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【第二部】東の国アル・ハダール

107 目覚め

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 どうやらそこは薄暗い天幕の中のようだった。寝台の回りには幾重にも布が重ねられた衝立が立てられていて、自分の身体にも温かい毛布が何枚も掛けられている。後ろからサイードさんに守られるように抱きしめられていて、まるで心地よい繭の中にいるようだった。

「……サイードさん」

 カラカラに干からびた喉を水が通って、ようやく擦れた声が出るようになる。その時、天幕越しにまた低く籠ったようなざわめきを聞いた。

 寒い。熱い。変な感じだ。まるで自分の身体が自分のものではないみたいに上手くコントロールできない。
 頭の中はずっといろいろな考えやよくわからない言葉がぐるぐると回転しっぱなしで沸騰しそうなほど熱いのに、手足は凍えて強張り、毛布やサイードさんに触れている感覚さえなかった。

 僕は細い細い息を吐きだして再び目を閉じ、天幕の向こうに耳を澄ます。
 深いプールの底で聞くような、どこか遠くぼんやりと響く外の声、音、気配。

――――まさかイコン河がこのように……
――――一体どうすれば……
――――おお、神よ……! どうか……

 焦り、恐怖、不安に懇願、そして祈り。
 僕は目を開けて、なんとか起き上がろうと息を詰める。

「……ぼく、いかなきゃ」
「カイ」

 サイードさんの目が「まだ動いてはいけない」と僕を止めた。

 以前ヤハルに聞いたのだけれど、サイードさんは普段は全然笑ったりしない人らしい。
 常に厳しく緩むことのない男らしい美貌は、見る人によっては気圧されてしまって近寄りがたく感じてしまうのだと聞いて、初めはすぐには信じられなかった。だってサイードさんはいつも穏やかでとても凛々しいけれどふとした時に見せてくれる微笑みがとても素敵だという印象しかなくて、ヤハルの話はとても意外だったからだ。
 でも今、何も言わなくても皆を従わせることができる力を持っていそうなサイードさんの視線をまともに浴びて、やっとその意味を理解した。

 それでも僕は熱でかすむ目でサイードさんに訴える。どうしても声が出なくてきちんと説明はできなかったけれど、結局サイードさんは僕の気持ちを理解して、折れてくれた。
 サイードさんは珍しくため息をつくと、自分で起き上がることもできない僕を抱き上げて寝台から降りる。するとその気配を察したのか、天幕の入口が外から開けられて跪いていたヤハルが僕たちを見上げた。
 僕がヤハルになんとか微笑んで見せると、ヤハルは一瞬苦しそうに眉を顰めながらもすぐに唇を引き結び、立ち上がる。そして僕を抱いて天幕を出るサイードさんの後からついてきてくれた。

「おお……、神子様!」
「将軍! 神子様も……!」
「神子様がお目覚めになられた!」

 天幕から現れた僕たちを見て周りの人たちが一斉に声を上げる。でもサイードさんの顔を見て皆、駆け寄ろうとした足をピタリと止めた。
 重く、不安に満ちた不穏な空気をひしひしと感じる。自然と道を開ける人たちの間をサイードさんは歩き始めた。
 やがて東西に延々と伸びる小高い丘が見えてくる。それはサイードさん率いる第三騎兵団の人たちや地方一帯からかき集められた大勢の人たちが何か月も掛けて修復した、イコン河の堤だった。

 視界の隅にカハル皇帝の姿が見える。陛下は僕とサイードさんを見つけると、すぐに後ろを向いて誰かを呼んだ。
 サイードさんが瓦礫の混じる堤を登り始める。随分と足元も悪く、僕というお荷物を抱いているのにも関わらず、サイードさんの足取りはまるで危なげがなかった。けれど万が一を考えて来てくれたのだろう。堤の上にたどり着いた時、いつの間にかサイードさんのすぐ後ろにダルガートが来ていたことに僕は気づいた。
 冷たい風と耳を聾するばかりの激しい音が僕を襲う。
 そして僕は初めてイコン河の全貌を見下ろした。

 本当に、これが半年前までほとんど枯れかけていたという河なのだろうか。 
 今、茶色く濁った水面は荒々しく飛沫をあげ、轟轟と音をたてて流れている。向こう岸まではかなり遠く、アル・ハダールでも一、二を争うイコン河の巨大さがひと目で見てとれた。
 こんな大きな河がこれほどまでに荒れ狂っていては、皆が不安にかられ恐れを抱くのも当然のことだ。
 僕は熱でくらくらする頭を傾けてサイードさんを見上げる。するとサイードさんは細心の注意を払うかのようにそっと僕を地面に下ろしてくれた。上手く動かせない身体でなんとか立とうとすると、力強い四本の腕がすかさず僕を支えてくれる。

「……ここにいてね」
「もちろんだ」
「言われるまでもなく」

 当たり前だと言わんばかりの返事がとても嬉しい。そしてようやく三人揃ったんだ、という思いがこみ上げてくる。
 左の腕をサイードさんが、右の腕をダルガートが支えていてくれる。そうして僕はいわば自分自身が引き起こした災厄の種を見下ろした。

