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第5話 羨む
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「ありがとう、須野君。やっぱり、須野君は優しいね」
「やっぱり?」
首を傾げる僕に、千条は変わらない笑顔で頷く。それほど僕は千条に優しくしていたのだろうか。思い返してみたが、それらしいシーンに心当たりは見つからない。悩ましげに唸る僕に、千条が語りかける。
「須野君は、自分の優しさに、気付いていないんだね。それとも、気付かないようにしてるだけ?」
「そう言われてもなあ……」
「由乃ちゃんは、前から、あんなに元気なの?」
唐突に質問が変わった。戸惑いながらも、千条が答えを待つようにじっと見つめてくるので、僕は腕を組んで考える。というか、昨日尾坂も同じような質問をしてきたな。やはり如月のあまりの天真爛漫さに皆驚かされているのだろうか。
「ああ、そうだよ。如月はずっとあんな感じだ」
「それは、本当にずっと?」
千条の表情からは、いつの間にか笑顔が消えていて、今までにない真剣な顔つきになっていた。笑顔を解除できたことへのリアクションをしたかったが、それよりも、なぜこんなに喰いかかってくるのかが気になる。
「一体、何がそこまで――」
問いかけようとするのと、扉の外で何かが割れたような大きな音がしたのは、ほぼ同時のことだった。驚いて、すぐに後ろを振り向く。大きな扉は閉まっている。
「びっくりした。何事かしら」
千条は目をパチリとさせてから、立ち上がって扉へ向かった。僕もその後を着いていく。なんとなく、如月が何かやらかしたのではないかという不安が頭を過る。ついさっき話題になったばかりというのもあるが。
部屋の前には、特に異常は見当たらない。辺りを注意深く見回しながら、僕と千条は反対側の部屋の近くまで行き、そこで見た光景に目を疑った。
「あ、優君、麗華ちゃん! 大変なの! ソラ君が、ソラ君がね……」
パニックになったように慌てふためく如月の足元に転がっていたのは、粉々になった何かの破片と、血を流したソラの姿だった。真っ赤に染まった床に、ぐったりと寝転んでいる。一瞬、もう手遅れかと思ったが、よく見ると苦しそうに息をしていた。どこか怪我をしているようだ。
「あのね、大きな音がしたから、急いで降りてきたんだ。そしたらね、ソラ君がこんな状態で、手当てしようかと思ったけどよく分かんなくて……」
「分かったから落ち着け! いいか、お前は近くの動物病院に電話を掛けてくれ。千条は、包帯でも何でもいいから、とにかく血を抑えられそうなものを持ってきて欲しい」
「う、うん!」
如月と千条がそれぞれ言われたことをこなしに駆けていく。残された僕は、まずソラの現状を把握することにした。どうやら、割れた破片によって、足を切ったらしい。それも、結構深めに抉られているようである。
横を見ると、すぐ近くに何かが置かれていたと思われる台座があった。ロビーの対照になる位置には、同じような台座があり、その上には派手な壺が乗っている。恐らくこちら側にも同じ物があり、それが落ちたのだろうと推測できた。
「ど、どうなされたのですかこれは!」
二階へ続く階段から慌てて降りてきたのは、最初に僕たちを出迎えたメイドだった。休憩中だったのか、先程よりも幾分動きやすそうな格好をしている。倒れているソラを発見した彼女は、これ以上ないほど悲痛な叫びを上げた。
「ソラ! ああ、なんてひどい怪我! 早く獣医を呼んでこなければ……」
「動物病院になら今電話をかけています。包帯は千条……さんに取ってきてもらっています」
僕の言葉に、彼女は目を丸くして、一度ゆっくりと瞬きをした。その後、もう一度現場に視線を戻す。自分のやるべきことを把握しようとしているのだろう。彼女は僕に一礼してから、千条の部屋とは反対の部屋に走っていった。
自分でも驚くほど、僕は冷静だった。千条や、あの如月でさえ取り乱しているというのに、どうして僕はこれほどまでに落ち着いていられるのだろう。ソラに対して何も感じないわけではない。可哀想ではあるし、すぐに治してやりたいとも思う。しかし、僕の思考の大半は、別のことを考えるのに必死だった。
――これは、偶然なのか?
