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【最終章】新世界
127 新しい世界
ふと目が覚めると見たことのない天井があった。
部屋は薄暗く、冷たい剥き出しの石造りの天井と壁が周りを囲んでいる。部屋の反対側の壁にもう一つベッドがあるが、一人が歩き回れるぐらいの隙間しかなくかなり狭い。
そっと身体を起こしてみると同じく石でできた床には何も敷かれておらず、僕はあまり肌触りのよくない亜麻色のストンと長い寝間着のようなものを着ていた。寝ていた寝台も木でできた簡素なものだ。
ここは一体どこだろう。あの砂漠の塔は夢だったのだろうか、と思った時、妙に耳や首筋がくすぐったいことに気が付いた。
「あれ、髪が伸びてる?」
視線を下ろすと黒い髪がなぜか肩にかかるかどうかというところまである。そこでハッと気づいて慌てて両耳を探った。
「……良かった、ちゃんとある」
サイードさんとダルガートに貰ったピアスは確かにそこにきちんと嵌っていて心の底からほっとする。でもここは一体どこだろう。ピアスもちゃんとこの目で確認したいけれど鏡なんてありそうにもない。
下ろした手をぎゅっと握ってみる。やっぱりちゃんと感覚はある。これが嘘やまやかしとは到底思えない。
あの砂漠の塔で僕はこの世界の時間軸を巻き戻し、300年前から始まったという干ばつや砂漠化を『なかったこと』にした。そうなれば当然《慈雨の神子》は存在しないことになる。けれど、あの時の彼の言葉を借りれば『他のエリアから移植された』僕は、それで消えてなくなりはしなかったようだ。
最悪の場合、僕もここへ来なかったことになるのかと思っていたから、一人密かに胸を撫でおろす。もしかしてよそからここへ持ち込んだ個体は、たとえ歴史を改変しても存在そのものは消せないのだろうか。
『造られた世界』というのは一体どういうものなのだろう。初めに聞いた時はゲームのようなデータ上の世界を連想した。けれどこんな風に物理的な感触や感覚があるととても信じられない。
もしかしたら縮尺の違いはあれども実体はあるのだろうか。でもそれだと時間を巻き戻すなんていうウルトラCができてしまう理屈がわからない。
やめよう。あれこれ考えるのは。またあの砂の塔に言ってあの男と話をしない限りどうせ正解はわかりっこない。そして僕はもう二度とあそこへ行くつもりはなかった。
その時扉をノックする音がしてビクッ、と身体が強張る。すると背の高い男が一人部屋に入ってきた。
「そろそろ明けの鐘がなるよ、カイ。身支度は済んでるかい?」
「ウ……ウルド!?」
それは間違いようもなく近従のウルドだった。記憶と変わらず背が高く痩せていて、穏やかで優しそうな顔立ちをしている。けれど彼が着ている服はいつもの白くぴったりとした帽子と近従のための服ではなく、地方の神殿で見たことのある下級神官のものだった。それに話し方も違う。ウルドは僕の剣幕に少し驚いたような顔をして、それからあの柔らかな笑みを浮かべた。
「はいはい、ウルドですよ。どうしたんだい、突然大きな声を出して。さあ支度をして。朝の祈りに間に合わなかったら大変だ」
「え、あ、うん」
訳が分からないまま言われた通りに盥の水で顔を洗い、ウルドと同じ下級神官の服を着て神官が必ず頭に被っているジャヒーヤと呼ばれる布を被り部屋から出た。そして部屋と同じく薄暗くて狭い石の通路をウルドについて歩く。よく見ると壁や床の白い砂岩になんとなく見覚えがあった。
