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第5話 羨む
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「ソラはね、人の心を、敏感に感じとることが出来るの。きっと、須野君が、犬さんを大好きだってことが、ソラに伝わったんだねー」
広い部屋の奥に設置されている、まるで絵本から飛び出してきたかのようにメルヘンチックな暖炉、その正面に置かれたハンモック的チェアー、そして、そこに座って優しく語る千条の姿。膝にはソラが静かに乗っている。僕はどこか遠い世界に来てしまったようだ。
かく言う僕も、今まで座ったどの椅子よりも確実に高いであろう豪華なチェアーに腰かけてしまっているという現状。もう戻れないかもしれない。
「えー、そんなのずるいよー。私だって犬さん大好きなのに! ねえ優君、君も言ってやってよ!」
「本当は猫派だったってことだな」
「にゃんだとー! 私は犬派だにゃー!」
「出てるぞ猫語」
高級感漂う部屋で馬鹿なことを言い合う僕たちは、舞踏会に粗末な格好のまま迷いこんだシンデレラの如く、端から見れば明らかに場違いな存在だろう。周りを見ると、机から棚から花瓶に至るまで、見るからに豪華な物しか置かれていない。自分がいかに庶民であるかということを痛感させられる部屋である。
「……ここって、もしかして千条の部屋なの?」
「うん、そうだよ。他の部屋よりも、ちょっとだけ狭いけど、私は気に入ってるんだー。お日様もね、ぽかぽか当たるの」
千条が、さも当然であるかのように答える。でも、そこには何の嫌みも感じられない。むしろ、それはよかったと安堵さえしてしまいそうになる。他の誰かが同じ発言をしたら、きっと拳を押さえるのに必死になっていたことだろう。
「いーいーなー。私もこんな家に住んでみたいよ! 両手に家政婦とか侍らせてさ、優雅にティータイムするの。……くぅ、最高だよ! もう止められないね!」
あまりの非現実感に毒されたのか、如月が片手を上げながら足を偉そうに組みつつ目を瞑って、妄想を暴走させている。面倒くさかったので無視しておくことにした。わざわざ自分から酔っ払いに絡んでやることはない。
しかし、確かに如月の言わんとしてることも分からなくはない。この史上最高にふかふかな椅子に座っていれば、人を駄目にしていくのも頷ける。ただ柔らかいだけではなく、適度な反発力、腕が疲れないちょうどいい位置に収まる肘置き、そして何より、長時間座っていても全く窮屈に感じないのだ。きっと、僕の知り得ない未知の技術がこの椅子には使われているのだろう。ただの高級補正の可能性も高いが。
「ふふふ、気持ちいいよね、この椅子。でもね、他の部屋に、もーっと凄い椅子があるんだよ?」
「えええええっ! ど、どこ? どこあるのそれ? 絶対座ってみたい! いや座る! 座らせてよー!」
「えっとね、階段を上って、右に行ってね……」
「分かった、行ってきます!」
千条の話が終わりきる前に、如月は鼻息を荒くして立ちあがり、部屋を飛び出していった。それに呼応するかのように、突然ソラが千条の膝から飛び降り、ドアが閉まる前に外へ出た。もう滅茶苦茶だ。呆然と見送る僕に対して、千条は全く動じていない様子で手を振っていた。
「本当、由之ちゃんは、ずっと元気だね」
優しく語る彼女の姿には、もはや菩薩のような貫禄が携わっていた。如月が騒がしい自由であるとすれば、千条は静かな自由さであると言える。どちらも着いていけないことには変わりないが、諦めに近い感情を覚える如月に対し、彼女に感じるのはどちらかというと悟りのようなものだ、と思った後で、あまり違いはないということに気付いて、頭を抱えたくなった。
「……いいのか、あいつを勝手にうろうろさせて。不審者が入り込んだと思われるぞ」
実際ほとんどその通りだが。
「うん、いいよ。今この家にいるのは、私たちと、あのお手伝いさんだけなんだから。何にも、言われないよ」
「僕たちとあのメイドさんだけ? お手伝いさんってあの人しかいないのか。ってことは、これだけ広い家なのに、今は四人しかいないんだな」
