月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

閑話 ヤハルの心配

――――『慈雨の神子』がお倒れになった。

 それはあっという間に川岸の駐屯地に知れ渡り、ヤハルは朝からあちこちで騎士や堤の普請のために集められた民たちから神子の様子を尋ねられた。

「神子殿は夜半に熱を出されて、天幕にて伏せっておられます。いえ、食事はとっておられません。今はとにかくお休みいただくのが第一かと」

 心配する皇帝ハリファカハルにヤハルはそう答えた。

「疲れが溜まっておったのかのう。ただでさえ慣れぬ辺境の地で気疲れしたのかもしれぬ」

 そう言うカハルに領主のラムナガルは腕を組んで唸り声を上げた。

「陛下。このような場所では手当ても行き届きませぬ。荷馬車に厚い敷物など敷いてシャルラガンにお連れした方がよいのでは」
「しかし道が悪いからのう。いっそ輿を仕立てて誰ぞに担がせるか」

 するとカハルの後ろに立つダルガートが珍しく口を挟んだ。

「恐れながら、熱があられるうちは下手に動かさぬ方がよろしいかと」
「ううむ、そうか。確かに病の者に揺れはよくない。これ以上弱らせてもいかぬ。そうだ、サイードはどうしたのだ」

 皇帝ハリファの問にヤハルは急いで答える。

「はっ、私に神子殿の世話をお命じになり、ご自分は工事の遅れが著しい上流の河岸へと向かわれました」
「こんな時でも真面目な男じゃのう」
 
 呆れたようにカハルが言った。ヤハルから見ても、いかにもサイードらしいとは思う。
 常に神子に付き従っている主騎のヤハルは、カハル以上にサイードと神子の仲の良さを知っている。サイードは誠心誠意心を砕いて神子を守り、神子もサイードを信頼して慕っているのは傍目にもよくわかった。
 サイードとて病に伏せた神子が心配だろう。それでも自分が行方知れずになっていた間にさらに堤の修復作業が遅れてしまったことに責任を感じているに違いない。

(まこと、サイード様らしいことだ)

 常に公のことを優先するサイードを歯がゆく感じなくもないが、今は精一杯神子のために自分ができることをやるべきだ。

「こんなことならウルドを連れてきた方が良かったな」

 カハルの元を辞して足早に神子の天幕に戻りながら、ヤハルは一人ごちた。


     ◇   ◇   ◇


 神子が熱を出したのは、サイードと二人で川岸に張られた陣に戻ってきた日の晩だった。何せ急なことで天幕の余りもなく、神子はサイードの元で一緒に休むことになり、ヤハルはサイードの天幕の前で夜番についていた。
 ところが夜半に突然サイードが天幕から出てきて医師を呼ぶように言ったのだ。

 カハルは神子が少しでも楽に過ごせるように、と自らのために用意されていた天幕を明け渡し、領主ラムナガルは厚くあたたかな毛布や香りのよい茶や乾いた薪をかき集めてはサイードと神子の元へ届けさせた。
 しかし朝になり昼が過ぎて、まもなく日が暮れようとしている今も神子の熱は下がらず、意識もないままだった。

 ヤハルは医師に言われて集めた水や綺麗な手拭いや、そのほか大勢の者から持たされた食べ物や茶葉や小さな野の花などを抱えて大急ぎで天幕へと戻る。すると代わりに外の警護に立っていたアキークがヤハルを見て目くばせをした。

「急げ、ヤハル。サイード様が戻られた」
「ああ、それは良かった」

 思わずホッとしてヤハルは息を吐きだす。
 夜間の冷気を遮るために二重になっている天幕の外側の幕を潜り、内側の天幕の前でそっと声を掛けた。

「サイード様。ヤハルにございます」

 だが答えはない。気配を窺いつつ、ヤハルはそっと幕布の隙間から中を覗いた。
 一事が万事気取らぬカハルの天幕は、一国の皇帝のものにしては随分と小さくて簡素だ。それでも今は神子のために火櫃が二つも置かれ、寝台にも衝立にも厚い毛織の布が幾重にも重ねられている。そして昏々と眠る神子を抱きかかえるようにして、サイードが枕元に腰掛けていた。

 元々抜けるように白かった神子の顔には血の気はなく、熱があるという医師の言葉とは裏腹にひどく冷え切っているように見える。そして意識の戻らぬ神子を、サイードは懐に抱いてじっと見下ろしていた。

 サイードという人は昔から自分自身に厳しいのと同じように、部下にも決して甘くはなかった。とはいえ彼は声高に何かを命じたり叱責したりはしない。
 いつも静かで厳しく、甘えや緩みの欠片もないサイードの凛とした姿に第三騎兵団の者たちはみな憧れている。だからこそ、非の打ち所がない彼に弱さや醜態を晒すことを密かに恐れてもいた。ヤハルもその中の一人だった。

