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【最終章】新世界
129 世界の『ものさし』
一度も振り向かず歩いていく神殿長の後ろを歩きながら、僕はごくりと唾を飲み込む。
あの球体に近づいたのを咎められるのだろうか。
確かに以前はあの球体に触れられるのは神子である自分だけで、他の人たちはなぜか近づこうともせず、それは神殿長でさえも同じだった。ここではあれは誰も触れてはいけない物だったのかもしれない。
ピアスが見えぬようにジャヒーヤを深くかぶり直しながらついて行くと、神殿長が入って行った部屋を覗き込んで息を呑んだ。それは僕が初めてこの世界に来た時に最初に案内された、そしてあの神子たちの手紙の存在を教えられた部屋だった。
「そこに掛けなさい」
神殿長に言われて、よそではあまり見かけることのないソファーにそろそろと腰を下ろす。向かいに座った神殿長はしばらくじっと僕の顔を見た後、ふと微笑んで言った。
「ご無沙汰じゃのう、と言っていいものか。とにかくご無事で何よりじゃ、神子殿」
それを聞いて信じられない思いで問い返す。
「……っ、ぼ、僕を覚えてらっしゃるんですか……!?」
「ああ、覚えておるとも。そうか、今はもう《慈雨の神子》ではないのじゃな。界渡りの君よ」
そう言って神殿長は何かに思いを馳せるかのように目を細めた。
「あ、あの、どうして僕がわかるんですか? あれから世界が変わったこともご存知なんですか?」
「いやはや、正直儂もよくは理解できてはおらぬ。だが先ほどそなたを見てふと思い出したのじゃ。あの儀式の間にある大きな水晶玉に張り付くようにして中を覗き込み、儂らにはわからぬ不思議な力を使うそなたの姿をのう」
にわかに湧き上がる喜びと興奮に思わずぎゅっと拳を握りしめる。
「で、でもどうして……? 僕はこの世界の干ばつをなくすこと以外は何もしてないはずなのに……」
そう呟くと、神殿長はまたしばらく考えてから答えた。
「ふうむ……もしかして半年ほど前にそなたは何かをしたのかの?」
「今って暦の上ではいつなんですか?」
「ヒワドの月二十四日目じゃ」
ヒワドの月といえば確かに僕がイスタリアにいたワヒルの月から数えて半年後だ。つまり神殿長が何かを感じたのと僕が砂漠の塔でこの世界を巻き戻したのとは確かに時期が一致する。なぜ半年間の誤差が生じたのかはわからないが、こちらの世界で目覚めた時髪が伸びていたのはそのせいだったのかな、とふと思う。
「はい、ワヒルの月の頃にこの世界に変化が起きて、300年前から始まったという干ばつや渇水が元からなかったことになったはずです」
「確かに今この大陸は十二分に水に恵まれており、これまでも地が乾いたという記録はなかったはずじゃ。なんとも不思議なことじゃのう……」
「あの、神殿長様は前の世界のことを覚えてらっしゃるんですよね?」
「どうやらそのようじゃ。こことよく似た違う世では大地は干上がり神の恵みも絶え、儂らは六人目の《慈雨の神子》を召喚してそなたがやって来た。ふむ、今こうして話をしておるとだんだんとかつての記憶が蘇ってくる感じじゃの」
「でもどうして……」
すると神殿長は顎に手をやり、目を瞑った。
「……ああ、なんとなく思い出してきた。どうやらこれまでもこの世界は何度か神の手によって改変されたことがあったようじゃ」
「えっ、ほんとですか!?」
深く考え込むように低くうなりながら、神殿長がまた口を開く。
「……そうじゃ。そしてその改変した結果を確かめ差異の大小を図るためには『ものさし』が必要で、その『ものさし』は常に不変でなければならぬ。その『ものさし』の役目を果たすのが代々この神殿を預かる神官長なのじゃよ」
え、ものさし? どういう意味だ?
