気だったから」
「そうか」
恐らくターラというのが後ろに隠れている妹の名だろう。サイードは《希望の光》と言う家畜につけるには少々立派すぎる名を持つ仔山羊の背を撫でて言った。
「アマルは運がいい。きっと大きく育ち、よく乳を出すようになるだろう」
「うん」
幼い兄妹は顔を見合わせて笑った。それを見てサイードは幼い自分の弟妹を思い出す。
サイードとはだいぶ年の離れていた弟と二人の妹は、いつでもサイードの後を付いて回っていた。そしてサイードが口笛ひとつで山羊や羊を呼び寄せ軽々と馬に跨るたびに手を叩いて喜んだ。
サイードが十六の時に、一族が大事に守り続けてきた土地を狙われ、皆殺された。
サイードは、冬を前に身ごもっていた母と幼い弟妹たちに少しでも多く食べさせてやりたくて一人で狩りに出ていて留守だった。そして戻ってきて見たのは、火を掛けられて跡形もなくなった天幕の残骸と無残に殺された一族の亡骸だった。
幼くして死んだ弟妹と今目の前にいる兄妹は、背格好がとてもよく似ていた。生きていればとっくに所帯を持って、まさにこの兄妹のような子を持っていたかもしれない。
サイードはつい握り締めてしまいそうな拳を意識して開き、眠る仔山羊の背をなでる。
何年もかけて一族を殺した仇を追ったが、見つけた時にはすでにイスタリアの兵によって処刑された後だった。それもこの目で死に目を確かめたわけではなく、人から聞いた話で知ったことだった。
一族の仇もとれず、敵の死を確かめることもできず、宙ぶらりんの心のままサイードは砂漠を彷徨い、そしてカハルに拾われた。
今でも時々、夢に見ることがある。
本当に一族の仇は死んだのだろうか。
イスタリアによって処刑されたという一味が、本当に一族の仇だったのだろうか。
それを確かめる術はすでにない。他の人々にとってはよくある話でとっくに終わった事件だ。それでもサイードは、答えは出ないとわかっていながら時々そんな疑いを抱く。
その時、膝の上の仔山羊が目覚めて頭を上げた。サイードはその仔を兄妹に返して立ち上がる。
「行かれますか、将軍」
「ああ、世話になった」
そして老人が連れてきた馬の手綱を受け取った。
「できるだけ早く返しに来る」
「お気をつけて、ラハルのご加護を」
だがその時、やや離れた場所から女の悲鳴と何かが崩れるような音が聞こえてきた。
「何事じゃ、一体」
驚く老人をよそにサイードが駆けつけると、三つある幕家の一つが大きく傾いて倒れていた。
「急に支柱が折れて……中に子どもが……!」
「ここで待っていろ」
サイードは慌てふためいて倒れた幕家の壁を掻きむしる女を抑えて入口を探し、力任せに垂木を持ち上げ中に入った。
遊牧民が住む幕家は中央に立てた柱と周りを囲う格子状の木の壁とを何本もの垂木で繋ぎ、毛織の厚い布を幾重にも巻きつけて建てる。圧し掛かる垂木を肩で押し上げ目を凝らすと、壁側に積み上げた布団と長持の影になるところに赤ん坊が木の箱に入れて寝かされているのが見えた。
倒れてきた屋根は長持に支えられ、ちょうど空間ができている。赤子は自分の危機も知らず無邪気に自分の丸めた拳を舐めてくうくう声を出していた。
自分の身体を盾にして垂木を持ち上げその子を抱き上げると、急いで幕家から這い出る。するともう一人の女に肩を抱えられたさきほどの女が涙を流して駆け寄った。
「ああ……! ありがとうございます! ありがとうございます!」
「良かった、良かったわ、義姉様……!」
おそらく老人の長男と次男の妻たちだろう。二人の女が赤子を抱いて、泣きながらサイードに礼を述べた。
「重ね重ね……まことに感謝申し上げます、将軍」
老人もやや不自由な足で駆けつけ、頭を下げる。
「いや、無事でよかった」
そう答えると、サイードはひしゃげた入口から中を覗き込んで言った。
「翁よ、支柱の代わりはあるのか」
「あちらに予備のものが。この幕家は古く、次に土地を移る時は支柱も垂木も取り替えねば、と息子たちとも話しておったのです」
「そうか」
さきほどの幼い兄妹も心配そうに母親の後ろから倒れた幕家を見上げている。
この家の男手である老人の長男と次男、そして彼らの年嵩の息子たちはみな放牧や狩りのためにすでに幕家を出た後だ。
「垂木と屋根だけでも先に降ろそう」
そうすれば中の荷物が外に出せるし、夫たちが戻り次第新しい支柱を使ってもう一度幕家を建てられる。
「お急ぎではないのですか、将軍」
もちろん、イコン河の上流では河に落ちたサイードの安否をみなが心配しているだろう。それでもこれを放っていくことはできない。すまなそうに謝る老人に首を振って、サイードは立ち上がった。
「ナイフを貸してくれ。自分のは河でなくしてしまったから」
「それではこちらを」