意外だった。見た目や内装の豪華絢爛さは見に染みて感じていたから、この調子だと使用人も何人もいるものだと勝手に考えていた。不況の波はこんなところにまで来ているのだろうか、とよく分からないことを思う。昨今の経済事情など知ろうともしていない僕だが。
「――四人なんて、まだ多い方だよ」
ぽつりと、千条の声が漏れた。
その声は、これまで聞いてきた中で最も寂しそうで、最も悲しそうな、声。
「須野君は、お金持ちに生まれたかったって思うこと、ある?」
「お金持ちに?」
子供の頃の夢とかの話ではなく、真面目な質問のようだった。僕は少し元気のなくなった千条の様子に戸惑いながらも、昔のことを思い出そうとする。
「……そういえば、小さいときはそんなのに憧れてた気がするな」
小学校の頃だったか、昔は大金持ちになりたいとかヒーローや戦隊物に憧れたりするごく普通の『男の子』であったと思う。そういえばその頃の僕は、それこそ如月にも負けないような、今よりも活発な子どもだった気がする。
いつからだろうか、今のように少しひねくれた考えを持つようになったのは。他人と関わるのが億劫に思えてきたのはいつからだろう。
確か、中学生の――
「ッ……!」
微かな頭痛を感じる。思い出そうとする僕を、何かが阻害している。
「……そう、だよね。みんな、そう思うよね」
寂しげな千条の声が頭痛と混じる。浮かない表情。僕はすぐには声で返せず、首を少しだけ傾げた。
「小学生の時、周りの同級生は、みんな私を羨ましがってた。私ね、あの頃は、他の人よりもちょっとだけ高い物を、いつも身に付けてたの。服とかはもちろん、ランドセルだったり、筆箱だったりね。全部、お祖父様が、私に買ってくれてたんだ。お祖父様は、私のために何でもしてくれた」
千条が『ちょっと』というからには、かなり高価で豪華な物だったのだろう。なんとなく想像がつく気がする。
「それでね、みんな私のこと、誉めてくれるの。すごーいとか、いいなあとか、いっつもそんな言葉ばっかり聞いてた。だから、私も、ちょっとだけ調子に乗っちゃってたんだ。上から目線で、色んな物を見せびらかしてた」
弱々しく、彼女はくすっと笑う。千条の調子に乗った姿というのは、何を言っても嫌味に聞こえない今の彼女と比べていまいちピンと来ない。それほど分かりやすい嫌な態度だったのだろうか。
「そんな風に振る舞うようになったまま、中学生になった。今までと同じように、みんなが私を羨ましがって、誉めてくれるんだろうって、何の疑いもなく思ってたんだ。入学始めはね、本当にそんな人ばっかりだったの。でも、すぐにそれが間違っていたことに気付いた。一ヶ月もしない内に、私の周りには誰もいなくなってたんだ」
苦しそうな顔をしていた。なぜ彼女は、そんなになってまで僕にこんなことを話すのだろう。話さなければ、思い出さなければ、苦しい思いなどしなくていいじゃないか。
そう。思い出さなければ。
「今考えれば、何でみんな離れていったのかなんて、すごく明瞭なこと。だけど、当時の私には、何がいけなかったのか、全く分からなかった。むしろ、なぜみんな私のことを見ないんだろう、こんなに私は特別な存在なのにって、そんなことしか考えられていなかったの」
もういい、思い出すな。思い出すという行為の先には、ハッピーエンドなんてあり得ない。待っているのは辛いことだけだ。だから、無理して記憶を探る必要なんてないんだ。
頭の中の誰かが、そう叫んでいる。
「私ね、神様が羨ましかったんだ。神様は、みんなより凄くて、絶対に届かない存在なのに、みんなから敬われてる。そんなのずるいって、ずっと思ってたの」
――神様って、いるのかな。
頭の中で、今朝の千条の言葉が思い出された。
「一人になった私にとって、頼れるのはお祖父様だけだった。お父様もお母様も、忙しくて家にいることが少なかったし、私の相手もほとんどしてくれなかった。でも祖父様は、いつも私に優しくしてくれた。私の話を聞いてくれたし、我が儘だって聞いてくれた。本当に、心の支えだった。お祖父様は、いつも笑顔を忘れずに、他人を許す暖かい心を持ちなさいと、そう私に言い聞かせていた。でも、あの時の私には、そんなことできなかったんだ。学校では一人の私に、笑顔なんて、できなかった」