「……すみません、よくわかりません」
「ふむ、儂もじゃ」
とおどけたような顔で言う神官長と目を見合わせて笑った。
「神のなさることは到底我ら唯人には理解できまい。今はそなたもこの世界も無事であったことを喜ぶとしよう」
「……はい、ありがとうございます」
あの男を『神様』と呼ぶのは正直気に食わないが、今それを言ってもどうしようもない。
それから神殿長はいつかのように手ずからお茶を淹れてくれた。
「他の神子たちはどうなったんでしょう」
「少なくとも神子として召喚された記録はないはずじゃ。ここもほれ」
そう言って隠し部屋だった場所を見せてくれたが、かつてそこにあった神子たちの遺品や手紙の入った箱はなかった。
「今はただの書庫として使われておる」
ということはあの男がちゃんと仕事をして、彼らは無事元の世界に戻れたということだろうか。
あの時、とっさに僕は元の世界に戻るかどうかを五人の神子たちの意思に任せた。それはもしかしたらここに残りたいと思う人もいるかもしれないと思ったからだ。
三人目の神子だった加奈さんはどうしただろうか。彼女はイシュクであった女性騎士と友情を築き、ここで結婚して子どもにも恵まれたと聞いている。
もしも彼女がここに残ることを選んだとしたら、いつかまたイスタリアへ行けばそれがわかるかもしれない。
ついあれこれと考え込んでしまった僕にお茶のお替りを注ぎながら、神殿長は間もなく行われる50年に一度の大祭についても話してくれた。
「《サフィーナの祭り》というものじゃ。前の世では50年に一度といえば神子の召喚の儀式じゃったが、今の世では太陽神ラハルとその妻である雨の神サフィーナを讃えこの先50年の恵みを願う儀式となっておる」
「やはり国中から巡礼者が集まるのでしょうか?」
「かつての神子の召喚の折のように神殿も町も人で溢れかえり、それはそれは賑やかなものじゃ。各国を代表して王族や重臣たちもここを訪れるぞ」
それを聞いて僕は思い切って神殿長に尋ねてみた。
「あの、サイードさんを覚えていらっしゃいますか? 以前僕が《選定の儀式》で選んだアル・ハダールの騎士の」
「ふーむ……おお、覚えておるとも。そなたがずいぶんと懐いておったあの騎士じゃろう。覚えてはおるが、今の世で会うたことはないの」
「やっぱりそうですか……ならやっぱり生まれ故郷のダウレシュにいるのかも」
それともこの世界でもカハル皇帝とともにアル・ハダールにいるのだろうか。
すると神殿長がふと閃いたような顔で言った。
「そうそう、確か前の世ではそなたはアル・ハダールへ行ったのじゃったな。ならば今度の祭りで彼も来るやもしれぬし、その一行におらぬとしても本国にいるのか尋ねることはできよう。恐らくあの国は皇帝陛下ご自身がおいでになることと思う。普通は君主自らここまで来ることはなかなかないのじゃが、あの御仁は少々変わり者じゃからのう」
「ええ、よく知ってます」
思わずそう答えてまた二人で笑った。
◇ ◇ ◇
それからまたしばらく代わり映えのない毎日が続いた。
夜明け前に寝床から起き出し、朝の祈りをすませ厨房へと走る。空腹をこらえて百人を超える神官や神武官たちへの給仕をし、最後に残ったものを慌てて掻き込んで次の仕事に移る。
ダルガートは夜の警護に当たることが多いらしく、度々夜番明けに食堂に姿を見せた。彼の顔を見たらまた動揺してしまいそうで、僕は常にジャヒーヤを深くかぶり、素知らぬ顔で一番大きなパンを選んで彼の皿に入れつつ、夜はこっそり大き目に切ったチーズを乗せた。
歴史が変わって、ダルガートが僕のことをまったく覚えていないのはもう仕方がない。
