月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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後日談やおまけなど

【お手紙お礼SS再録】6年後の三人のお話(1)

最終話から6年後の三人+一人のおまけ話です

編集部にお手紙をくださった方にお礼として書いたものです
当時お手紙くださった方々、本当にありがとうございました🥰

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 ピィーーッ、とサイードさんの口笛が夜が明け始めた草原に響く。桶を手にして幕家から出た僕が顔を上げると、東の方からこちらに駆けてくる一組の人馬と空から舞い降りる一羽の鷹が見えた。どうやらサイードさんは今日も陽が昇る前からひと乗りしてきたようだ。
 夜空にわずかに滲み始めた夜明けの色とうっすらと浮かび上がってくる地平線、頬をなぶるキリリと冷たい空気とそこに響く山羊や馬のいななきに、僕は未だに自分が日本を離れてこの草原に暮らしていることが信じられないような気持ちになる。
 そう思わなくなった時が、完全にこのイシュマール大陸の民となった時だとなんとなく思う。

 僕とダルガートがダーヒルの神殿を出てサイードさんと一緒にここ、イシュカルに移り住んでから早いもので六年の月日が経った。
 イシュカルは元々サイードさんの遠縁にあたるアルタワという男の子が受け継ぐはずの土地だった。けれど彼がまだ幼い頃に一族の長であった彼の父親や氏族の男たちが皆事故や病で亡くなってしまったらしい。
 女性や子ども、年寄りしか残っていないイシュカルの土地や家畜を狙って、政情不安定なエイレケからよからぬ人物が襲ってきたりしないように、そして幼いアルタワを一族の長に相応しく育て上げるためにサイードさんがイシュカルに招かれた。
 そこへ僕とダルガートがやって来て、サイードさんを手伝いながら暮らしている。

 この地平線見遥かす大草原イシュカルは本当に自然豊かな土地だ。青々と茂る草原の匂いや大地を吹き抜ける風の気持ちよさ、気が遠くなるほど高い青い空とたなびく白い雲は日本では決して見られなかった光景だろう。

 朝起きて最初に山羊の乳を搾りに行くのが僕の日課で、今朝も欠伸をしながら幕家の周りにたむろしている羊たちの中から一頭を呼び寄せ、持って来た木箱にどっこらせと座る。そして一頭ずつ順に手桶いっぱいの乳を搾って、太陽が上り始めた東の空を見た。
 まだ反対側の西には夜の名残が残っている。そこへ現れた太陽の光がじわじわと空いっぱいに広がっていく光景は何度見ても綺麗だ。夕暮れの赤と夜の群青が交じり合う空も大好きだけど、やっぱり何事もなく無事に夜明けを迎えられた朝の空の清々しさは格別だ。
 けれど今朝はいつもと少し違った。ふと何かを感じて僕は目を凝らす。

 平和な現代日本で生まれ育った僕にはまだまだ圧倒的にこの世界で生きる知恵や草原での経験が足りない。だからこそ、この六年間は幼いアルタワと一緒に僕もサイードさんやダルガートにいろいろなことを教わる毎日だった。
 歴史が変わる前と違い、今のこの世界は比較的気候や世情は落ち着いている。それでも争いや天候不良が起きないわけではない。僕はまだ夜の気配が残る西の空をじっと見て、それから乳を搾った手桶を抱えて幕家に駆け戻った。

「空の様子がおかしい?」

 幕家に戻ってすぐ馬に朝の水をやろうと片手で大きな桶を運びながら、サイードさんは僕の言葉に振り返った。
 結局、サイードさんはあの後も右腕を元に戻して欲しいとは僕に言わなかった。でも馬の世話でも家のことでも狩りでも、何でも片手で器用にやってしまうのは本当にすごいと思う。
 そのサイードさんが立ち上がって僕と一緒に幕家の前まで歩いて行った。そしてじっと空を見上げる。

 今のサイードさんはもうすぐ四十になるくらいの年らしい。笑うと目尻に浮かぶ皺や以前よりもっと思慮深くなった言動は確かに積み重ねてきた年月の重みを感じさせる。でも初めて出会った頃と変わらず前髪を上げて露わにした額や高い頬骨は滑らかなままで、昔と変わらぬ凛とした男らしさに満ちていた。
 僕はいまだにサイードさんの横顔についつい見惚れてしまうけれど、今はそれどころではない。目を凝らして見ると、少しずつ日の光が広がりつつある地平線の際に一筋、奇妙に黒くにじんだ線のようなものが見えた。

「よく気づいた、カイ」

 サイードさんがそう言って僕の肩を叩いて踵を返す。

イシャラームが来る。備えをしなければ」
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