「優君、駄目だよ! 病院繋がらない!」
如月が戻ってきて、今にも泣きそうな表情で僕にそう訴えた。僕はソラを見る。さっきよりも、苦しそうに息をしているように見えた。出血が多いせいだろうか。とにかく、素人目に見ても、このまま放っておいたら危険なことは認識できた。
「どうしよう、どうしよう……ねえ優君、私、どうすればいいの? ねえ!」
「いいから、まずは落ち着いて。慌てたって、何にもならないよ。一度深呼吸するんだ」
如月の肩に手をのせて、僕はそう優しく語りかけた。虚ろな目で、如月が僕を見つめ返し、こくりと頷いて言う通りにする。今まで長く付き合ってきたが、如月のこんな姿を見るのは初めてのことだ。
……いや。
本当に、初めてだったか?
以前にも、似たようなことがあったような気がする。
思い出せない。
思い出したくない。
「――須野君、救急箱、持ってきたよ。早く、応急手当てしてあげなくちゃ」
千条の声で、僕は現実に引き戻される。見ると、赤い十字マークの入った白い箱を持った千条が、ソラの前に座っていた。僕は思考を振り払って、その援護に回る。落ち着きを取り戻したのか、如月も僕の横で手伝いを始めた。
考えるのは後だ。まずは、ソラを助けよう。
心の中でそう言い聞かせた。
※
夕方の空は、既に赤く染まっている。ああ、ここは自分が知っている世界で間違いないんだなと、屋敷から外に出た僕は感じた。今までがあまりに非現実的過ぎて、どうにも感覚が麻痺してしまっていたようだ。
「ごめんね、こんなことになっちゃって」
道路に面する巨大な門の前で、千条が申し訳なさそうな表情で詫びた。どうやら、『いかなる時でも常に笑顔』という状況からの脱却は図れつつあるらしい。まだぎこちないが、これから慣れていけばいいのだろうと、お節介なことを考えている僕がいた。
「でもソラ君、本当に大丈夫? ちゃんと治るかな?」
「きっと、大丈夫だよ。あの先生は、私が一番信用してる先生だから」
そう千条が答えると、如月は安心したようにほっと胸を撫で下ろした。千条が信用しているからといって必ず治るとも限らないだろうとは思ったが、無粋なことなので黙っておく。今は、安心しておくことが大事だ。
あの後、戻ってきたメイドさんと一緒に、白衣を着たいかにも医者な見た目の老人が現れた。聞けば、ソラが幼い頃から世話になっている獣医だという。メイドがすぐに連絡を取った所、急ぎに急いで来たそうだ。そんな人がいるなら先に言って欲しかったのだが、千条も相当慌てていたようだし、頭がそこまで回らなくても仕方なかったのだろう。
彼は僕たちに応急手当てされたソラを見て、「君たちがこれをやったのか」と驚いていた。高校生になりたての子どもたちがやったにしては、かなりの出来であったらしい。ただ包帯を巻いただけなのだが、医療の世界はよくわからない。
それから、ソラはメイドさんと共に行きつけの動物病院に連れていかれることになった。足の怪我の具合によっては、しばらく入院することも考えられる、と獣医は説明していた。
「千条、今日は親も帰ってこないんだろう? 本当に一人で大丈夫なのか」
「うん、大丈夫。ご飯も、ちゃんと用意されてるし、一人には、慣れっこだから」
少しだけ笑った後、一瞬だけ寂しそうな顔をしたのを、僕は見逃さなかった。しかし、僕は「そうか」とだけ答える。これ以上は、彼女の問題だ。僕がどうこう出来る問題ではない。そう感じたのだ。
そのまま別れを告げようとした時、千条が不意に近付いてきて、僕の耳元で呟いた。
「今日は、ありがとう。後は、由乃ちゃんのことを、もっとちゃんと見てあげて」
「え?」
