月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

110 夜明ける天涯

「……その国境の壁って、一体どれくらい大きいの?」
「高さおよそ十五メルド。宮城の政堂を五つほど重ねればそれほどの高さになろうかと」

 政堂は天井の高い一階建てだから、大体五から六階建てくらいの高さということか。それほどの高さの壁を、アル・ハダールの領土の西と南をぐるりと囲めるほどの距離まで造ろうと思ったら一体どれほどの時間と労力が必要だろうか。
 僕の脳裏に浮かんだのは万里の長城だ。あれは確か現存するだけでも七千キロぐらいあって、掛かった年月は何百年にも渡る。
 アル・ハダールの前の王朝は約四百年続いたと書庫の本に載っていた。放蕩が過ぎて餓死者が出るほど財政が逼迫していたという前の王朝にそんなものを作る金と人手があったとは思えない。では一体どうやって?

 再び北に聳える天然の『壁』を見上げる。
 ダーヒル神殿領と接する西側を除いて三方を巨大な国境の壁で囲まれた東の帝国。その中で人々は皆なぜか『壁の外』へ行こうとせず、興味も持たず。まるで何かの力で目と意識を塞がれているかのようだ。

 突然、ぞくり、と悪寒のようなものが背筋を走る。
 怖い。なんだろう、すごく怖い。

 その時、僕とサイードさんが乗る黒馬が鼻を鳴らして首を動かした。急に意識を引き戻されて一瞬言葉に詰まる。

 いやだな。ここにいたくない。何かが、すごく怖い。

 そう思った時、ダルガートが山を見上げながら言った。

「国境の壁などまるで興味がなかったのに、実際それを見た時にふと神子殿を思い出した」
「え、僕?」
「左様」

 そう答えてダルガートが振り向く。

「以前、ダーヒルで言っておられただろう。何やら竪穴式の住処やダム……? だとか。自然物より人が造ったものに興味がある、と」
「あー、そうだったかな」

 確かに僕は雄大な景色よりも巨大な黒部ダムだとか一本の巨木から掘り出された古い仏像だとかそういう物にロマンを感じる性質だ。すると後ろのサイードさんが小さく噴き出す。

「そういえば何やら熱心に話していたな。神殿の壁を撫でたり床の石の素材を知りたがったり」
「この石はどこから切り出してどうやって運び、どうやってこんなに高く積み上げたのかと聞かれた時は心底困り申した」
「確かに」

 急に二人して笑いだして、僕は思わず口をへの字に曲げた。いいじゃないか。僕からしたら異世界の巨大神殿なんてピラミッドやモアイと同じくらいのミステリー案件なんだから。
 するとダルガートが珍しくかすかに笑みを含んだような目で僕を見て言った。

「いつからここにあるのか誰も知らぬこの巨大な石壁を神子殿ならば大層面白がるのでは、と思い、その時初めて国境の壁に興味を持った。そしてなぜ今まで国境の事を考えたこともなかったのか、と不思議に感じた。恐らくサイード殿も同じなのでは?」
「…………ああ、そうだ」

 何かを考え込むようにサイードさんが答える。

「確かに、今まで我ら第三騎兵団は何度も異民族と戦った。彼らは皆北の山を越えてやってきたのだと考えていたが、思い返してみれば実際彼らを捕らえて敵の内情を知ろうとしたことはなく、山の向こうへこちらから行こうなどと考えた者は一人もいない。明らかに不自然だ」
「サイードさん……」

 サイードさんは僕の手を取ると、じっと見つめて呟いた。

「俺もダルガートも、そして陛下も宰相殿も、カイに出会って初めてこれまで見えていなかった何かに気づきつつあるように思う」

 するとダルガートが言い添える。

皇帝ハリファは今後も国境の視察を適時行い、宰相殿は辺境の中でも特に監視が必要な場所は領主とその領兵に頼らず、一部を直轄地としてでも帝都より騎兵団を派遣すると聞き申した」

 すごい。小さなことかもしれないけれど何かが変わっていっているような気がする。まるで今まで見えない力でせき止められていた川が少しずつ流れ始めたような、塞がれていたトンネルに小さな穴が穿たれたような。

 サイードさんが僕の目を見て言った。

「カイ。これからも思うことは隠さず、何でも話して欲しい。カイの力はただ雨を降らし水を呼ぶだけのものではない。そう思う」

 その言葉に、ようやく僕はこの異世界で決して独りぼっちじゃないのだと思えた。

 この世界は慣れ親しんだ現代日本とは何もかもが違っていて、不思議な力や理解できない謎に溢れている。家族もおらず知り合いもいない、これまでの常識も知識も全然役に立たない異世界で生きて行かなければいけないということは恐ろしく不安で怖いことだった。
 でも、僕は少なくとも一人じゃない。サイードさんもダルガートも、僕が皆とは全然違う異星人みたいなものでも僕のことを信じて、そして大事にしてくれているんだ。

 僕はサイードさんの手を力いっぱい握り返して喉にせり上げてくる塊を飲み込む。目の奥がたまらなく熱い。振り向けばダルガートが馬首を返して近づき、伸ばしたもう片方の手を握ってくれる。

「二人と離れたくない」

 自分でもわがままだとは思うけど、でも僕の一番正直な気持ちだ。

「ずっとずっと、三人で一緒にいたい」

 そうすればどんな怖いことだって平気だし、何が起こったって乗り越えられると思う。

――――できんならやってみりゃいいじゃん。

 突然、向こうの世界で言われた言葉が頭に浮かぶ。
 そう、三人一緒だったら僕はきっと怖がったり遠慮したりしないで、どんなことにも立ち向かえる。だってこんなにも僕を信じて大事にしてくれる人が二人もいるのに、できないわけがないよね?

 東の空がだんだん明るくなって太陽が登り始める。すると闇に溶け込むように聳え立っていた山々の稜線が照らされて、白く美しい山肌が姿を現した。

 手綱を握るサイードさんの懐に抱かれて、ダルガートのごつごつとした大きな手の熱を感じながら白く輝く山々を見上げる。
 肌を刺すキンと冷えた北の空気がいっそ心地いい。

 僕はこれからもこの世界のいろんな景色を見るだろう。その時はいつも二人が傍にいてくれるといい、と心の底から願った。


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西の辺境編はここで終わりです。
次はイスタリア編です。連載再開まで今しばらくお待ちください。
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