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【最終章】新世界
136 草原の狩り
翌朝、夜明けとともに起き出し山羊の乳しぼりを手伝った。
僕の方からそれを申し出るとダルガートが「できるのか?」というような目をしていたので、周りに聞こえぬように小さく「昔、サイードさんに教えて貰ったんだ」と答える。するとダルガートはしばらく僕を見てから馬たちの方を手伝いに行ってしまった。
こっそりサイードさんの様子を見ていると、右腕がないとは思えないほどなんでも器用にこなしているのに驚いた。口笛一つで馬を呼び寄せ、蹄を見てやり水を飲ませ背中を掻いてやる。うろうろと群れからはぐれてやってくる羊の尻を叩いて追い返し、まとわりつく妹たちの頭を撫で、水を運ぼうとする母親に代わって重い水桶を抱え上げる。
たとえ槍や剣なんてもっていなくてもカッコいい、と思わず見惚れてしまった。
以前西の辺境へ行く時に陛下の護衛として一緒に来ていたダルガートを見た時も思ったけれど、自分の役目を黙々と果たす男の姿は文句なくカッコイイと思う。これは自分も頑張らねば。
以前、初めてダーヒル神殿領からアル・ハダールへ向かう途中に泊めて貰った家で、サイードさんは僕に山羊や馬の世話を教えてくれた。それを思い出しながら、サイードさんの妹たちと一緒に逆さにした木箱に腰かけて乳を桶に集めた。
それから温めた乳と種なしパン、山羊のチーズで朝食をとった後、またそれぞれの仕事に戻る。
僕は馬を一頭借りてサイードさんとダルガートと一緒に狩りに行くことにした。途中まではサイードさんのお父さんと弟のアディルが羊たちを連れて水場へ行くのに同行し、そこで別れるらしい。
狩りに行くとサイードさんに聞いて、とっさに僕は片手でどうやって獲物を仕留めるのだろうかと疑問に思った。すると準備を終えて幕家から出てきたサイードさんは槍と一緒に弓と矢筒を背負っていて驚いた。片手で弓なんて使えるのだろうか。
家畜を追いながら大体鐘一つ分ほどの時間で水場に着き、そこで彼らと別れて三人でさらに先へ進む。
ちなみに今日のダルガートは胴鎧とその上に羽織る白い神武官の上着は脱いで普通の恰好をしている。さすがにあの恰好で狩りに行って獣の血や何かで汚すといけないからだ。腰にはいつもの大きなシャムシールを下げている。
僕もこれ幸いと邪魔なジャヒーヤを脱ぎたかったけれど、ピアスを隠すためには諦めるしかない。
それにしても神武官の上着がないとダルガートはまるでどこかの山賊のようだ。思わず浮かんだ想像に一人で吹き出しそうになる。ああ、今これをサイードさんに話せたらいいんだけれどな。きっと笑って「いや、山賊の方がずっとかわいげがあるだろう」と言ってくれるはずだ。
イスタリアの南部に当たるこの地方に来るのは初めてだったが、本当に今まで僕が見てきた景色とまったく違うことに驚かされる。大地は見渡す限り青々と牧草が茂り、空と雲がいつも以上に高く感じる。昔テレビで見たモンゴルの草原を彷彿とさせた。
本来なら中央アジアのこの辺りはもっと乾燥した地域なのだろうが、もうここはなんでもアリな世界なのだとわかっている。だから僕は素直にこの景色や状況を楽しむことにした。
「いたぞ」
ふと風に乗ってサイードさんの声が聞こえる。するとダルガートも彼と同じ方向を見た。僕がどれだけ目を凝らしても何も見えないけれど、二人は何かに気づいているらしい。邪魔にならないように馬を少し後ろに下がらせると、サイードさんが手綱を離して背負っていた弓と矢を取った。
驚くことにサイードさんは馬体を挟んだ両足だけで進路と速度を操れるようだ。そして左手で弓と矢尻の上を持ち、口で矢羽根を咥えて矢をつがえる。その時、僕の目にもようやく前方を走る野兎の姿が見えた。
ビィイィン! と鋭く弦が鳴り矢が放たれる。すると野兎の身体は跳ね飛ばされたように宙を舞って地面に落ちた。