 巨大な水の流れがあちこち詰まってめちゃくちゃに暴れている。
 荒れ狂うイコン河は今の僕とそっくりだ。僕の中でも今まさに、大きすぎる力がきちんと流れずに行き場をなくして頭の中にどんどん溜まっていっているようだ。
 そう思った途端、僕は自分の身体の不調の理由を理解した。

 今起きている全ての原因は各地の神殿にあるあの不思議な球体だ。

 初めはサイードさんたちと行ったオアシスの小さな聖廟だった。その中に置かれた丸い球を見た後に、僕は突然あのオアシスに水を呼び戻すことができると気がついた。

 次の東の国境の神殿では微妙にずれていた球体を動かしてあのジャイロスコープのようなものを合わせた途端、何かがピタリと嵌ったような感覚に襲われた。そして井戸や地下水路の水量を増やすだけでなく雨を降らせることさえできた。
 帝都に戻ってからもどんどんエネルギーが湧いてきて、剣や馬の訓練がやたらと捗ったりもした。

 そして今度はシャルラガンの神殿であの不思議な球体を動かした。結果、あの球体は正常に起動し神子の力は確かにこのイコン河に届いた。

 ここまできてようやくはっきりした。
 この大陸には神子の力をあまねく行き渡らせるためのネットワークのようなものがあって、各地に散らばる神殿の球体はそのための基地局のようなものだ。球体のスイッチが正しく入っていて初めて神子の力はその地に正しく行き渡る。

 恐らく、三代前の神子だった彼女がイスタリアの地を巡って神の御業をあちこちで示した、というのは、なんらかの方法で今僕がやっているような球体のメンテナンスを各地で行った結果なのだろう。多分他の神子たちも同じようなことをやっていたはずだ。
 けれど今まで一度も『慈雨の神子』を得られなかった東の国では、長い時の間に少しずつ球体がずれたり状態が悪くなっていたりして、そのせいで神子の降臨後も帝都のように順調に水量が回復している場所もあれば、東の辺境のようにひどい渇水が続いていたところがあったりと、水の戻り具合に地域差ができてしまっていたのだ。

 僕があちこちの神殿を巡って球体を動かして、神子の力はようやく上手くこのアル・ハダールの各地に流れ始めた。けれどその仕組みをきちんと理解する前に球体を起動してしまったせいで一気に流れ出した力が暴走し、暴れまわっている。その結果がこの氾濫直前のイコン河と僕の身体の不調なのだ。

 つまり、このアル・ハダールを豊かな土地に戻すための神子の力はすでに充分すぎるほど満ちていて、後はその力の流れを整えて循環させればいいだけなのだ。
 そう結論づけた途端、僕の頭は一気にクリアになってすべてに納得がいく。

 大丈夫。できる。
 僕は大きく息を吐きだして肺を空っぽにすると、この凍てついた辺境の空気を深く深く吸い込む。
 ぐちゃぐちゃだった頭の中が少しずつ落ち着いてきて、次第に熱も引いていく。そして同時に手足の感覚も戻って来る。
 大丈夫。できる。理屈さえ分かれば僕はちゃんと自分をコントロールできる。突発的な出来事には弱いけど、計画を立ててその通りに実行するのは昔から得意だ。

 遥かエルミランに続く上流からもたらされる水の恵み。河の流れがもっと穏やかになれば土地は潤い、人や家畜に行き渡り、日が照れば牧草が一斉に芽吹き、小麦だって野菜だってずっと豊かに実るはずだ。

「カイ」

 サイードさんが僕の名を呼ぶ。

「大丈夫。見てて」

 そう答えた声はもう震えても擦れてもいなかった。
 必要なリソースはすでに揃っている。何もかもいっぺんにやろうとしたからいっぱいいっぱいになってしまったんだ。でも僕の中で力を滞りなく均一に流すだけなら簡単なはず。そう、例えば血液の流れと同じように。
 ほら、イメージさえはっきりすればすぐに出来た。力が満ちて指先まで温かくなって、それと同時にイコン河の流れも僕に同調しているかのように少しずつ穏やかになっていく。

 この大陸にいくつ川が流れているかはわからないけれど、川や地下水脈は人の血管に似ていると思う。
 この大陸の心臓はあのエルミランの頂きだ。そこから繋がる血管の全てに、細い細い毛細血管の末端にまで流れていくように、ほんの少しだけ後押しをして。ああ、ほらね。

「おぉ……見ろ……! イコン河の流れが緩やかに……!」
「あんなに濁っていた水が、ああ……ラハルよ……!」
「これぞラハル神の恩寵だ……!」

 さっきまでとは違う、明るい喜びに満ちたざわめきが一斉に広がっていく。
 僕はサイードさんとダルガートの間に立ってただじっと水面を見ていた。そこにはいつの間にか空に昇っていた月の光が反射して、キラキラと輝く大河の流れがとても綺麗だった。
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