《慈雨の神子》というある意味チートな称号をなくしてしまった僕は、今ではただの身寄りのない下級神官だ。それでも僕が努力すれば彼とまた友達になれるかもしれない。
『仲良くなりたいなと思う相手に給食を多く盛り付けてあげる』という小学生レベルの方法しか思いつかない自分に呆れてしまうが元コミュ障にはこれが精いっぱいだ。
そして彼が食堂から出ていく背中をこっそり盗み見ては、いつか挨拶くらいできたらいいなぁと考えた。
それから十日ほど後に《サフィーナの祭り》があった。
僕たち下級神官はひたすら朝から晩まで他の神官や三国から巡礼に訪れた王族や重臣、彼らをとりまく文官や騎士たちの世話に追われ続けた。
祭りの間は町での奉仕活動は一時中断し、ずっと地下の厨房に籠って芋の皮をむいたり野菜を洗ったりして厨房担当の下級神官たちを手伝う。僕たち下級神官は各国からの賓客がいる上の階や祈りの間へ行くことはできず、その姿を見ることもできない。
けれど階下で食事をとる彼らの傍仕えたちの話では、かつてと同じくイスタリアからはレティシア王女が、エイレケからは王弟のワズーフ、そしてアル・ハダールからはやはりあのカハル皇帝が少数精鋭の近衛騎士たちと共にはるばるやって来ているようだった。
神殿長をして「少々変わり者」と言わしめたカハル陛下は、早朝突然厩に現れては神殿の駱駝を乗り回したり、儀式の合間に姿をくらましてこっそり国境の様子を見に行ったりしているようだ。夜明け前のとんでもない時間にたたき起こされたという厩番たちの愚痴を聞きながらつい笑ってしまいそうになって困った。
一度だけ、偶然神殿の裏を馬で駆け抜けるカハル陛下の姿を見かけたことがあったけれど、その後ろに付き従っている護衛の騎士がダルガートではないことがなんだかひどく寂しかった。
一つだけ嬉しいことがあった。カハル陛下の一行の中にあのヤハルがいたのだ。
警護の合間を縫って交代で食事をする騎士たちの給仕をしていた時にその姿を見つけて思わず「あっ」と声を漏らしてしまった。
ウルドと一緒にテーブルにスープと焼いた肉にチーズ、そして種なしパンを並べると彼は頷いて「かたじけない」と言ってくれた。神殿の中では一番の位の低い下級神官の僕たちにそんなことを言ってくれる人はなかなかいない。
そういえば以前も彼は奴隷身分のウルドに丁寧に接してくれていたなぁと思い出して少し心が温かくなる。ウルドもにっこり笑って肉を一切れ余分に彼の皿に乗せていた。
その後他の騎士たちへの給仕の合間に、哨戒を終えたダルガートたちがやって来た。いつものようにジャヒーヤを深く被って自分の手元とテーブルだけを見てスープの器とパンを置いた時、座っている彼のいかにも厚くて強そうな肩と黒革の胴鎧に包まれた胸元がわずかに見えた。思わずパンを持った籠を持つ手に力が入る。
あのね、今日ヤハルに会ったんだよ。元気そうで、ちっとも変っていなかったんだ。
でもサイードさんにはまだ会えてないよ。どこにいるんだろうね。
ダルガートに話したい、聞いてもらいたい言葉を心の中で呟く。
「カイ、どうしたんだい?」
後ろからウルドの声がして、慌てて種なしパンをもう一つ彼の皿に置いてその場を立ち去った。
翌日、またヤハルにこっそり肉のおかわりを差し出しつつアル・ハダールはどんな国なのか聞いてみた。すると彼は向かうところ敵なしだという母国の騎兵団や彼の憧れの団長さんのことを話してくれた。もしかして、とドキドキしながら聞いてみたがどうやらそれはサファル将軍のことのようで、落胆を見せないように誤魔化すのが少し大変だった。