そこまで話して、千条は顔を上に向けた。釣られて僕も上を向く。そこには真っ赤な天井と、豪華なシャンデリアがあるだけだ。
「……中学二年生の時、だったかな。お祖父様がね、亡くなったの。寿命だった。最後の顔は、とても安らかな表情をしていた。もちろん、私は泣いたよ。泣いて泣いて、もうこれ以上泣けないってくらい、泣いたんだ。それで、やっと気付いたの。ああ、私は結局、自分のことしか考えていなかったんだって。私の涙も、お祖父様の死に対するものじゃなくて、私の心の支えがなくなったことへの悲しみのせいなんだって、本当に一人になってしまったせいなんだって――そう気付いた」
「千条、それは……」
思い込みすぎだ、と続けようとしたが、声が出なかった。多分それは、千条自身が一番痛感していることだ。いまさら僕が言ったところで、慰めにもならないだろう。それでも千条は、言葉を止めた僕にゆっくりと頷いた。
「分かってる。そんなこと考えたってどうしようもないことは、分かってるの。でもね、同時に、私が一番しなくちゃいけないことも、十分理解してた。私は、お祖父様に感謝しないといけなかったんだ。お祖父様がいなくなった後で、どうすればそれを表せるんだろうって、ずっと考えた。そして出た答えが、お祖父様の言い付けを守ることだったの」
亡くなった人への、感謝の意。
きっと、世話になっていればなっているほど、思うだけでは足りないのだろう。
「笑顔でいること。他人を許すこと。簡単そうに思えて、私にとってはかなり難しいことだった。笑顔でいようにも、そうである『理由』が見つからなかったし、他人を許そうにも、そもそも悪いのは私で、私が許される立場であるはずだったんだからね。それでも、なんとか守りたくて、ソラで一生懸命練習したんだ。最初の頃だけだけどね」
なるほど、ソラが千条を恐れていたのは、しつけられていただけでなくて、まだぎこちない頃の不自然な笑顔のようなものを見せられていたためなのか。確かに、自分に向けられた作り笑顔というのは恐怖を感じるものかもしれない。
「でね、時間はかかったけど、自然に笑顔でいられるようになったし、周りに対して穏やかでいられるようにもなったんだ。でも、中学では間に合わなかった。私がどれだけ笑顔でいようとも、一度嫌われた私にもう一度寄ってくる人は、いなかった。結局、許されなかったの。そのまま、卒業を向かえた。後悔もしたし、反省もしたよ。もっと早く気づくべきだったって、 もっとお祖父様の言うことを真摯に受け止めるべきだったって……」
千条の眼差しが、僕を強く捉える。その目には見られるのは、確かな決意。二度と過ちを繰り返さないという覚悟。そして、周りをも巻き込むような自然な笑顔だ。
「ねえ、須野君。私、今、お祖父様の言ってたこと守れてるかな? 中学では無理だったけど、高校では、頑張ろうって思ってたの。……私、ちゃんと上手くやれてる?」
大丈夫だよ、端から見ても千条はすごく優しい人だし、いつも笑顔だ。もう千条のことを避けようとする人なんて、一人もいないさ。
言ってやるのは簡単だ。でも、それは本当に彼女のためになるのだろうか。僕一人が見て、聞いて、感じた千条の姿は、果たして真に千条の本質なのだろうか。
「……今、千条が笑顔でいる理由って、何なの?」
「え?」
「さっき、笑顔でいる『理由』が見つからないって言ってたよね。じゃあ、今の笑顔の理由は何なんだ? 何が楽しいから、何をどう感じて千条は笑っているんだ?」
今朝から時々見えていた違和感。あれは錯覚なんかじゃなかったということが、今の話を聞いて分かった。
「そんなの、もちろん……私は……」
「千条は、『笑顔』に逃げてしまっている。いや、依存してしまっているんだ。内面の感情を、表面と一致させようとしていない。心の成長を伴わず、『笑顔』でいるという、ただそれだけを忠実に守っているだけだ」
まただ。また、何かが僕を突き動かしている。一度出た言葉は収まらず、僕の口は自分の意思とは無関係に語りだそうとしている。
一体、この正体は何だ?