サイードは受け取ったナイフを腰に差し老人や女子どもを下がらせると、分厚い毛織の布を垂木に縛りつけている縄の結び目を丁寧に解き始めた。
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
悪役令息を引き継いだら、愛が重めの婚約者が付いてきました
ぽんちゃん
BL
双子が忌み嫌われる国で生まれたアデル・グランデは、辺鄙な田舎でひっそりと暮らしていた。
そして、双子の兄――アダムは、格上の公爵子息と婚約中。
この婚約が白紙になれば、公爵家と共同事業を始めたグランデ侯爵家はおしまいである。
だが、アダムは自身のメイドと愛を育んでいた。
そこでアダムから、人生を入れ替えないかと持ちかけられることに。
両親にも会いたいアデルは、アダム・グランデとして生きていくことを決めた。
しかし、約束の日に会ったアダムは、体はバキバキに鍛えており、肌はこんがりと日に焼けていた。
幼少期は瓜二つだったが、ベッドで生活していた色白で病弱なアデルとは、あまり似ていなかったのだ。
そのため、化粧でなんとか誤魔化したアデルは、アダムになりきり、両親のために王都へ向かった。
アダムとして平和に暮らしたいアデルだが、婚約者のヴィンセントは塩対応。
初めてのデート(アデルにとって)では、いきなり店前に置き去りにされてしまい――!?
同性婚が可能な世界です。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
※ 感想欄はネタバレを含みますので、お気をつけください‼︎(><)
処刑される悪役令息に転生したらなぜか推しの騎士団長がグイグイ近づいてくる
猫に小判
BL
交通事故で死んだはずの会社員・田中悠人は、気がつくとBL小説『恋と陰謀~はじまりは夜に~』の世界に転生していた。
しかも転生先は、原作で処刑される悪役令息エリオット。
当然そんな未来は回避したい。
原作知識を頼りに慎重に立ち回るつもりだったのに、気づけば王宮を揺るがす事件に巻き込まれていき――。
さらに困ったことに、原作で一番の推しだった騎士団長ガイウスがやたらと距離を詰めてきて……?
平穏に生きたい元悪役令息と、過保護な騎士団長がじれじれ距離を縮める話。
ガイウス(騎士団長)×エリオット(元悪役令息)
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
悪役神官の俺が騎士団長に囚われるまで
二三@冷酷公爵発売中
BL
国教会の主教であるイヴォンは、ここが前世のBLゲームの世界だと気づいた。ゲームの内容は、浄化の力を持つ主人公が騎士団と共に国を旅し、魔物討伐をしながら攻略対象者と愛を深めていくというもの。自分は悪役神官であり、主人公が誰とも結ばれないノーマルルートを辿る場合に限り、破滅の道を逃れられる。そのためイヴォンは旅に同行し、主人公の恋路の邪魔を画策をする。以前からイヴォンを嫌っている団長も攻略対象者であり、気が進まないものの団長とも関わっていくうちに…。
有能すぎる親友の隣が辛いので、平凡男爵令息の僕は消えたいと思います
緑虫
BL
第三王子の十歳の生誕パーティーで、王子に気に入られないようお城の花園に避難した、貧乏男爵令息のルカ・グリューベル。
知り合った宮廷庭師から、『ネムリバナ』という水に浮かべるとよく寝られる香りを放つ花びらをもらう。
花園からの帰り道、噴水で泣いている少年に遭遇。目の下に酷いクマのある少年を慰めたルカは、もらったばかりの花びらを男の子に渡して立ち去った。
十二歳になり、ルカは寄宿学校に入学する。
寮の同室になった子は、まさかのその時の男の子、アルフレート(アリ)・ユーネル侯爵令息だった。
見目麗しく文武両道のアリ。だが二年前と変わらず睡眠障害を抱えていて、目の下のクマは健在。
宮廷庭師と親交を続けていたルカには、『ネムリバナ』を第三王子の為に学校の温室で育てる役割を与えられていた。アリは花びらを王子の元まで運ぶ役目を負っている。育てる見返りに少量の花びらを入手できるようになったルカは、早速アリに使ってみることに。
やがて問題なく眠れるようになったアリはめきめきと頭角を表し、しがない男爵令息にすぎない平凡なルカには手の届かない存在になっていく。
次第にアリに対する恋心に気づくルカ。だが、男の自分はアリとは不釣り合いだと、卒業を機に離れることを決意する。
アリを見ない為に地方に移ったルカ。実はここは、アリの叔父が経営する領地。そこでたった半年の間に朗らかで輝いていたアリの変わり果てた姿を見てしまい――。
ハイスペ不眠攻めxお人好し平凡受けのファンタジーBLです。ハピエン。