その晩、カハル皇帝に直接聞いてくれたらしい神殿長から「かの人は東の国にはいないようだ」との伝言を受け取った。
あの球体に近づいたのを咎められるのだろうか。
確かに以前はあの球体に触れられるのは神子である自分だけで、他の人たちはなぜか近づこうともせず、それは神殿長でさえも同じだった。ここではあれは誰も触れてはいけない物だったのかもしれない。
ピアスが見えぬようにジャヒーヤを深くかぶり直しながらついて行くと、神殿長が入って行った部屋を覗き込んで息を呑んだ。それは僕が初めてこの世界に来た時に最初に案内された、そしてあの神子たちの手紙の存在を教えられた部屋だった。
「そこに掛けなさい」
神殿長に言われて、よそではあまり見かけることのないソファーにそろそろと腰を下ろす。向かいに座った神殿長はしばらくじっと僕の顔を見た後、ふと微笑んで言った。
「ご無沙汰じゃのう、と言っていいものか。とにかくご無事で何よりじゃ、神子殿」
それを聞いて信じられない思いで問い返す。
「……っ、ぼ、僕を覚えてらっしゃるんですか……!?」
「ああ、覚えておるとも。そうか、今はもう《慈雨の神子》ではないのじゃな。界渡りの君よ」
そう言って神殿長は何かに思いを馳せるかのように目を細めた。
「あ、あの、どうして僕がわかるんですか? あれから世界が変わったこともご存知なんですか?」
「いやはや、正直儂もよくは理解できてはおらぬ。だが先ほどそなたを見てふと思い出したのじゃ。あの儀式の間にある大きな水晶玉に張り付くようにして中を覗き込み、儂らにはわからぬ不思議な力を使うそなたの姿をのう」
にわかに湧き上がる喜びと興奮に思わずぎゅっと拳を握りしめる。
「で、でもどうして……? 僕はこの世界の干ばつをなくすこと以外は何もしてないはずなのに……」
そう呟くと、神殿長はまたしばらく考えてから答えた。
「ふうむ……もしかして半年ほど前にそなたは何かをしたのかの?」
「今って暦の上ではいつなんですか?」
「ヒワドの月二十四日目じゃ」
ヒワドの月といえば確かに僕がイスタリアにいたワヒルの月から数えて半年後だ。つまり神殿長が何かを感じたのと僕が砂漠の塔でこの世界を巻き戻したのとは確かに時期が一致する。なぜ半年間の誤差が生じたのかはわからないが、こちらの世界で目覚めた時髪が伸びていたのはそのせいだったのかな、とふと思う。
「はい、ワヒルの月の頃にこの世界に変化が起きて、300年前から始まったという干ばつや渇水が元からなかったことになったはずです」
「確かに今この大陸は十二分に水に恵まれており、これまでも地が乾いたという記録はなかったはずじゃ。なんとも不思議なことじゃのう……」
「あの、神殿長様は前の世界のことを覚えてらっしゃるんですよね?」
「どうやらそのようじゃ。こことよく似た違う世では大地は干上がり神の恵みも絶え、儂らは六人目の《慈雨の神子》を召喚してそなたがやって来た。ふむ、今こうして話をしておるとだんだんとかつての記憶が蘇ってくる感じじゃの」
「でもどうして……」
すると神殿長は顎に手をやり、目を瞑った。
「……ああ、なんとなく思い出してきた。どうやらこれまでもこの世界は何度か神の手によって改変されたことがあったようじゃ」
「えっ、ほんとですか!?」
深く考え込むように低くうなりながら、神殿長がまた口を開く。
「……そうじゃ。そしてその改変した結果を確かめ差異の大小を図るためには『ものさし』が必要で、その『ものさし』は常に不変でなければならぬ。その『ものさし』の役目を果たすのが代々この神殿を預かる神官長なのじゃよ」
え、ものさし? どういう意味だ?