僕が聞き返そうとする前に千条は離れて、笑顔で手を振った。もう言いたいことは言い終わったらしい。どういうことか追及したかったが、如月の手前、僕も素直に手を振り返した。
千条の家を後にして、僕と如月は並んで帰路に着く。如月はしばらく黙って歩いていたが、我慢しきれなくなったのか、急に僕の方に顔を向けた。
「ねえ、ソラ君って、どうして怪我したのかな?」
「どうしてって、見れば分かっただろ。壺が落ちて、その破片で足を切ったんだよ」
「うーん、だよねえ。そうなるよねえ」
腕を組んで、難しそうな顔で空を見上げる如月。勿体振ったような態度だが、僕も彼女の言いたいことは分かる。
「なぜ壺が落ちてきたか、ってことか」
「そう、それそれ! 普通ああいうのってさ、何かしら、落ちないようになってるもんじゃない? 割れてほしくはないわけだしさ」
「少なくとも、ソラが台座に当たったくらいで落ちてくるような作りではなかったと思うな」
言いながら、僕は現場の近くにあった台座を思い出す。ぱっと見ただけだから詳しくは分からないが、高さは一メートルくらいで、相当重そうな素材で作られているようだった。それこそ、小型犬の体当たりなど屁でもないだろう。もう一方に乗っていた、割れたものと同じ型と思われる壺も同様で、それはそれは豪華で重量感のある壺だった。もちろん、簡単に落ちるような乗り方はしていなかったはずだ。
「もしかしたら、これも……」
「『神様』の仕業、とか?」
僕の言葉を取るように、如月が続けた。こちらを見て、意味深な笑みを浮かべる。僕は何も言わずに、肩を竦めて歩いた。
もしこれが『神様』の仕業だったとするならば。
あの時『神様』は、千条の家の中にいたことになる。
僕たちでないなら、そいつは無断で千条の家に入り込み、壺を落とし、ソラに怪我をさせて、どこかへ消えたということだ。
わざわざそんなことをしなければいけない理由は、一体何だったのだろう。
「……そういえば、結局戻ってこなかったけど、如月はあの時どこにいたんだ?」
「ぶー、疑ってるの? 私は麗華ちゃんの言ってた通りに、最高にふかふかな椅子とずーっと戯れていたんだよ。大きな音がしたから、慌てて一階に降りたのさ」
頬を膨らませて、心外だと言わんばかりにそう如月は答えた。その返答に、僕はなんとなく安心する。確かに、あの時の如月の慌てようは本物だったように思える。自分でやっておいてあの反応をするのは、ちょっと無理があるだろう。
やはり、ただの偶然であり、不幸な事故だったのだろうか。そうである方が、話は早い。誰も疑わなくていいし、誰も傷付かなくて済む。昨日の尾坂の件だって、全く関係のない人物が、衝動的に行った無差別の犯行だと考えれば、『神様』との関連なんてなくなるのだ。
強引に、僕はそう結論付けた。今は別に、そんなに深く考えなくてもよいだろう。あまりそんなことに思考の時間を費やされるのも癪である。考えなくてはいけないことは、もっとたくさんある。
「うーん、今日は楽しかったような疲れたようなだったねえ。たまにはこういうのもいいかもにゃー」
いつの間にか、如月との分かれ道に着いていた。如月が僕と反対側の帰り道に背を向けて立っている。彼女の姿は、逆光で夕焼け色に染まっていた。
不意に、千条の最後の言葉を思い出す。もっと如月のことをちゃんと見ろ。あれは、どういうことだったのだろう。僕はちゃんとこいつのことを見ているつもりだ。
見ている……?
どうしてだ?
どうして僕は、如月のことを見ている?
「じゃあね、優君。また明日!」
「如月、あのさ――」
刹那。
脳裏によぎった、光景。
僕と、如月だ。
彼女は、何かに怯えるように、頭を抱えている。
僕は、そんな彼女を慰めるように、肩を抱き締めている。
これは……いつの光景だ?