「千条のお祖父さんが伝えたかったことは、本当にそれだけなのか? 辛いときだって、悲しいときだって、いつも『笑顔』を浮かべていることなのか? きっと違うはずだ。確かに笑顔でいることは大事だよ。でも、内面を伴わない笑顔なんて、それは本当の笑顔じゃない。本当に楽しいと、笑顔でいたいと思っていなきゃ、それは仮染めのものでしかないんだ」
「内面……」
「お祖父さんは、千条に心からの笑顔をして欲しかったんじゃないかな」
猛烈な吐き気。自分の首を今すぐにでも絞めたいほどの自己嫌悪。僕の中の全てが、自己否定している。それでも、表情は変えず、俯く千条をじっと見つめている。
たった今千条に指摘したことと同様のことを、僕はしている。
「――そう、だね」
ゆっくりと、彼女は顔を上げた。
その目に浮かぶのは、涙。その顔に浮かぶのは……笑顔。
「私、今まで、確かに無理してた気がする。笑顔でいなくちゃって、怒らないようにしなくちゃって、それしか考えてなかったから。でも、須野君のおかげで分かったよ、お祖父様の本当に言いたかったこと。そっか、そうだよね、無理してても仕方がないよね。心から楽しいって、嬉しいって思ってなきゃ、笑顔なんて意味ないんだよね」
それは、確かに、心からの笑顔だった。今まで見た千条のどの笑顔よりも、何倍も輝いていて、何倍も嬉しそうだ。きっと、これが彼女のあるべき表情なのだろう。
僕の中で騒いでいた誰かは、いつの間にかどこかに去っていった。感じるのは、解放感と極度の疲労感。
そして、目の前の現実への安心感だ。
広い部屋の奥に設置されている、まるで絵本から飛び出してきたかのようにメルヘンチックな暖炉、その正面に置かれたハンモック的チェアー、そして、そこに座って優しく語る千条の姿。膝にはソラが静かに乗っている。僕はどこか遠い世界に来てしまったようだ。
かく言う僕も、今まで座ったどの椅子よりも確実に高いであろう豪華なチェアーに腰かけてしまっているという現状。もう戻れないかもしれない。
「えー、そんなのずるいよー。私だって犬さん大好きなのに! ねえ優君、君も言ってやってよ!」
「本当は猫派だったってことだな」
「にゃんだとー! 私は犬派だにゃー!」
「出てるぞ猫語」
高級感漂う部屋で馬鹿なことを言い合う僕たちは、舞踏会に粗末な格好のまま迷いこんだシンデレラの如く、端から見れば明らかに場違いな存在だろう。周りを見ると、机から棚から花瓶に至るまで、見るからに豪華な物しか置かれていない。自分がいかに庶民であるかということを痛感させられる部屋である。
「……ここって、もしかして千条の部屋なの?」
「うん、そうだよ。他の部屋よりも、ちょっとだけ狭いけど、私は気に入ってるんだー。お日様もね、ぽかぽか当たるの」
千条が、さも当然であるかのように答える。でも、そこには何の嫌みも感じられない。むしろ、それはよかったと安堵さえしてしまいそうになる。他の誰かが同じ発言をしたら、きっと拳を押さえるのに必死になっていたことだろう。
「いーいーなー。私もこんな家に住んでみたいよ! 両手に家政婦とか侍らせてさ、優雅にティータイムするの。……くぅ、最高だよ! もう止められないね!」
あまりの非現実感に毒されたのか、如月が片手を上げながら足を偉そうに組みつつ目を瞑って、妄想を暴走させている。面倒くさかったので無視しておくことにした。わざわざ自分から酔っ払いに絡んでやることはない。
しかし、確かに如月の言わんとしてることも分からなくはない。この史上最高にふかふかな椅子に座っていれば、人を駄目にしていくのも頷ける。ただ柔らかいだけではなく、適度な反発力、腕が疲れないちょうどいい位置に収まる肘置き、そして何より、長時間座っていても全く窮屈に感じないのだ。きっと、僕の知り得ない未知の技術がこの椅子には使われているのだろう。ただの高級補正の可能性も高いが。
「ふふふ、気持ちいいよね、この椅子。でもね、他の部屋に、もーっと凄い椅子があるんだよ?」