「見事」
ダルガートが呟く声が聞こえる。確かにこれだけ距離があって動いている小さな的に、口で矢を引いて当てるなんて凄すぎる。しかもあんなに目の近くで弦がしなるのに怖くないのだろうか。するとサイードさんは素早く第二矢をつがえて再び放った。
彼が立て続けに三匹の野兎を仕留めるのを感心して眺めながら、僕は馬を止めて野兎を回収した。サイードさんの矢は、多分口で咥えて射るために普通の矢と少し違った形をしている。きっとこれは再利用するだろうから慎重に野兎の身体から抜いて集めた。
獲物を鞍に括りつけて急いで後を追うと、今度はダルガートが別の獲物を追っていた。
「え、なんだあれ?」
見ると茶色のもっと大きな獣が飛び跳ねるように駆けているのが見える。それを後方からサイードさんが矢で狙い、ダルガートは左から回り込もうとしているようだった。
まっすぐに走る野兎と違って微妙に身体が揺れる獣の足をサイードさんが射た矢がかすめる。一瞬ぐらり、と身体を傾けながらもまだ走り続ける獣にダルガートが追いつき、抜いたシャムシールをその首めがけて振り下ろした。
「見事だ」
馬を寄せてサイードさんがダルガートに言う。あ、笑ってる。再会してから初めて見たサイードさんの笑顔に思わず見惚れてしまった。彼が僕の方を向いた時にはもうその笑みは消えてしまっていたけれど、それでも嬉しくて胸がいっぱいになる。
それにしても僕が見たサイードさんの最初の笑顔がダルガートへのものだとは。別にいいんだけど羨ましいことこの上ない。
「これは……鹿か何かですか?」
ずいぶんと特徴的な大きな角がある頭を見て首をかしげると、サイードさんが教えてくれた。
「いや、これはガゼルだ」
「食べられますか?」
「もちろん」
サイードさんは弓を背負い直してガゼルの後ろ足を持ち上げる。
「このまま血抜きをして持ち帰ろう。野兎は今食べてしまえばいい。向こうに別の水場がある」
片腕のサイードさんに代わってダルガートがガゼルを馬に乗せ、三人で水のある場所へ移動した。そこにはキラキラと輝く小川が流れていて木や茂みもある。本当にダウレシュの地がよい土地であることを実感した。
サイードさんに言われてダルガートがガゼルの足を縄でくくり、木の一番太い枝に逆さに吊るす。そうやって完全に血抜きをするらしい。さすがに力仕事すぎて手伝えそうにもないので僕は馬の影に隠れてジャヒーヤを深く被り直した。正直邪魔なことこの上ないのだけれど仕方がない。
それに町で奉仕している間にわかったことだが、この世界ではアルダ教の神官は一種特別な立場にある。下級神官はそうでもないが、中級・上級神官はどの国でも尊敬され丁重に扱われる。そのための身分の証明となるのがジャヒーヤだ。
これを被っていればある程度の身の安全は保証され、そう無下に扱われることもない。大きな街から離れたこういう地方では特にそうだ。
神官は武器を持つことを禁じられている。だから常にジャヒーヤは被っておいたほうがいい。
僕は落ちてくる裾を払いのけながら川で水を汲み、火をおこした。そして湯沸かしを掛け、サイードさんの家から貰ってきたパンを温めている間に野兎を捌く。心臓を地母神ハラーラに捧げてから肉を切り分けていると、上からサイードさんの声が降ってきた。
「それはあまり良いナイフではないな」
そう言ってサイードさんが僕の隣に膝をつく。暇を見つけて厨房で砥石を借りて研いではいるが、確かに切れ味は良くないし強度も足りない。けれど下級神官に支給されるナイフなどそんなものだ。
あまりきれいに剥ぎ取れなかった皮を見て昔サイードさんに貰ったナイフを思い出す。ごくシンプルでなんの飾りもないものだったけれど本当にいいナイフだったと改めてわかった。
「これを使うといい」
そう言ってサイードさんが自分のナイフを腰から抜いて渡してくれた。それは昔僕にくれたものにそっくりで思わず言葉に詰まる。なんとか笑みを浮かべて「ありがとうございます」と言った。