「……すみません、よくわかりません」
「ふむ、儂もじゃ」
とおどけたような顔で言う神官長と目を見合わせて笑った。
「神のなさることは到底我ら唯人には理解できまい。今はそなたもこの世界も無事であったことを喜ぶとしよう」
「……はい、ありがとうございます」
あの男を『神様』と呼ぶのは正直気に食わないが、今それを言ってもどうしようもない。
それから神殿長はいつかのように手ずからお茶を淹れてくれた。
「他の神子たちはどうなったんでしょう」
「少なくとも神子として召喚された記録はないはずじゃ。ここもほれ」
そう言って隠し部屋だった場所を見せてくれたが、かつてそこにあった神子たちの遺品や手紙の入った箱はなかった。
「今はただの書庫として使われておる」
ということはあの男がちゃんと仕事をして、彼らは無事元の世界に戻れたということだろうか。
あの時、とっさに僕は元の世界に戻るかどうかを五人の神子たちの意思に任せた。それはもしかしたらここに残りたいと思う人もいるかもしれないと思ったからだ。
三人目の神子だった加奈さんはどうしただろうか。彼女はイシュクであった女性騎士と友情を築き、ここで結婚して子どもにも恵まれたと聞いている。
もしも彼女がここに残ることを選んだとしたら、いつかまたイスタリアへ行けばそれがわかるかもしれない。
ついあれこれと考え込んでしまった僕にお茶のお替りを注ぎながら、神殿長は間もなく行われる50年に一度の大祭についても話してくれた。
「《サフィーナの祭り》というものじゃ。前の世では50年に一度といえば神子の召喚の儀式じゃったが、今の世では太陽神ラハルとその妻である雨の神サフィーナを讃えこの先50年の恵みを願う儀式となっておる」
「やはり国中から巡礼者が集まるのでしょうか?」
「かつての神子の召喚の折のように神殿も町も人で溢れかえり、それはそれは賑やかなものじゃ。各国を代表して王族や重臣たちもここを訪れるぞ」
それを聞いて僕は思い切って神殿長に尋ねてみた。
「あの、サイードさんを覚えていらっしゃいますか? 以前僕が《選定の儀式》で選んだアル・ハダールの騎士の」
「ふーむ……おお、覚えておるとも。そなたがずいぶんと懐いておったあの騎士じゃろう。覚えてはおるが、今の世で会うたことはないの」
「やっぱりそうですか……ならやっぱり生まれ故郷のダウレシュにいるのかも」
それともこの世界でもカハル皇帝とともにアル・ハダールにいるのだろうか。
すると神殿長がふと閃いたような顔で言った。
「そうそう、確か前の世ではそなたはアル・ハダールへ行ったのじゃったな。ならば今度の祭りで彼も来るやもしれぬし、その一行におらぬとしても本国にいるのか尋ねることはできよう。恐らくあの国は皇帝陛下ご自身がおいでになることと思う。普通は君主自らここまで来ることはなかなかないのじゃが、あの御仁は少々変わり者じゃからのう」
「ええ、よく知ってます」
思わずそう答えてまた二人で笑った。
◇ ◇ ◇
それからまたしばらく代わり映えのない毎日が続いた。
夜明け前に寝床から起き出し、朝の祈りをすませ厨房へと走る。空腹をこらえて百人を超える神官や神武官たちへの給仕をし、最後に残ったものを慌てて掻き込んで次の仕事に移る。
ダルガートは夜の警護に当たることが多いらしく、度々夜番明けに食堂に姿を見せた。彼の顔を見たらまた動揺してしまいそうで、僕は常にジャヒーヤを深くかぶり、素知らぬ顔で一番大きなパンを選んで彼の皿に入れつつ、夜はこっそり大き目に切ったチーズを乗せた。
歴史が変わって、ダルガートが僕のことをまったく覚えていないのはもう仕方がない。
《慈雨の神子》というある意味チートな称号をなくしてしまった僕は、今ではただの身寄りのない下級神官だ。それでも僕が努力すれば彼とまた友達になれるかもしれない。
