月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第三部】西の国イスタリア

115 心配事

「お目覚めでございますか、神子様」

 翌朝、寝台のベール越しにウルドの声がして、僕は上掛けをはいで起き上がった。

「おはよう、ウルド」
「おはようございます」

 それからハマームに続く小部屋に用意された水で顔を洗い、服を着替える。その間に他の傍仕えたちが寝台を整え、居間で朝食をとるための準備をしてくれた。
 旅をしていない時はこうして四六時中誰かが傍にいて落ち着かなかったり、煩わしいと思うこともある。けれど僕が世話を断れば彼らの仕事を取り上げることになり、下手をすれば彼らが解雇されたりもっと辛い仕事へ回されてしまう可能性もあるのだ。だからもうこれは甘んじて受け入れるしかないと諦めがついている。

 今日、朝の食事と祈りを終えたら神殿を出発しイスタリアへ向かうことになっている。動きやすい簡素な旅着を着てハマームの小部屋を出ると、すでに身支度を終えたダルガートが僕を待っていた。

「すぐに朝食を?」
「そうだね」

 するとダルガートは僕の前に立って厚い敷物やクッションが置かれた明るい居間の一角へと歩いて行った。
 こんな時サイードさんはよく僕の手を取ってエスコートしてくれたりするけれど、ダルガートは普段そこまで丁寧な態度をとったりはしない。でもこのそっけなさというか、着かず離れずのごく普通の接し方が正直ありがたく思っている。

 僕が敷物の上に座るとダルガートが斜め右に腰を下ろす。僕の後ろにはウルドが、そしてダルガートの後ろにもう一人の傍仕えがついて大皿に盛られた料理が取り分けられた。
 さすがに二年半も暮らしていればこちらの料理にもすっかり慣れた。香辛料の効いた肉と野菜の串焼きにファティールという肉のパイ包み、粉を塩と水で練って平べったく焼いたもので肉と野菜を包んだものや豆を煮込んだものを食べる。
 ダルガートは一見すると強面こわもてで獰猛そうな雰囲気に溢れているのに、彼の食べ方は驚くほど静かで衣擦れの音さえしない。あんなに大きくて重い身体なのに足音もあまりしないのが不思議でたまらない。サイードさんが言うにはそれこそが彼の剣技や体術の巧みさの証なのだそうだ。

「サイードさんはまだ外に?」

 僕が尋ねるとダルガートが「左様」と答えた。
 サイードさんとアドリーは昨日神殿に着いてからずっとこの地に駐屯している騎士たちのところにいるらしい。

 カルブの儀式を終えた後、僕が《慈雨の神子》と認められたことでアル・ハダールは本来なら完全中立であるこのダーヒル神殿領に数名の騎士を駐屯させる権利を得た。表向きの彼らの仕事はアジャール山や神殿地下の地下水路カナートを監視し、神子の力がイシュマール大陸にあまねく齎されているかを見張ることだ。けれどあのカハル皇帝と切れ者の宰相のことだ、恐らく他の二国の動静を探るための布石の一つでもあるのだろうと思う。

 サイードさんたちはそんな彼らに本国からの指示を与えたり、これまでに得た情報を聞き取ったりしている。だからその間の僕の護衛はダルガートに任されている。本来ならカハル皇帝の主騎であるダルガートとこんな風に二人だけで日中過ごすのはとても珍しいことだ。
 こうして二人で食事をとったり神殿長との話し合いの場所まで彼が付き添ってくれたりするのが新鮮で、なんとなくそわそわしてしまう。お茶を飲むふりをしながらダルガートがファティールを口に運ぶのをこっそり見ていたらすぐに気づかれてしまった。

「何か?」
「ううん、なんでもない」

 なんとか表情を取り繕ってそう答える。

「食べ終わったら腹ごなしに剣の手合わせ付き合ってくれる? サイードさんが戻るまでの間でいいからさ」

 するとダルガートがウルドから茶器を受け取りながら「またサイード殿に羨ましがられそうですな」と口角を上げて、僕は首を竦めて苦笑いした。

 この二年、僕はずっとヤハルと共に、時にはダルガートにも教えを乞うて剣の訓練をしてきた。お陰で今ではそれなりに使えるようになっている。当然のことながらサイードさんも槍を教えてくれようとしたのだけれど、僕の力と体格ではあれだけの長さと重さの武器を思うように馬上で扱うことができずに諦めたのだ。
 サイードさんの期待に答えられず申し訳ない気持ちもあるけれど、でもサイードさん本人も僕に稽古をつけながら「……カイは片手剣の方が良さそうだな」と言ったのだから……つまりどうしようもないということだ。

「今日こそ一本くらいは取るぞ!」

 食事を終えて剣を携え外へ向かう途中に景気づけにそう言うと、ダルガートがそれはそれは小憎らしい顔でフッと笑った。くそっ。


     ◇   ◇   ◇


 結局神殿を出発したのは昼近くなってからだった。

「待たせてしまってすまなかったな」

 そう言うサイードさんに首を振り、荷造りを終えたウルドたちや少しバテ気味らしいアドリーたちと西へと馬を走らせる。
 サイードさんはいつものようにキビキビとした動きで長旅の疲れは少しも見受けられない。けれど僕には少し心配なことがあった。

 元々サイードさんは今回の僕のイスタリア行きにはあまりいい顔をしていなかった。口に出して反対はされなかったけれど、最初に話をした帝都近くのオアシスでも何か思うところがあるような顔だった。
 それにサイードさんは二年ほど前に西の辺境で僕が熱で倒れたあたりから時々夜うなされるようになった。
 そんな時サイードさんは眉間に深い皺を刻んで誰かに謝っていて、その度に僕はサイードさんを抱きしめて「大丈夫だよ」と声を掛け続けてきた。ここ半年くらいは治まっていたのに、僕のイスタリア行きが決まってからまた起こるようになった。

 僕はサイードさんが心配でたまらない。以前に一度、何か嫌な夢でも見たのか、と聞いてみたけれどサイードさんはまったく覚えていないようだった。不思議そうな顔で僕を見ていたのでそれ以上問い詰めるのをやめた。
 けれどこちらに来る道中、野営の時にも一度ひどく苦しそうにうなされていた時にダルガートに相談してみた。もちろん彼もサイードさんが時々こんな風になることを知っている。
 ダルガートはしばらく考えてから「サイード殿の方から話す気になるまで待つ方がよろしかろう」と言った。多分こちらから聞いても彼自身がその気にならなければ何も話さないだろう、と。

 今もダルガートが僕と同じようにさりげなくサイードさんの表情を見ているのがわかる。そして誰にも気づかれぬほど一瞬、僕と目を合わせた。サイードさんを心配しているのが自分だけではないとわかってとても心強く思う。
 けれどそれから数日後、ついにイスタリアの王都を見下ろす砂丘の上に立った時に僕たちはサイードさんの心を苦しめている原因の一端を知ることができた。
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