月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【最終章】新世界

128 新たな日常

 翌朝、朝の支度をしながら僕は一か八か思い切ってウルドに言った。

「えーと、実はおとつい、転んで頭を打ってからちょっとおかしくて……」
「な……どうしてすぐ言わないんだ……! どこをぶつけたんだい!?」

 ウルドが青ざめて僕の頭に手を伸ばす。

「いや、痛くはないんだけどその……時々人の名前とかうまく思い出せなくて少し困ってて」

 なかなかに苦しすぎる言い訳だと思いつつ、ウルドの親切心に賭けてみる。すると彼はいぶかしげな顔をしながらも「それは……確かに頭を強く打つとそうなることもあると聞いたことがあるよ」と言った。

「御医師に診てもらうかい? アルバハル様にお願いをすればなんとか……」
「いや、今は大丈夫。それよりウルドに教えてもらいたいことがあるんだ」

 そうして僕はここでの下級神官の仕事についてや神殿行事、上司にあたる中級神官のことなどを一通り確認する。そしてウルドがどういう経緯で下級神官になったのかも聞いてみた。すると昔流行り病で両親が亡くなった時に孤児院に引き取られたが、十二になってそこを出なければならなくなった時に神殿に入り下級神官になったのだと教えてくれた。

「負債を抱えて亡くなったわけではなかったからまだマシだよ。もしそうなら今頃私は奴隷として東の国辺りに売られていただろうね。あちらの方は十年ほど前に王朝が交代して以来、破竹の勢いで版図を広げていて常に人手不足だそうだから」

 そうウルドが話すのを複雑な気持ちで聞く。
 確か前の世界でウルドは奴隷としてアル・ハダールに買われる前は普通の暮らしをしていたと聞いた。そう、西の辺境へ出発する前のことだ。そして今ウルドは「負債を抱えて亡くなったわけではなかったから奴隷として売られずに済んだ」と言った。

 ウルドの前と同じ運命を辿らずに済んだのは、この世界が水不足にならなかったからだろうか。そうだといいな、と心の中で思う。
 それから話を変えるようにできるだけさりげない口調で尋ねた。

「あの……神武官っていうのは? 神殿って基本的に非武装じゃなかったっけ」
「いいや、いざという時に神殿や信徒たちを守る手段がないといけないだろう?」
「守る?」

 ウルドの話によると、水の心配がなくなったこの大陸ではアル・ハダール、イスタリア、エイレケの三つの国のパワーバランスはなかなか微妙なところらしい。
 それぞれ表立って敵対してはいないが、北は鉱物資源が豊かで南は農耕や牧畜が盛んなアル・ハダールと海外貿易で大きな富を得ているイスタリアに対して、乾燥地帯が多くこれといって目立った産業のないエイレケが虎視眈々と両国の利権を狙っているらしい。
 ちょうど三国のど真ん中にあるダーヒル神殿領は、軍事上だけでなく交易の上でもぜひ押さえておきたい拠点になる。

 もちろん完全中立の立場である神殿はどの国にも組みすることはないが、それでも隙があれば何をしてくるかわからないエイレケやイスタリアに対抗するために、昔から神武官と呼ばれる神殿長直属の護衛騎士たちがいるのだそうだ。
 彼らは国境の要所や神殿の警備、そして神殿を取り巻く町の警備隊の監督もしていて、その合間に厳しい訓練も課せられているらしい。

 その話を聞いて、他国の利を欲しがるエイレケの性根は歴史を改変しても変わらないのだという事実に思わずガックリとくる。

「どうしたんだい? カイ」
「う、ううん、なんでもない……」

 それからウルドに「頭を打ったのだから何か異変があったら必ず言うように」と念を押され、足早に朝の努めに向かった。


     ◇   ◇   ◇


 その日の朝もダルガートは夜番明けに食堂にやって来た。他の神武官たちと同じく一人でテーブルにつき、黙々と食事をとってすぐに席を立つ。すれ違いざま彼の手の甲に赤く擦りむいたような跡があるのに気づいて、彼の仕事は厳しいものなのだろうかと考える。
 相変わらず冷ややかで感情の見えない横顔をこっそり目で追いながら、僕は彼と二人で最後に食事をとった時のことを思い出していた。

 イスタリアへ向かう途中、ちょうどこのダーヒルの神殿で僕はダルガートと二人で朝ごはんを食べた。
 ウルドや傍仕えたちの目もあるから食事の最中は特にあれこれ話をしたりはしないけれど、それでも見た目にそぐわぬ彼の静かな食べ方を盗み見るのは楽しかったし、黙っていてもすぐ近くに感じる彼の存在感が嬉しかったのを今でもよく覚えている。

 ダルガートの顔をちゃんと見たい。あの低い声をそばで聞きたい。大きくてぶ厚い手に触れて、触れられて、苦しいくらい強く抱きしめられたい。そしてあの少し意地悪そうでシニカルな笑みを向けて欲しい。
 でもこの世界ではどれも叶わぬことだ。
 昨日のようにまるで路傍の石でも見るような歯牙にもかけぬ目をされたらと思うと怖くて話しかける勇気も出なかった。

 いっそあまり会わない方がいいのかも、とも思う。こんな風にちらちら彼を見ていては明らかに挙動不審だ。それに自分で引き起こしたこととはいえこの状況はやっぱり辛い。

 なのにその日の晩の食事時、またしてもダルガートに出くわした。けれどその時僕は給仕をしながらサイードさんのことを考えていて半分上の空だった。というのももうすぐこの神殿で50年に一度の大祭があり、アル・ハダールや他の国からも王族やそれに近い人たちが巡礼に来るだろうと耳にしたからだ。