 けれどサイードは神子に出会って随分と変わった、とヤハルは思う。表情も雰囲気も柔らかく、そして明るくなった。
 神子の《イシュク》として選ばれ、その重責に十二分に応えるように神子を守り、慈しみ、彼を支えようとする姿はまさに騎士の鏡のようだ。
 けれど今、眠る神子を見つめるサイードの顔はいつも以上に静かで、ヤハルはひどく胸が塞がれる思いがした。

 ふとサイードが手を上げ、真っ白な神子の額に落ちかかる黒髪をそっと掻き上げる。ぐったりと全身をサイードに預けた神子の唇から漏れる呼吸は浅く途切れがちで、サイードに握り込まれた手はひどく小さく頼りなげに見えた。

(サイード様もお気の毒に)

 もちろん一番辛く苦しい思いをしているのは神子だとわかっている。それでもヤハルは、高等学校マドラーサを出て初めて騎兵団に仕官して以来ずっと憧れ目標としていたサイードが今どれほど神子を案じて心を痛めているかと思うと、たまらない気持ちになった。

 サイードの腕に抱かれたまま、神子は一向に目を覚ます気配を見せず、顔色も良くならない。
 強く、揺るがず、誰にも公明正大で、だからこそ近寄りがたく誰も近づけさせなかったサイードが唯一大事に大事に守ってきた相手だ。その彼がこんなにも熱で弱り、苦しんでいるのに助けることが出来ない、ということは、サイードのような男には何よりも辛いことなのではないだろうか。

 ヤハルは天幕の外で跪いたまま、神に祈る。

(偉大なるラハルよ。どうか貴方の神子とその《イシュク》をお守り下さい)

 天幕の外から、ようやく今日の作業が終わり夕飯の支度をする男たちのざわめきが聞こえてくる。だがこの天幕の中だけは、まるで外界から切り離されたように静かだった。
 サイードが腕の中の神子の額にそっと口づける。なんとなく見てはいけないものを見てしまった気分でヤハルは慌てて身を引こうとした時、まるで奇跡が起きたかのように神子がうっすらと目を開いた。

「…………サ、……イード、……さ……」
「声を出すな、カイ」

 擦れきった声で名を呼ぶ神子を、サイードが静かに制止する。けれど神子はサイードを見上げながら震える声を漏らした。

「サイ、……ド、さ……ん、いかな、……で……」

 まるで何かにひどく怯えたような神子の声が、ヤハルを落ち着かなくさせる。

「おねが……、いか……いで、はなれ、いで……」
「大丈夫だ。ここにいる」
「……ごめ、……さい、ごめんな……い……」

 神子が必死に何かを謝っている。だがヤハルにはなぜ神子がサイードにそんなことを言うのかまるでわからない。そしてそれはサイードも同じようだった。

「カイが謝るようなことは何もない。詫びねばならないのは私だ。このような遠い場所まで来てくれたのに、カイをこのような目に合わせてしまった」
「……ちが……、ちがう……、ぼく、……サイ……ド、さ……ん……」
「泣かなくていい、カイ」

 サイードが神子を抱き寄せる。けれど神子にはそれに応える力もないようだった。

 カイ、という名の神子は見た目は頼りなげな線の細い少年だが、その秘めた力はヤハルなどには考えも及ばぬほどだ。
 東の辺境では神官たちの言葉の偽りを見抜き、あの乾いた土地に水を呼びよせあまつさえ恵みの雨さえ降らせてみせたのをヤハルは初めて目の当たりにした。
 そしてこの地でも、神子は慌てふためく自分たちを尻目にサイードの無事を予言し、あのような荒涼たる地で本当に彼を探し当てた。

 まさに神に与えられた偉大なる力を持っていながら、何をそんなに怯え、謝っているのかヤハルにはまるでわからない。だが神の恩寵たる神子を自分ごときが理解できないのは当然のことなのだろう。 

 強く大きくて逞しいサイードと、まだ少年のように細く小柄な神子の姿はまるで一対の絵のように対称的だ。一瞬ヤハルは我を忘れて彼らに目を奪われる。
 白磁のような神子の肌にサイードの南西の部族特有の褐色の肌が重なった。

(類まれなき『慈雨の神子』と、彼に選ばれた守護者イシュク……か)

 サイードが、短いけれど力強い言葉と肩や背中を撫でる手、そして繰り返し何度も落とす口づけとで神子を慰めるのを聞きながら、ヤハルは天幕の影にじっと控え続けた。
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