残りの二羽も同じように捌き、三人でアル・ハダールのオアシスで野営をした時にサイードさんに教えてもらった通りに塩と昨夜野営したところで見つけて採ってきたハーブで軽く揉んでから串にさす。
「ずいぶん手馴れているな」
「野営には慣れてますから」
「ディーラの葉を使うのは我が一族の秘伝だと思っていたがそうではなかったようだ」
「いい香りですよね」
「ああ」
なんてことない会話が嬉しくてジャヒーヤの影で顔が緩んでしまう。野兎の捌き方もディーラの葉のことも全部サイードさんに教えてもらったんだよ、と言いたかったけれどもちろん我慢した。
そしてふと、町での奉仕以外で神殿から出ることがほとんどない下級神官が「野営に慣れている」などと言うのは不自然だったと気づいてハッとした。恐る恐る顔を上げるとサイードさんがじっと僕を見つめている。
けれどそれは昔のような、いかにも愛おしそうに見つめる目とは違って、静かに僕を観察し、見極めようとしている目だった。
ほんの少しの油断が命取りになるこの世界で、用心深さは生き延びるために必要不可欠だ。しかもサイードさんは族長の息子で、いずれこの地の氏族を束ねる人になるのだろう。
そんな人はきっと、目の前にいる相手がダウレシュの地に仇なす者かどうかを常に見張っているに違いない。
僕は自分に敵意がないことを分かってもらいたくて、勇気を出してもう少し話しかけてみた。
「この辺りは緑も豊かでいい土地ですね」
するとサイードさんは焚火から視線を戻して「ああ、その通りだ」と言った。その時少し離れたところで草を食んでいたサイードさんの馬がこっちへやってきた。自分から火の近くに来る馬は珍しいなと思っていたら、立ち上がったサイードさんに馬が甘えるように鼻を押しつけてきたので笑ってしまった。
「好かれてるんですね」
「こいつは特に甘えたがりで困る」
そう言いながらもかすかに笑みを浮かべて首を撫でてやるサイードさんの手つきはとても優しかった。
「やっぱり馬が一番好きですか」
そう尋ねると少し驚いたように僕を見た。慌てて「ええと、他にも羊や山羊もいるけど……」と付け加える。するとサイードさんは少し考えてから頷いた。
「そうだな。何か嫌なことがあったり心に思うことがあった時も馬に乗って走れば気持ちが晴れる」
「なるほど」
いかにもサイードさんらしい言葉に思わず微笑むと、馬の背を撫でながら彼が言った。
「それに馬は何度も俺を助けてくれた。俺が腕をなくしたのは、はぐれた山羊を追ってちょうどこの辺りまで来ていた時だった。見慣れぬ男たちがいて声を掛けるといきなり斬りつけてきた」
「そんな……っ」
その言葉に思わず息を呑む。
「すぐに応戦し三人は殺せたが一人は逃がした。その男に腕をやられた」
「その時、サイードさんは一人だったんですか」
「ああ。なんとか斬られた腕を縛り馬の背によじ上ったところで気を失った。気が付いたら家にいた。その馬が連れ帰ってくれたのだ。だから俺にとって馬は良い友人であり恩人でもある」
「……そうだったんですね……」
干ばつがなくても過酷な人生を歩まざるを得なかったサイードさんを思って唇を噛む。けれどサイードさんはいつもと変わらぬ口調で言った。
「腕は片方なくとも不自由なく暮らせている。だから問題ない」
強いな、と改めて思う。サイードさんだけでなくこの世界の人は皆、強い。
それと同時にサイードさんが今の生活に心から満足していることがはっきりとわかった。それだけでもここへ来て良かったと思う。
「その馬もサイードさんのことが好きだから、なんとしても助けようとしてくれたんですね、きっと」
そう言うとサイードさんの口の端に笑みが浮かんだ。彼は馬の首を軽く叩くと「ガゼルを解体してこよう」と言って歩き出す。つられて僕も立ち上がると、ダルガートが少し離れた場所で黙って僕たち二人を見ていた。