「えええええっ! ど、どこ? どこあるのそれ? 絶対座ってみたい! いや座る! 座らせてよー!」
「えっとね、階段を上って、右に行ってね……」
「分かった、行ってきます!」
千条の話が終わりきる前に、如月は鼻息を荒くして立ちあがり、部屋を飛び出していった。それに呼応するかのように、突然ソラが千条の膝から飛び降り、ドアが閉まる前に外へ出た。もう滅茶苦茶だ。呆然と見送る僕に対して、千条は全く動じていない様子で手を振っていた。
「本当、由之ちゃんは、ずっと元気だね」
優しく語る彼女の姿には、もはや菩薩のような貫禄が携わっていた。如月が騒がしい自由であるとすれば、千条は静かな自由さであると言える。どちらも着いていけないことには変わりないが、諦めに近い感情を覚える如月に対し、彼女に感じるのはどちらかというと悟りのようなものだ、と思った後で、あまり違いはないということに気付いて、頭を抱えたくなった。
「……いいのか、あいつを勝手にうろうろさせて。不審者が入り込んだと思われるぞ」
実際ほとんどその通りだが。
「うん、いいよ。今この家にいるのは、私たちと、あのお手伝いさんだけなんだから。何にも、言われないよ」
「僕たちとあのメイドさんだけ? お手伝いさんってあの人しかいないのか。ってことは、これだけ広い家なのに、今は四人しかいないんだな」
意外だった。見た目や内装の豪華絢爛さは見に染みて感じていたから、この調子だと使用人も何人もいるものだと勝手に考えていた。不況の波はこんなところにまで来ているのだろうか、とよく分からないことを思う。昨今の経済事情など知ろうともしていない僕だが。
「――四人なんて、まだ多い方だよ」
ぽつりと、千条の声が漏れた。
その声は、これまで聞いてきた中で最も寂しそうで、最も悲しそうな、声。
「須野君は、お金持ちに生まれたかったって思うこと、ある?」
「お金持ちに?」
子供の頃の夢とかの話ではなく、真面目な質問のようだった。僕は少し元気のなくなった千条の様子に戸惑いながらも、昔のことを思い出そうとする。
「……そういえば、小さいときはそんなのに憧れてた気がするな」
小学校の頃だったか、昔は大金持ちになりたいとかヒーローや戦隊物に憧れたりするごく普通の『男の子』であったと思う。そういえばその頃の僕は、それこそ如月にも負けないような、今よりも活発な子どもだった気がする。
いつからだろうか、今のように少しひねくれた考えを持つようになったのは。他人と関わるのが億劫に思えてきたのはいつからだろう。
確か、中学生の――
「ッ……!」
微かな頭痛を感じる。思い出そうとする僕を、何かが阻害している。
「……そう、だよね。みんな、そう思うよね」
寂しげな千条の声が頭痛と混じる。浮かない表情。僕はすぐには声で返せず、首を少しだけ傾げた。
「小学生の時、周りの同級生は、みんな私を羨ましがってた。私ね、あの頃は、他の人よりもちょっとだけ高い物を、いつも身に付けてたの。服とかはもちろん、ランドセルだったり、筆箱だったりね。全部、お祖父様が、私に買ってくれてたんだ。お祖父様は、私のために何でもしてくれた」
千条が『ちょっと』というからには、かなり高価で豪華な物だったのだろう。なんとなく想像がつく気がする。
「それでね、みんな私のこと、誉めてくれるの。すごーいとか、いいなあとか、いっつもそんな言葉ばっかり聞いてた。だから、私も、ちょっとだけ調子に乗っちゃってたんだ。上から目線で、色んな物を見せびらかしてた」
弱々しく、彼女はくすっと笑う。千条の調子に乗った姿というのは、何を言っても嫌味に聞こえない今の彼女と比べていまいちピンと来ない。それほど分かりやすい嫌な態度だったのだろうか。
