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【第三部】西の国イスタリア

118 イスタリアの地図

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 本来、地図というものは軍事上たいそう価値のあるものだ。それを他国の者に見せて貰えるかどうかは正直望み薄だと思っていた。ところが意外なことに昨夜の宴の席で女王自ら「構わぬ」と許可してくれた。
 初めて顔を合わせたイスタリアの女王ナタリアは、レティシア王女と同じ見事な金色の髪と彼女より薄く冷たいアイスブルーの瞳を持つ堂々たる女傑だった。
「イシュマール大陸全体を把握するために地図を見せて欲しい」という僕に対して彼女は寛大にも「詳しく街や拠点の書かれた細図は見せられぬが、おおよそのもので良ければ」と言ってくれた。そして王宮の書庫に入る許可と、僕の疑問に答えられるように史書の編纂を担当している文官を付けてくれさえした。

 この日、サイードさんは朝からアドリーに呼ばれてどこかへ行っていて、ダルガートが護衛としてついてきてくれることになっていた。

 僕たちはこの王宮内で、アル・ハダールからの正式な使者としてずいぶんと丁重な扱いを受けている。そのせいもあって僕の服装もずいぶんと高価できちんとしたものだ。
 今日もクリーム色の生地に同じ色の糸で細かな刺繍がびっしりと施されている「ぱっと見はシンプルだけどよく見るとすごく豪華」な服にいろいろと装身具までつけていて実に落ち着かない。
 ダルガートを御供に書庫へ行く時も、着ている服に負けないように背筋を伸ばしキビキビと歩く。お手本はサイードさんだ。ダルガートの真似をすると妙に偉そうになるからな。本人には内緒だけど。

 王宮の傍仕えに案内されて書庫に着くと、そこで僕たちを待っていた人が僕の後ろで周りを睥睨するダルガートに少しばかり萎縮していた。れっきとした城仕えの文官であってもダルガートの巨躯と冷ややか極まりない顔は怖いらしい。

「こちらが我がイスタリアの地図にございます」
「やっぱりここで地図は切れているんですね……」

 文官のバルイシュが大きな書見台に広げてくれた地図を見て、思わず落胆のため息がこぼれた。彼らの最新の地図でもイスタリアの西端にある海の下の部分はやはり不自然に途切れたままだった。

 この世界は僕がいた地球のユーラシア大陸とそっくりな形をしている。だから位置的にイスタリアの海外貿易の拠点である西端の海はかの有名なカスピ海に当たるのではないか、と僕は考えていた。
 もしそうならイスタリアの海は外海ではなく湖のように閉ざされた内海であり、ここからさらに陸続きに西へ行けるはずだ。ところが神殿長に貰った地図も、そして今見せられたイスタリアの地図でも海の南の部分が不自然に途切れていてそこから先が描かれていない。

「あの、ここの先はどうなっているんですか? この先も陸地が続いてるのでは……」

 そう尋ねて顔を上げて、思わず息を呑んだ。地図を出してくれた時はまったく普通だったバルイシュの目はぼんやりと陰っていて、その顔には表情というものがまったくない。まただ、と僕は密かに唇を噛む。
 アル・ハダールのオアシスで小さな聖廟を見つけた時のサイードさんと同じ反応だ。するとすぐに彼の異変に気付いたダルガートが僕を軽く押しやりながら「バルイシュ殿。お気を確かに」と声をかけた。するとハッと我に返ったようにバルイシュが瞬きをしてダルガートを見る。

「……失礼いたしました、なんのお話でしたでしょうか……」
「この地図に描かれている海の南の辺りがどうなっているのかを知りたいのだが。ここからもっと西へと陸地が続いているのではござらぬか?」
「……海の、南……」

 そう呟きながらバルイシュの顔から血の気が引いていく。このまま倒れてしまうんじゃないかととっさに腕を伸ばすと、それより早くダルガートが彼を支えて下がらせた。

「どうやら加減がよくないようですな。しばしあちらで休んでおられては。決して禁書には近づかぬし、あの椅子からならば我らの監視も続けられよう」
 ダルガートがトン、と背中を押してそう囁くと、バルイシュはぼんやりと「……そうさせていただきます……」と心ここにあらずといった風に答えた。
 ダルガートが彼の腕をとって窓際の椅子に座らせるのを見て、これ以上追及しない方がいいかと諦めた。