『仲良くなりたいなと思う相手に給食を多く盛り付けてあげる』という小学生レベルの方法しか思いつかない自分に呆れてしまうが元コミュ障にはこれが精いっぱいだ。
そして彼が食堂から出ていく背中をこっそり盗み見ては、いつか挨拶くらいできたらいいなぁと考えた。
それから十日ほど後に《サフィーナの祭り》があった。
僕たち下級神官はひたすら朝から晩まで他の神官や三国から巡礼に訪れた王族や重臣、彼らをとりまく文官や騎士たちの世話に追われ続けた。
祭りの間は町での奉仕活動は一時中断し、ずっと地下の厨房に籠って芋の皮をむいたり野菜を洗ったりして厨房担当の下級神官たちを手伝う。僕たち下級神官は各国からの賓客がいる上の階や祈りの間へ行くことはできず、その姿を見ることもできない。
けれど階下で食事をとる彼らの傍仕えたちの話では、かつてと同じくイスタリアからはレティシア王女が、エイレケからは王弟のワズーフ、そしてアル・ハダールからはやはりあのカハル皇帝が少数精鋭の近衛騎士たちと共にはるばるやって来ているようだった。
神殿長をして「少々変わり者」と言わしめたカハル陛下は、早朝突然厩に現れては神殿の駱駝を乗り回したり、儀式の合間に姿をくらましてこっそり国境の様子を見に行ったりしているようだ。夜明け前のとんでもない時間にたたき起こされたという厩番たちの愚痴を聞きながらつい笑ってしまいそうになって困った。
一度だけ、偶然神殿の裏を馬で駆け抜けるカハル陛下の姿を見かけたことがあったけれど、その後ろに付き従っている護衛の騎士がダルガートではないことがなんだかひどく寂しかった。
一つだけ嬉しいことがあった。カハル陛下の一行の中にあのヤハルがいたのだ。
警護の合間を縫って交代で食事をする騎士たちの給仕をしていた時にその姿を見つけて思わず「あっ」と声を漏らしてしまった。
ウルドと一緒にテーブルにスープと焼いた肉にチーズ、そして種なしパンを並べると彼は頷いて「かたじけない」と言ってくれた。神殿の中では一番の位の低い下級神官の僕たちにそんなことを言ってくれる人はなかなかいない。
そういえば以前も彼は奴隷身分のウルドに丁寧に接してくれていたなぁと思い出して少し心が温かくなる。ウルドもにっこり笑って肉を一切れ余分に彼の皿に乗せていた。
その後他の騎士たちへの給仕の合間に、哨戒を終えたダルガートたちがやって来た。いつものようにジャヒーヤを深く被って自分の手元とテーブルだけを見てスープの器とパンを置いた時、座っている彼のいかにも厚くて強そうな肩と黒革の胴鎧に包まれた胸元がわずかに見えた。思わずパンを持った籠を持つ手に力が入る。
あのね、今日ヤハルに会ったんだよ。元気そうで、ちっとも変っていなかったんだ。
でもサイードさんにはまだ会えてないよ。どこにいるんだろうね。
ダルガートに話したい、聞いてもらいたい言葉を心の中で呟く。
「カイ、どうしたんだい?」
後ろからウルドの声がして、慌てて種なしパンをもう一つ彼の皿に置いてその場を立ち去った。
翌日、またヤハルにこっそり肉のおかわりを差し出しつつアル・ハダールはどんな国なのか聞いてみた。すると彼は向かうところ敵なしだという母国の騎兵団や彼の憧れの団長さんのことを話してくれた。もしかして、とドキドキしながら聞いてみたがどうやらそれはサファル将軍のことのようで、落胆を見せないように誤魔化すのが少し大変だった。
その晩、カハル皇帝に直接聞いてくれたらしい神殿長から「かの人は東の国にはいないようだ」との伝言を受け取った。
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