「そんな風に振る舞うようになったまま、中学生になった。今までと同じように、みんなが私を羨ましがって、誉めてくれるんだろうって、何の疑いもなく思ってたんだ。入学始めはね、本当にそんな人ばっかりだったの。でも、すぐにそれが間違っていたことに気付いた。一ヶ月もしない内に、私の周りには誰もいなくなってたんだ」
苦しそうな顔をしていた。なぜ彼女は、そんなになってまで僕にこんなことを話すのだろう。話さなければ、思い出さなければ、苦しい思いなどしなくていいじゃないか。
そう。思い出さなければ。
「今考えれば、何でみんな離れていったのかなんて、すごく明瞭なこと。だけど、当時の私には、何がいけなかったのか、全く分からなかった。むしろ、なぜみんな私のことを見ないんだろう、こんなに私は特別な存在なのにって、そんなことしか考えられていなかったの」
もういい、思い出すな。思い出すという行為の先には、ハッピーエンドなんてあり得ない。待っているのは辛いことだけだ。だから、無理して記憶を探る必要なんてないんだ。
頭の中の誰かが、そう叫んでいる。
「私ね、神様が羨ましかったんだ。神様は、みんなより凄くて、絶対に届かない存在なのに、みんなから敬われてる。そんなのずるいって、ずっと思ってたの」
――神様って、いるのかな。
頭の中で、今朝の千条の言葉が思い出された。
「一人になった私にとって、頼れるのはお祖父様だけだった。お父様もお母様も、忙しくて家にいることが少なかったし、私の相手もほとんどしてくれなかった。でも祖父様は、いつも私に優しくしてくれた。私の話を聞いてくれたし、我が儘だって聞いてくれた。本当に、心の支えだった。お祖父様は、いつも笑顔を忘れずに、他人を許す暖かい心を持ちなさいと、そう私に言い聞かせていた。でも、あの時の私には、そんなことできなかったんだ。学校では一人の私に、笑顔なんて、できなかった」
そこまで話して、千条は顔を上に向けた。釣られて僕も上を向く。そこには真っ赤な天井と、豪華なシャンデリアがあるだけだ。
「……中学二年生の時、だったかな。お祖父様がね、亡くなったの。寿命だった。最後の顔は、とても安らかな表情をしていた。もちろん、私は泣いたよ。泣いて泣いて、もうこれ以上泣けないってくらい、泣いたんだ。それで、やっと気付いたの。ああ、私は結局、自分のことしか考えていなかったんだって。私の涙も、お祖父様の死に対するものじゃなくて、私の心の支えがなくなったことへの悲しみのせいなんだって、本当に一人になってしまったせいなんだって――そう気付いた」
「千条、それは……」
思い込みすぎだ、と続けようとしたが、声が出なかった。多分それは、千条自身が一番痛感していることだ。いまさら僕が言ったところで、慰めにもならないだろう。それでも千条は、言葉を止めた僕にゆっくりと頷いた。
「分かってる。そんなこと考えたってどうしようもないことは、分かってるの。でもね、同時に、私が一番しなくちゃいけないことも、十分理解してた。私は、お祖父様に感謝しないといけなかったんだ。お祖父様がいなくなった後で、どうすればそれを表せるんだろうって、ずっと考えた。そして出た答えが、お祖父様の言い付けを守ることだったの」
亡くなった人への、感謝の意。
きっと、世話になっていればなっているほど、思うだけでは足りないのだろう。
「笑顔でいること。他人を許すこと。簡単そうに思えて、私にとってはかなり難しいことだった。笑顔でいようにも、そうである『理由』が見つからなかったし、他人を許そうにも、そもそも悪いのは私で、私が許される立場であるはずだったんだからね。それでも、なんとか守りたくて、ソラで一生懸命練習したんだ。最初の頃だけだけどね」
なるほど、ソラが千条を恐れていたのは、しつけられていただけでなくて、まだぎこちない頃の不自然な笑顔のようなものを見せられていたためなのか。確かに、自分に向けられた作り笑顔というのは恐怖を感じるものかもしれない。