やがて大勢の神官たちが揃う広間につくと、間違いなく見たことのある光景に思わずポカンと口を開ける。だってここは――――。
「カイ、神殿長様がお越しだ」
そうウルドに促されて慌てて周りの人たちと同じように床に膝をつき、頭を下げた。間違いない。ここはダーヒルの中央神殿だ。
辺りが一斉に静まり返り、皆が両手を胸に当てて拝跪する。そこからは西の辺境にあるシャルラガンの神殿で過ごした時に習い覚えた日々の儀式とまったく同じだった。そして上級神官の合図に従って身を屈め祈りの文句を唱え始めるころには、僕はなんとなく今の状況を理解していた。
何がどうしてそうなったのかはわからないが、とりあえず僕は今このダーヒル神殿領の下級神官の一人らしい。おまけになぜかウルドも同じ下級神官として一緒にいる。驚いたけれど、でもとても嬉しいことだ。
とりあえずもっと状況がわかるまでは怪しまれないように、ウルドについてひたすら仕事に精を出すことにする。
シャルラガンの神殿と同じように、ここでも上級神官は神殿の重要な祭祀や聖典の研究に従事し、中級神官は毎日の祈祷を執り行ったり訪れる信者たちへの対応や下級神官たちへの指導をする。
そして裕福ではない家の子や孤児たちが衣食住の保証と引き換えに信仰と奉仕を誓う下級神官は、神殿内の掃除や洗濯などの雑用と外での奉仕活動を担っている。つまりは下働きのようなものだ。
朝の祈りが終わればすぐに食堂へ行き、厨房からパンやスープを運んで上級および中級神官たちに給仕する。彼らの食べた食器を片付けていると再びウルドに呼ばれた。
「さあ、次は神武官たちへの給仕だ。夜番だった人たちが間もなく来るから、あちらのテーブルの用意を頼むよ」
「神武官?」
神殿にそんな役職があっただろうか? 内心首をかしげつつも急いで中級神官たちが使ったテーブルを片付け厨房へと走る。すると見慣れた種なしパンが積まれた籠とスープの入った大きな鍋が用意されていた。
他の下級神官たちと一緒にそれを食堂に運び込んだ時、革の胴鎧の上に白い上着を腰帯で結んだ男たちが入ってくるのが見えた。
「カイ、急いで給仕を。待たせると怒られてしまうからね」
そうウルドに耳打ちされて、急いで彼らが腰を下ろした順に木の器を並べ、スープを注いで回る。
袖も丈も長い上級・中級神官の服と違い、下級神官の服は動きやすさを重視している。だから袖も少し短い太めの筒袖で、給仕は楽だが神官全員が頭に被る決まりのジャヒーヤがどうにも邪魔で仕方がない。
動いているとすぐに落ちてくる裾に四苦八苦していると、神武官とやらの中で一番最後に入ってきた男の姿が被り布の端からちらりと見えた。次はそちらに給仕しようと鍋と器をよっこらせと運ぶ。そしてその男の顔を見た時、思わず持っていた木の椀を取り落としそうになった。
他の男たちよりもひと際大きく分厚い身体に目深に被ったシュマグ、そしてその下に見える鋭く粗削りな顔立ちと、感情の見えぬ黒い目。
「ダ……っ、ダルガ……」
と、そこで言葉を飲み込んだ。というか言えなかった。なぜなら僕を見下ろした彼の目があまりにも冷たく、無表情だったから。
僕は驚いてとっさに顔を伏せる。動揺を隠せずに震える手でスープを注ぎテーブルに置くと、横からウルドが種なしパンを添えた。その影に隠れるようにして、席につこうとする彼をそっと盗み見る。
やっぱりダルガートだ。でもなんでここに? しかも神武官って?