僕の方からそれを申し出るとダルガートが「できるのか?」というような目をしていたので、周りに聞こえぬように小さく「昔、サイードさんに教えて貰ったんだ」と答える。するとダルガートはしばらく僕を見てから馬たちの方を手伝いに行ってしまった。
こっそりサイードさんの様子を見ていると、右腕がないとは思えないほどなんでも器用にこなしているのに驚いた。口笛一つで馬を呼び寄せ、蹄を見てやり水を飲ませ背中を掻いてやる。うろうろと群れからはぐれてやってくる羊の尻を叩いて追い返し、まとわりつく妹たちの頭を撫で、水を運ぼうとする母親に代わって重い水桶を抱え上げる。
たとえ槍や剣なんてもっていなくてもカッコいい、と思わず見惚れてしまった。
以前西の辺境へ行く時に陛下の護衛として一緒に来ていたダルガートを見た時も思ったけれど、自分の役目を黙々と果たす男の姿は文句なくカッコイイと思う。これは自分も頑張らねば。
以前、初めてダーヒル神殿領からアル・ハダールへ向かう途中に泊めて貰った家で、サイードさんは僕に山羊や馬の世話を教えてくれた。それを思い出しながら、サイードさんの妹たちと一緒に逆さにした木箱に腰かけて乳を桶に集めた。
それから温めた乳と種なしパン、山羊のチーズで朝食をとった後、またそれぞれの仕事に戻る。
僕は馬を一頭借りてサイードさんとダルガートと一緒に狩りに行くことにした。途中まではサイードさんのお父さんと弟のアディルが羊たちを連れて水場へ行くのに同行し、そこで別れるらしい。
狩りに行くとサイードさんに聞いて、とっさに僕は片手でどうやって獲物を仕留めるのだろうかと疑問に思った。すると準備を終えて幕家から出てきたサイードさんは槍と一緒に弓と矢筒を背負っていて驚いた。片手で弓なんて使えるのだろうか。
家畜を追いながら大体鐘一つ分ほどの時間で水場に着き、そこで彼らと別れて三人でさらに先へ進む。
ちなみに今日のダルガートは胴鎧とその上に羽織る白い神武官の上着は脱いで普通の恰好をしている。さすがにあの恰好で狩りに行って獣の血や何かで汚すといけないからだ。腰にはいつもの大きなシャムシールを下げている。
僕もこれ幸いと邪魔なジャヒーヤを脱ぎたかったけれど、ピアスを隠すためには諦めるしかない。
それにしても神武官の上着がないとダルガートはまるでどこかの山賊のようだ。思わず浮かんだ想像に一人で吹き出しそうになる。ああ、今これをサイードさんに話せたらいいんだけれどな。きっと笑って「いや、山賊の方がずっとかわいげがあるだろう」と言ってくれるはずだ。
イスタリアの南部に当たるこの地方に来るのは初めてだったが、本当に今まで僕が見てきた景色とまったく違うことに驚かされる。大地は見渡す限り青々と牧草が茂り、空と雲がいつも以上に高く感じる。昔テレビで見たモンゴルの草原を彷彿とさせた。
本来なら中央アジアのこの辺りはもっと乾燥した地域なのだろうが、もうここはなんでもアリな世界なのだとわかっている。だから僕は素直にこの景色や状況を楽しむことにした。
「いたぞ」
ふと風に乗ってサイードさんの声が聞こえる。するとダルガートも彼と同じ方向を見た。僕がどれだけ目を凝らしても何も見えないけれど、二人は何かに気づいているらしい。邪魔にならないように馬を少し後ろに下がらせると、サイードさんが手綱を離して背負っていた弓と矢を取った。
驚くことにサイードさんは馬体を挟んだ両足だけで進路と速度を操れるようだ。そして左手で弓と矢尻の上を持ち、口で矢羽根を咥えて矢をつがえる。その時、僕の目にもようやく前方を走る野兎の姿が見えた。
ビィイィン! と鋭く弦が鳴り矢が放たれる。すると野兎の身体は跳ね飛ばされたように宙を舞って地面に落ちた。
「見事」