「でね、時間はかかったけど、自然に笑顔でいられるようになったし、周りに対して穏やかでいられるようにもなったんだ。でも、中学では間に合わなかった。私がどれだけ笑顔でいようとも、一度嫌われた私にもう一度寄ってくる人は、いなかった。結局、許されなかったの。そのまま、卒業を向かえた。後悔もしたし、反省もしたよ。もっと早く気づくべきだったって、 もっとお祖父様の言うことを真摯に受け止めるべきだったって……」
千条の眼差しが、僕を強く捉える。その目には見られるのは、確かな決意。二度と過ちを繰り返さないという覚悟。そして、周りをも巻き込むような自然な笑顔だ。
「ねえ、須野君。私、今、お祖父様の言ってたこと守れてるかな? 中学では無理だったけど、高校では、頑張ろうって思ってたの。……私、ちゃんと上手くやれてる?」
大丈夫だよ、端から見ても千条はすごく優しい人だし、いつも笑顔だ。もう千条のことを避けようとする人なんて、一人もいないさ。
言ってやるのは簡単だ。でも、それは本当に彼女のためになるのだろうか。僕一人が見て、聞いて、感じた千条の姿は、果たして真に千条の本質なのだろうか。
「……今、千条が笑顔でいる理由って、何なの?」
「え?」
「さっき、笑顔でいる『理由』が見つからないって言ってたよね。じゃあ、今の笑顔の理由は何なんだ? 何が楽しいから、何をどう感じて千条は笑っているんだ?」
今朝から時々見えていた違和感。あれは錯覚なんかじゃなかったということが、今の話を聞いて分かった。
「そんなの、もちろん……私は……」
「千条は、『笑顔』に逃げてしまっている。いや、依存してしまっているんだ。内面の感情を、表面と一致させようとしていない。心の成長を伴わず、『笑顔』でいるという、ただそれだけを忠実に守っているだけだ」
まただ。また、何かが僕を突き動かしている。一度出た言葉は収まらず、僕の口は自分の意思とは無関係に語りだそうとしている。
一体、この正体は何だ?
「千条のお祖父さんが伝えたかったことは、本当にそれだけなのか? 辛いときだって、悲しいときだって、いつも『笑顔』を浮かべていることなのか? きっと違うはずだ。確かに笑顔でいることは大事だよ。でも、内面を伴わない笑顔なんて、それは本当の笑顔じゃない。本当に楽しいと、笑顔でいたいと思っていなきゃ、それは仮染めのものでしかないんだ」
「内面……」
「お祖父さんは、千条に心からの笑顔をして欲しかったんじゃないかな」
猛烈な吐き気。自分の首を今すぐにでも絞めたいほどの自己嫌悪。僕の中の全てが、自己否定している。それでも、表情は変えず、俯く千条をじっと見つめている。
たった今千条に指摘したことと同様のことを、僕はしている。
「――そう、だね」
ゆっくりと、彼女は顔を上げた。
その目に浮かぶのは、涙。その顔に浮かぶのは……笑顔。
「私、今まで、確かに無理してた気がする。笑顔でいなくちゃって、怒らないようにしなくちゃって、それしか考えてなかったから。でも、須野君のおかげで分かったよ、お祖父様の本当に言いたかったこと。そっか、そうだよね、無理してても仕方がないよね。心から楽しいって、嬉しいって思ってなきゃ、笑顔なんて意味ないんだよね」
それは、確かに、心からの笑顔だった。今まで見た千条のどの笑顔よりも、何倍も輝いていて、何倍も嬉しそうだ。きっと、これが彼女のあるべき表情なのだろう。
僕の中で騒いでいた誰かは、いつの間にかどこかに去っていった。感じるのは、解放感と極度の疲労感。
そして、目の前の現実への安心感だ。
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ファンタジー
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佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
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