ダルガートはエイレケで生まれて、干ばつのせいで一家が飢えて十二の年に売られ、色々あって東の国へ行ったと言っていた。
砂漠の塔であの男を脅してイシュマール大陸全土の水不足は解消させたはずだ。当然彼だって売られずに済んだはずなのになぜダーヒルの神殿なんかにいるのだろう。
その時、明らかに挙動不審な僕にダルガートが目を向けた。怪しい侵入者を探るような鋭く疑心に満ちた目がとてもショックで慌てて顔を背ける。
「カイ、どうしたんだ?」
様子がおかしいと気づいたウルドが後ろから声を掛けてきた。ハッと我に返って「なんでもない」と首を振る。そして急いで頭を下げると、そのまま鍋だけを見ながら他の男たちへおかわりをよそって回った。
◇ ◇ ◇
それからはひたすら下級神官の勤めをこなすことに没頭した。
食堂を清め、通路や正面の大階段、神殿下の町の人たちや大陸中から集まる巡礼者たちが祈りを捧げる祈りの間も隅から隅まで掃いて磨き上げる。アルダ教の総本山であるこの神殿はとにかく大きいから、それだけの作業ですぐに昼になってしまう。
昼も朝と同様に給仕をして自分たちは急いでスープだけをかき込み、午後は町に降りて奉仕活動をする。そして日没の祈りの後また厨房に駆け戻り、夕飯の給仕と片づけを終え明日の支度のための水を上級・中級神官たちの部屋の盥に配って回ってようやくその日の仕事が終わった。
「やれやれ。今日も疲れたね」
そう言ってウルドが向かいのベッドに腰を下ろす。どうやら僕とウルドは同じ部屋のようだ。
「そうだね。お疲れ様」
そう返すとウルドが真面目な顔をして僕に言った。
「カイ。今日は上の空だったりやけに周りを気にしていたね。あれは良くない。きちんと努めを果たさなければいけないよ」
「あ……うん、そうだね。ごめんなさい」
ウルドの言う通りだ。仕事に集中しているつもりでも、ほかに何をしていてもどうしても目がダルガートを探してしまう。けれど結局あの後彼の姿を見ることはできなかった。
思わず深々とため息をついてしまった僕に、ウルドが眉をひそめた。
「一体どうしたんだい? 何かあったのか?」
前と変わらず僕のことを心配して声を掛けてくれるウルドの気持ちがとても嬉しい。けれど彼に砂漠の塔のことや今の僕の状況を説明したところでどうしようもない。頭がおかしいと思われるのがオチだ。
「ごめん、明日からは気を付けるよ」
そう言って一日中頭に被っていたジャヒーヤを取ると、突然ウルドが顔色を変えて言った。
「カイ、これはどうしたんだ?」
「え?」
肩のあたりまで伸びた髪をそっと避けるようにして、ウルドが僕の耳に触れる。
「昨日まではこんなものは付けていなかったはずだ。それにこれは……」
と言って言葉に詰まる。
しまった。二人に貰ったピアスのことだ。思わず両耳を押さえてベッドの上で後ずさる。
質素倹約が当たり前の下級神官がこんな飾りを付けているのは明らかにおかしいし許されることではない。それにこれは王族が付けるようなひどく高価なものだとクリスティアンも言ってた。ウルドは僕がどこかから盗んできたのかと思っただろうか。
どうしよう。でもこれは絶対に外したくない。だって約束したんだ。いつでもどんな場所でも絶対に外さない、って。
どうやらこの時僕は相当ひどい顔をしていたらしい。ウルドが「仕方がないな」と言わんばかりの顔をして息を吐いた。
「いいかい。これは絶対に人に見られてはいけないよ。部屋から出る時は必ずジャヒーヤを深く被って隠しておくんだ。いいね」
「……うん、わかった。ありがとう、ウルド」
そう答えるとウルドはまた微笑んで頷いてくれた。
◇ ◇ ◇
新しい世界。
その夜、寝台に横たわって壁をじっと見つめながら考えた。