ダルガートが呟く声が聞こえる。確かにこれだけ距離があって動いている小さな的に、口で矢を引いて当てるなんて凄すぎる。しかもあんなに目の近くで弦がしなるのに怖くないのだろうか。するとサイードさんは素早く第二矢をつがえて再び放った。
彼が立て続けに三匹の野兎を仕留めるのを感心して眺めながら、僕は馬を止めて野兎を回収した。サイードさんの矢は、多分口で咥えて射るために普通の矢と少し違った形をしている。きっとこれは再利用するだろうから慎重に野兎の身体から抜いて集めた。
獲物を鞍に括りつけて急いで後を追うと、今度はダルガートが別の獲物を追っていた。
「え、なんだあれ?」
見ると茶色のもっと大きな獣が飛び跳ねるように駆けているのが見える。それを後方からサイードさんが矢で狙い、ダルガートは左から回り込もうとしているようだった。
まっすぐに走る野兎と違って微妙に身体が揺れる獣の足をサイードさんが射た矢がかすめる。一瞬ぐらり、と身体を傾けながらもまだ走り続ける獣にダルガートが追いつき、抜いたシャムシールをその首めがけて振り下ろした。
「見事だ」
馬を寄せてサイードさんがダルガートに言う。あ、笑ってる。再会してから初めて見たサイードさんの笑顔に思わず見惚れてしまった。彼が僕の方を向いた時にはもうその笑みは消えてしまっていたけれど、それでも嬉しくて胸がいっぱいになる。
それにしても僕が見たサイードさんの最初の笑顔がダルガートへのものだとは。別にいいんだけど羨ましいことこの上ない。
「これは……鹿か何かですか?」
ずいぶんと特徴的な大きな角がある頭を見て首をかしげると、サイードさんが教えてくれた。
「いや、これはガゼルだ」
「食べられますか?」
「もちろん」
サイードさんは弓を背負い直してガゼルの後ろ足を持ち上げる。
「このまま血抜きをして持ち帰ろう。野兎は今食べてしまえばいい。向こうに別の水場がある」
片腕のサイードさんに代わってダルガートがガゼルを馬に乗せ、三人で水のある場所へ移動した。そこにはキラキラと輝く小川が流れていて木や茂みもある。本当にダウレシュの地がよい土地であることを実感した。
サイードさんに言われてダルガートがガゼルの足を縄でくくり、木の一番太い枝に逆さに吊るす。そうやって完全に血抜きをするらしい。さすがに力仕事すぎて手伝えそうにもないので僕は馬の影に隠れてジャヒーヤを深く被り直した。正直邪魔なことこの上ないのだけれど仕方がない。
それに町で奉仕している間にわかったことだが、この世界ではアルダ教の神官は一種特別な立場にある。下級神官はそうでもないが、中級・上級神官はどの国でも尊敬され丁重に扱われる。そのための身分の証明となるのがジャヒーヤだ。
これを被っていればある程度の身の安全は保証され、そう無下に扱われることもない。大きな街から離れたこういう地方では特にそうだ。
神官は武器を持つことを禁じられている。だから常にジャヒーヤは被っておいたほうがいい。
僕は落ちてくる裾を払いのけながら川で水を汲み、火をおこした。そして湯沸かしを掛け、サイードさんの家から貰ってきたパンを温めている間に野兎を捌く。心臓を地母神ハラーラに捧げてから肉を切り分けていると、上からサイードさんの声が降ってきた。
「それはあまり良いナイフではないな」
そう言ってサイードさんが僕の隣に膝をつく。暇を見つけて厨房で砥石を借りて研いではいるが、確かに切れ味は良くないし強度も足りない。けれど下級神官に支給されるナイフなどそんなものだ。
あまりきれいに剥ぎ取れなかった皮を見て昔サイードさんに貰ったナイフを思い出す。ごくシンプルでなんの飾りもないものだったけれど本当にいいナイフだったと改めてわかった。
「これを使うといい」
そう言ってサイードさんが自分のナイフを腰から抜いて渡してくれた。それは昔僕にくれたものにそっくりで思わず言葉に詰まる。なんとか笑みを浮かべて「ありがとうございます」と言った。