 サイードさんもちゃんとこの世界にいるだろうか。アル・ハダールでカハル皇帝と一緒にいるのかな。それとも生まれ故郷のダウレシュに?
 会いたいな。多分僕のことは覚えていないだろうし、会ってもダルガートの時のように辛くなるだけだろうか。それでもサイードさんが元気にしているかどうかだけでも知りたい。
 そんなことを考えている時にダルガートが食事をしにやってきた。
 夜の食事は神殿では一番量が多く豪華だ。といってもいつもの種なしパンとスープに薄めたワインとチーズがつくくらいだけれど。

「カイ、スープは足りそうかい?」

 ウルドに耳打ちされて鍋を見ると、まずい、微妙に少ない気がする。だが今から厨房に取りに行く時間もない。なにせこの炎天下の中一日中街を警邏したり神殿の塔から哨戒したり訓練をしたりしている神武官はものすごく腹が減っている。だから食事を出すのが少しでも遅れるとものすごく怒られてしまうのだ。

「ええと、なんとかします」

 あれから僕は年上で先輩神官にあたるウルドに敬語で話すように気を付けている。そうした言葉遣いの混乱も僕が頭を打ったせいだとウルドは思っているらしい。

 頭の中で鍋に残っているスープを今いる神武官の人数で割ってなんとか均等に盛り付け、急いでパンとチーズを配る。チーズは僕も大好きな山羊のチーズで、両手ほどの丸くて平べったい塊をナイフで切ってパンに乗せるのだ。
 以前サイードさんに貰ったナイフは新しい世界に来た時にはなくなっていた。だから下級神官に配られるあまり質の良くないナイフをなんとか研いで使っている。

 テーブルについている神武官たちのパンに順番にチーズを乗せながら、まだ僕は「やっぱりスープ少なかったかな。今から取りに行って後からでも追加でよそって回るべきかな」とぐだぐだ考えていた。
 そんな時にダルガートの番になって、何も考えずただ「そういえばダルガートもこのチーズ好きだったなぁ」と、他の人より大きくチーズを切り取って彼のパンの上に置いてしまった。
 そしてすぐに「しまった。ほかの神武官にバレたら怒られる!?」と慌てて素知らぬふりをする。なんとなく背中に突き刺さるような視線を感じながら、急いで厨房に逃げ戻った。
 普段の行いには気を付けなければいけないと昨夜自分に言い聞かせたばかりなのに、と反省する。

 それから神官も神武官も全員食べ終わった後の食堂の隅でウルドや他の下級神官たちと一緒に残ったスープとパンとチーズを食べながら、あのアル・ハダールのオアシスで野宿をした時に焚火であぶって三人で食べたとろけるチーズの味を思い出していた。


     ◇   ◇   ◇


 そんな風にできるだけ目立たぬように神殿で日々の奉仕を繰り返していた時、思いがけない仕事が舞い込んできた。

「今日は儀式の間を清める。全員口を閉じ、沈黙の祈りを唱えながら従事するように」

 中級神官のアルバハルの指示に従ってウルドたちと入ったのは、なんと昔召喚の儀式が行われたあの広間だった。
 白い砂岩に青い幾何学模様が一面に描かれた高いドーム型の天井に、同じく青と白のコントラストが美しい柱と壁に思わず見とれてしまう。ああ、懐かしい。ここで僕は初めてサイードさんに会ったんだ。

「カイ、何を呆けた顔をしている」

 アルバハルの叱責に慌てて頭を下げると、命じられた通りに床や壁を拭き始めた。なんでももうすぐ行われる大祭での特別な祈りがここで行われるらしい。
 アルバハルがバルコニーを磨いている神官の元へ行った時、僕はそっと儀式の間の奥にあるあの巨大な球体を覗き込んだ。前に見た時は異なる角度で重なり合う三つの輪があったけれど今は何も見えない。
 その時、アルバハルの鋭い声が飛んできた。

「カイ! 何をしている! そこから離れよ!」

 僕たち下級神官をまとめているアルバハルという中級神官はなかなかに厳しい人だがとても公明正大な人だ。すぐに謝ろうとしたが、今は沈黙の祈りの真っ最中だ。実際に心の中で聖典の文句を唱えているかどうかはともかく声を出すのはご法度だ。せめて深々と頭を下げて謝ろうとした時、聞き覚えのある懐かしい声が耳に響いた。

「ご苦労じゃのう、皆の者」
「ムスタール神殿長様」

 アルバハルの声に皆が一斉にひざまずく。僕はドクドク脈打つ心臓を押さえながら必死に耳を澄ませた。

「儀式の間の準備は順調に進んでおるかの」
「はっ、予定通り明日までには清めが終わり、その後に神具や祭壇などを運び込む予定にございます」
「それは重畳」

 何度も聞いたことのある神殿長のその言葉に思わず口元が緩む。深く被ったジャヒーヤの陰からそっと視線を上げると、白く長い髭をたくわえ袖の長い白い神官服を身にまとった神殿長が記憶と変わらぬ姿で立っていた。
 良かった。この人も無事この世界に存在していた。これならサイードさんもヤハルもカハル陛下たちもみんなちゃんと元気に生きているに違いない。そう思って笑みを浮かべた時だった。

「おや……? そなたは……」

 神殿長の視線がこっちを向いていて、慌てて頭を下げてジャヒーヤで顔を隠す。

「カイ!」

 すぐさまアルバハルの声が飛んできたが、それを遮るように神殿長の声がした。

「よいよい。カイ……といったかのう。アルバハル、少し彼を借りていくぞ」
「は……っ」

 アルバハルに目で「行け」と指示される。心配そうにこちらを見ているウルドに小さく頷くと、僕は落ち着かない気持ちを押さえて彼の後について行った。

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