そう、ここは昔と似ていたとしてもまったく別の新しい世界だ。かつて僕が神子として築いてきた人間関係や実績は全部存在しない。
でも僕はそれを嘆くことはできない。なぜならこの世界を新しく作り替えたのは他ならぬ自分自身なのだから。
ウルドが指摘してくれたように、これからはダーヒルの下級神官としてもっと注意深く行動しなければ。下級神官の地位や身分は多分とても低い。もしも上の立場の人に不審に思われたらどんなことになるかわからない。
誰もが僕を大事に扱ってくれていた昔とは違うのだ。万が一にもここを追い出されたりしないように気を付けなければ。
僕は寝台で耳の飾りに触れながら、何度も自分にそう言い聞かせた。
部屋は薄暗く、冷たい剥き出しの石造りの天井と壁が周りを囲んでいる。部屋の反対側の壁にもう一つベッドがあるが、一人が歩き回れるぐらいの隙間しかなくかなり狭い。
そっと身体を起こしてみると同じく石でできた床には何も敷かれておらず、僕はあまり肌触りのよくない亜麻色のストンと長い寝間着のようなものを着ていた。寝ていた寝台も木でできた簡素なものだ。
ここは一体どこだろう。あの砂漠の塔は夢だったのだろうか、と思った時、妙に耳や首筋がくすぐったいことに気が付いた。
「あれ、髪が伸びてる?」
視線を下ろすと黒い髪がなぜか肩にかかるかどうかというところまである。そこでハッと気づいて慌てて両耳を探った。
「……良かった、ちゃんとある」
サイードさんとダルガートに貰ったピアスは確かにそこにきちんと嵌っていて心の底からほっとする。でもここは一体どこだろう。ピアスもちゃんとこの目で確認したいけれど鏡なんてありそうにもない。
下ろした手をぎゅっと握ってみる。やっぱりちゃんと感覚はある。これが嘘やまやかしとは到底思えない。
あの砂漠の塔で僕はこの世界の時間軸を巻き戻し、300年前から始まったという干ばつや砂漠化を『なかったこと』にした。そうなれば当然《慈雨の神子》は存在しないことになる。けれど、あの時の彼の言葉を借りれば『他のエリアから移植された』僕は、それで消えてなくなりはしなかったようだ。
最悪の場合、僕もここへ来なかったことになるのかと思っていたから、一人密かに胸を撫でおろす。もしかしてよそからここへ持ち込んだ個体は、たとえ歴史を改変しても存在そのものは消せないのだろうか。
『造られた世界』というのは一体どういうものなのだろう。初めに聞いた時はゲームのようなデータ上の世界を連想した。けれどこんな風に物理的な感触や感覚があるととても信じられない。
もしかしたら縮尺の違いはあれども実体はあるのだろうか。でもそれだと時間を巻き戻すなんていうウルトラCができてしまう理屈がわからない。
やめよう。あれこれ考えるのは。またあの砂の塔に言ってあの男と話をしない限りどうせ正解はわかりっこない。そして僕はもう二度とあそこへ行くつもりはなかった。
その時扉をノックする音がしてビクッ、と身体が強張る。すると背の高い男が一人部屋に入ってきた。
「そろそろ明けの鐘がなるよ、カイ。身支度は済んでるかい?」
「ウ……ウルド!?」
それは間違いようもなく近従のウルドだった。記憶と変わらず背が高く痩せていて、穏やかで優しそうな顔立ちをしている。けれど彼が着ている服はいつもの白くぴったりとした帽子と近従のための服ではなく、地方の神殿で見たことのある下級神官のものだった。それに話し方も違う。ウルドは僕の剣幕に少し驚いたような顔をして、それからあの柔らかな笑みを浮かべた。
「はいはい、ウルドですよ。どうしたんだい、突然大きな声を出して。さあ支度をして。朝の祈りに間に合わなかったら大変だ」
「え、あ、うん」