残りの二羽も同じように捌き、三人でアル・ハダールのオアシスで野営をした時にサイードさんに教えてもらった通りに塩と昨夜野営したところで見つけて採ってきたハーブで軽く揉んでから串にさす。
「ずいぶん手馴れているな」
「野営には慣れてますから」
「ディーラの葉を使うのは我が一族の秘伝だと思っていたがそうではなかったようだ」
「いい香りですよね」
「ああ」
なんてことない会話が嬉しくてジャヒーヤの影で顔が緩んでしまう。野兎の捌き方もディーラの葉のことも全部サイードさんに教えてもらったんだよ、と言いたかったけれどもちろん我慢した。
そしてふと、町での奉仕以外で神殿から出ることがほとんどない下級神官が「野営に慣れている」などと言うのは不自然だったと気づいてハッとした。恐る恐る顔を上げるとサイードさんがじっと僕を見つめている。
けれどそれは昔のような、いかにも愛おしそうに見つめる目とは違って、静かに僕を観察し、見極めようとしている目だった。
ほんの少しの油断が命取りになるこの世界で、用心深さは生き延びるために必要不可欠だ。しかもサイードさんは族長の息子で、いずれこの地の氏族を束ねる人になるのだろう。
そんな人はきっと、目の前にいる相手がダウレシュの地に仇なす者かどうかを常に見張っているに違いない。
僕は自分に敵意がないことを分かってもらいたくて、勇気を出してもう少し話しかけてみた。
「この辺りは緑も豊かでいい土地ですね」
するとサイードさんは焚火から視線を戻して「ああ、その通りだ」と言った。その時少し離れたところで草を食んでいたサイードさんの馬がこっちへやってきた。自分から火の近くに来る馬は珍しいなと思っていたら、立ち上がったサイードさんに馬が甘えるように鼻を押しつけてきたので笑ってしまった。
「好かれてるんですね」
「こいつは特に甘えたがりで困る」
そう言いながらもかすかに笑みを浮かべて首を撫でてやるサイードさんの手つきはとても優しかった。
「やっぱり馬が一番好きですか」
そう尋ねると少し驚いたように僕を見た。慌てて「ええと、他にも羊や山羊もいるけど……」と付け加える。するとサイードさんは少し考えてから頷いた。
「そうだな。何か嫌なことがあったり心に思うことがあった時も馬に乗って走れば気持ちが晴れる」
「なるほど」
いかにもサイードさんらしい言葉に思わず微笑むと、馬の背を撫でながら彼が言った。
「それに馬は何度も俺を助けてくれた。俺が腕をなくしたのは、はぐれた山羊を追ってちょうどこの辺りまで来ていた時だった。見慣れぬ男たちがいて声を掛けるといきなり斬りつけてきた」
「そんな……っ」
その言葉に思わず息を呑む。
「すぐに応戦し三人は殺せたが一人は逃がした。その男に腕をやられた」
「その時、サイードさんは一人だったんですか」
「ああ。なんとか斬られた腕を縛り馬の背によじ上ったところで気を失った。気が付いたら家にいた。その馬が連れ帰ってくれたのだ。だから俺にとって馬は良い友人であり恩人でもある」
「……そうだったんですね……」
干ばつがなくても過酷な人生を歩まざるを得なかったサイードさんを思って唇を噛む。けれどサイードさんはいつもと変わらぬ口調で言った。
「腕は片方なくとも不自由なく暮らせている。だから問題ない」
強いな、と改めて思う。サイードさんだけでなくこの世界の人は皆、強い。
それと同時にサイードさんが今の生活に心から満足していることがはっきりとわかった。それだけでもここへ来て良かったと思う。
「その馬もサイードさんのことが好きだから、なんとしても助けようとしてくれたんですね、きっと」
そう言うとサイードさんの口の端に笑みが浮かんだ。彼は馬の首を軽く叩くと「ガゼルを解体してこよう」と言って歩き出す。つられて僕も立ち上がると、ダルガートが少し離れた場所で黙って僕たち二人を見ていた。
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