「我らと同じく、まるで外を見ようとするのを誰かに邪魔されているようですな」

 ダルガートの言葉に小さく頷く。

 やはりこの世界は何かがおかしい。普通に考えればイスタリアのように交易で栄えている国が、新たな商機があるかもしれない陸続きの場所を目指さないはずがないのだ。それなのにこの地図の端書きにある年号を信じるならば、三百年も前からこの先の空白を埋めようとしていない。

 それに他にも不審な点がある。それは以前レティシア王女と共に神殿領の市場スークへ行った時のことだ。
 王女の主騎であり選定の騎士の一人だったクリスティアンの話では、この国で崇められている海洋神の名はシャリールという。けれど大陸のどの国でも初等学校で学ぶという経典にははっきりとシャリールとは湖水の神の名であり、本当の海洋神はサルジュだと書いてある。

 なぜそのことに誰も疑問を持たず、気づきもしないのか。ダルガートの言う通り、まるで誰かが自分たちの国の外へ興味を持たないように妨害しているかのようだ。でもそんなことができるのは、それこそ『神』ぐらいしかいないだろう。

「仕方がない。じゃあ次は歴史書の方だ」

 そう呟くとダルガートが手早く地図を丸めて書棚の脇の箱に入れてくれた。そしていくつも並んだ棚を見ながら尋ねる。

「ここにイスタリア建国以来の史書が収められているようですな。いつ頃の歴史をご覧になりたいのか」
「ええと、三代前の神子がいた……150年ぐらい前? あと彼女がなくなった原因の火山の爆発が確か800年ぶりって言ってたから、その頃のことが知りたいんだけど」
「800年前?」

 羊皮紙を収めた木箱を二つほど書棚から下したダルガートがいぶかしげに問い返した。

「神子よ。この国の建国はおよそ400年ほど前。その前のナルシル王朝の史書もここにはあるが、それもせいぜい600年ほど前までのものだ。それ以上過去の記録はここにはない」
「え、じゃあどこか他の……」
「ここはイスタリアの中心でありもっとも重要な王宮の書庫だ。ここになければ国内のどこにもないだろう」
「そうか……」

 でも神殿の市場スークでクリスティアンは「先代の神子殿は病で、三代前の神子殿はエラル山の噴火に巻き込まれたと聞いている」と言っていた。そしてエラル山の噴火は800年振りだった、と。記録がないのになぜ800年振りだったなんてわかるのだろう? 口伝だろうか。

「……エラル山ってどこにあるんだろう」
「エラル山?」
「そう、そこが800年ぶりに噴火して、それで三代前の神子は亡くなった、って聞いたんだけど」
「その名がつく山ならば先ほどの地図にあったはず」

 そう言ってダルガートが再び地図を出して広げてくれる。

「ここ?」
「左様」

 ダルガートが指さしたのはイスタリアとエイレケとダーヒル神殿領の国境にほど近い場所だった。僕はそれを自分の地図に書き写しながらふと思う。

「いや、でもここって砂漠のど真ん中でしょ? そんなところにいきなり火山なんて……ああ、でも確かエチオピアのあたりに地獄みたいな絵面の火山があるって何かで見たような……」
「何か?」
「あ、いやなんでも……」

 と言いかけて気が付いた。

「これって、もしかしてアル・ハダールの神殿が向いている方向に似てる……?」

 そう呟いた僕にダルガートが問いかけてくる。

「ここで三代前の神子が亡くなったという話は一体誰から?」
「クリスティアンさんだよ。イスタリアの《選定の騎士》でレティシア王女の主騎の」

 それから僕はダルガートが書棚から出してきてくれた木箱を開けて、中に収められていた羊皮紙を丁寧にめくりながら加奈さんがこの国にいた頃の記録を読んでいった。
 それによればやはり加奈さんはかなり精力的に国内のあちこちを回って水源を復活させ、時には『神のごとき奇跡の力』を発揮して人々を癒したり励ましたりしたらしい。そしてこの世界に来て38年後にエラル山の噴火によって亡くなった、と書いてあった。

「あ、ほら。やっぱりここにエラル山って書いてある。でも800年振りの噴火だったとは書いてないなぁ」

 僕たちはバルイシュを見たが、相変わらずぼんやりとした顔で椅子に座り込んだままだった。

「王女の主騎に聞いたのなら、その者に直接問いただしてみるのがよいかもしれませぬな」
「そうだね。次会ったら聞いてみる」

 それ以上の収穫はなさそうで、僕たちはバルイシュに礼を言って書庫を出た。

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