訳が分からないまま言われた通りに盥の水で顔を洗い、ウルドと同じ下級神官の服を着て神官が必ず頭に被っているジャヒーヤと呼ばれる布を被り部屋から出た。そして部屋と同じく薄暗くて狭い石の通路をウルドについて歩く。よく見ると壁や床の白い砂岩になんとなく見覚えがあった。
やがて大勢の神官たちが揃う広間につくと、間違いなく見たことのある光景に思わずポカンと口を開ける。だってここは――――。
「カイ、神殿長様がお越しだ」
そうウルドに促されて慌てて周りの人たちと同じように床に膝をつき、頭を下げた。間違いない。ここはダーヒルの中央神殿だ。
辺りが一斉に静まり返り、皆が両手を胸に当てて拝跪する。そこからは西の辺境にあるシャルラガンの神殿で過ごした時に習い覚えた日々の儀式とまったく同じだった。そして上級神官の合図に従って身を屈め祈りの文句を唱え始めるころには、僕はなんとなく今の状況を理解していた。
何がどうしてそうなったのかはわからないが、とりあえず僕は今このダーヒル神殿領の下級神官の一人らしい。おまけになぜかウルドも同じ下級神官として一緒にいる。驚いたけれど、でもとても嬉しいことだ。
とりあえずもっと状況がわかるまでは怪しまれないように、ウルドについてひたすら仕事に精を出すことにする。
シャルラガンの神殿と同じように、ここでも上級神官は神殿の重要な祭祀や聖典の研究に従事し、中級神官は毎日の祈祷を執り行ったり訪れる信者たちへの対応や下級神官たちへの指導をする。
そして裕福ではない家の子や孤児たちが衣食住の保証と引き換えに信仰と奉仕を誓う下級神官は、神殿内の掃除や洗濯などの雑用と外での奉仕活動を担っている。つまりは下働きのようなものだ。
朝の祈りが終わればすぐに食堂へ行き、厨房からパンやスープを運んで上級および中級神官たちに給仕する。彼らの食べた食器を片付けていると再びウルドに呼ばれた。
「さあ、次は神武官たちへの給仕だ。夜番だった人たちが間もなく来るから、あちらのテーブルの用意を頼むよ」
「神武官?」
神殿にそんな役職があっただろうか? 内心首をかしげつつも急いで中級神官たちが使ったテーブルを片付け厨房へと走る。すると見慣れた種なしパンが積まれた籠とスープの入った大きな鍋が用意されていた。
他の下級神官たちと一緒にそれを食堂に運び込んだ時、革の胴鎧の上に白い上着を腰帯で結んだ男たちが入ってくるのが見えた。
「カイ、急いで給仕を。待たせると怒られてしまうからね」
そうウルドに耳打ちされて、急いで彼らが腰を下ろした順に木の器を並べ、スープを注いで回る。
袖も丈も長い上級・中級神官の服と違い、下級神官の服は動きやすさを重視している。だから袖も少し短い太めの筒袖で、給仕は楽だが神官全員が頭に被る決まりのジャヒーヤがどうにも邪魔で仕方がない。
動いているとすぐに落ちてくる裾に四苦八苦していると、神武官とやらの中で一番最後に入ってきた男の姿が被り布の端からちらりと見えた。次はそちらに給仕しようと鍋と器をよっこらせと運ぶ。そしてその男の顔を見た時、思わず持っていた木の椀を取り落としそうになった。
他の男たちよりもひと際大きく分厚い身体に目深に被ったシュマグ、そしてその下に見える鋭く粗削りな顔立ちと、感情の見えぬ黒い目。
「ダ……っ、ダルガ……」
と、そこで言葉を飲み込んだ。というか言えなかった。なぜなら僕を見下ろした彼の目があまりにも冷たく、無表情だったから。
僕は驚いてとっさに顔を伏せる。動揺を隠せずに震える手でスープを注ぎテーブルに置くと、横からウルドが種なしパンを添えた。その影に隠れるようにして、席につこうとする彼をそっと盗み見る。
やっぱりダルガートだ。でもなんでここに? しかも神武官って?
ダルガートはエイレケで生まれて、干ばつのせいで一家が飢えて十二の年に売られ、色々あって東の国へ行ったと言っていた。
砂漠の塔であの男を脅してイシュマール大陸全土の水不足は解消させたはずだ。当然彼だって売られずに済んだはずなのになぜダーヒルの神殿なんかにいるのだろう。
その時、明らかに挙動不審な僕にダルガートが目を向けた。怪しい侵入者を探るような鋭く疑心に満ちた目がとてもショックで慌てて顔を背ける。
「カイ、どうしたんだ?」
様子がおかしいと気づいたウルドが後ろから声を掛けてきた。ハッと我に返って「なんでもない」と首を振る。そして急いで頭を下げると、そのまま鍋だけを見ながら他の男たちへおかわりをよそって回った。
◇ ◇ ◇
それからはひたすら下級神官の勤めをこなすことに没頭した。
食堂を清め、通路や正面の大階段、神殿下の町の人たちや大陸中から集まる巡礼者たちが祈りを捧げる祈りの間も隅から隅まで掃いて磨き上げる。アルダ教の総本山であるこの神殿はとにかく大きいから、それだけの作業ですぐに昼になってしまう。
昼も朝と同様に給仕をして自分たちは急いでスープだけをかき込み、午後は町に降りて奉仕活動をする。そして日没の祈りの後また厨房に駆け戻り、夕飯の給仕と片づけを終え明日の支度のための水を上級・中級神官たちの部屋の盥に配って回ってようやくその日の仕事が終わった。
「やれやれ。今日も疲れたね」
そう言ってウルドが向かいのベッドに腰を下ろす。どうやら僕とウルドは同じ部屋のようだ。
「そうだね。お疲れ様」
そう返すとウルドが真面目な顔をして僕に言った。
「カイ。今日は上の空だったりやけに周りを気にしていたね。あれは良くない。きちんと努めを果たさなければいけないよ」
「あ……うん、そうだね。ごめんなさい」
ウルドの言う通りだ。仕事に集中しているつもりでも、ほかに何をしていてもどうしても目がダルガートを探してしまう。けれど結局あの後彼の姿を見ることはできなかった。
思わず深々とため息をついてしまった僕に、ウルドが眉をひそめた。
「一体どうしたんだい? 何かあったのか?」
前と変わらず僕のことを心配して声を掛けてくれるウルドの気持ちがとても嬉しい。けれど彼に砂漠の塔のことや今の僕の状況を説明したところでどうしようもない。頭がおかしいと思われるのがオチだ。
「ごめん、明日からは気を付けるよ」
そう言って一日中頭に被っていたジャヒーヤを取ると、突然ウルドが顔色を変えて言った。
「カイ、これはどうしたんだ?」
「え?」
肩のあたりまで伸びた髪をそっと避けるようにして、ウルドが僕の耳に触れる。
「昨日まではこんなものは付けていなかったはずだ。それにこれは……」
と言って言葉に詰まる。
しまった。二人に貰ったピアスのことだ。思わず両耳を押さえてベッドの上で後ずさる。
質素倹約が当たり前の下級神官がこんな飾りを付けているのは明らかにおかしいし許されることではない。それにこれは王族が付けるようなひどく高価なものだとクリスティアンも言ってた。ウルドは僕がどこかから盗んできたのかと思っただろうか。
どうしよう。でもこれは絶対に外したくない。だって約束したんだ。いつでもどんな場所でも絶対に外さない、って。
どうやらこの時僕は相当ひどい顔をしていたらしい。ウルドが「仕方がないな」と言わんばかりの顔をして息を吐いた。
「いいかい。これは絶対に人に見られてはいけないよ。部屋から出る時は必ずジャヒーヤを深く被って隠しておくんだ。いいね」
「……うん、わかった。ありがとう、ウルド」
そう答えるとウルドはまた微笑んで頷いてくれた。
◇ ◇ ◇
新しい世界。
その夜、寝台に横たわって壁をじっと見つめながら考えた。
そう、ここは昔と似ていたとしてもまったく別の新しい世界だ。かつて僕が神子として築いてきた人間関係や実績は全部存在しない。
でも僕はそれを嘆くことはできない。なぜならこの世界を新しく作り替えたのは他ならぬ自分自身なのだから。
ウルドが指摘してくれたように、これからはダーヒルの下級神官としてもっと注意深く行動しなければ。下級神官の地位や身分は多分とても低い。もしも上の立場の人に不審に思われたらどんなことになるかわからない。
誰もが僕を大事に扱ってくれていた昔とは違うのだ。万が一にもここを追い出されたりしないように気を付けなければ。
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