「今日は、取り乱しちゃってごめんね。私……私ね、もっと強くなるから」
最後にそう言い残して、如月は夕焼けの中へ吸い込まれていった。
それは、実に美しく、実に儚げな姿だった。
「やっぱり?」
首を傾げる僕に、千条は変わらない笑顔で頷く。それほど僕は千条に優しくしていたのだろうか。思い返してみたが、それらしいシーンに心当たりは見つからない。悩ましげに唸る僕に、千条が語りかける。
「須野君は、自分の優しさに、気付いていないんだね。それとも、気付かないようにしてるだけ?」
「そう言われてもなあ……」
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「ああ、そうだよ。如月はずっとあんな感じだ」
「それは、本当にずっと?」
千条の表情からは、いつの間にか笑顔が消えていて、今までにない真剣な顔つきになっていた。笑顔を解除できたことへのリアクションをしたかったが、それよりも、なぜこんなに喰いかかってくるのかが気になる。
「一体、何がそこまで――」
問いかけようとするのと、扉の外で何かが割れたような大きな音がしたのは、ほぼ同時のことだった。驚いて、すぐに後ろを振り向く。大きな扉は閉まっている。
「びっくりした。何事かしら」
千条は目をパチリとさせてから、立ち上がって扉へ向かった。僕もその後を着いていく。なんとなく、如月が何かやらかしたのではないかという不安が頭を過る。ついさっき話題になったばかりというのもあるが。
部屋の前には、特に異常は見当たらない。辺りを注意深く見回しながら、僕と千条は反対側の部屋の近くまで行き、そこで見た光景に目を疑った。
「あ、優君、麗華ちゃん! 大変なの! ソラ君が、ソラ君がね……」
パニックになったように慌てふためく如月の足元に転がっていたのは、粉々になった何かの破片と、血を流したソラの姿だった。真っ赤に染まった床に、ぐったりと寝転んでいる。一瞬、もう手遅れかと思ったが、よく見ると苦しそうに息をしていた。どこか怪我をしているようだ。
「あのね、大きな音がしたから、急いで降りてきたんだ。そしたらね、ソラ君がこんな状態で、手当てしようかと思ったけどよく分かんなくて……」
「分かったから落ち着け! いいか、お前は近くの動物病院に電話を掛けてくれ。千条は、包帯でも何でもいいから、とにかく血を抑えられそうなものを持ってきて欲しい」
「う、うん!」
如月と千条がそれぞれ言われたことをこなしに駆けていく。残された僕は、まずソラの現状を把握することにした。どうやら、割れた破片によって、足を切ったらしい。それも、結構深めに抉られているようである。
横を見ると、すぐ近くに何かが置かれていたと思われる台座があった。ロビーの対照になる位置には、同じような台座があり、その上には派手な壺が乗っている。恐らくこちら側にも同じ物があり、それが落ちたのだろうと推測できた。
「ど、どうなされたのですかこれは!」
二階へ続く階段から慌てて降りてきたのは、最初に僕たちを出迎えたメイドだった。休憩中だったのか、先程よりも幾分動きやすそうな格好をしている。倒れているソラを発見した彼女は、これ以上ないほど悲痛な叫びを上げた。
「ソラ! ああ、なんてひどい怪我! 早く獣医を呼んでこなければ……」
「動物病院になら今電話をかけています。包帯は千条……さんに取ってきてもらっています」
僕の言葉に、彼女は目を丸くして、一度ゆっくりと瞬きをした。その後、もう一度現場に視線を戻す。自分のやるべきことを把握しようとしているのだろう。彼女は僕に一礼してから、千条の部屋とは反対の部屋に走っていった。
自分でも驚くほど、僕は冷静だった。千条や、あの如月でさえ取り乱しているというのに、どうして僕はこれほどまでに落ち着いていられるのだろう。ソラに対して何も感じないわけではない。可哀想ではあるし、すぐに治してやりたいとも思う。しかし、僕の思考の大半は、別のことを考えるのに必死だった。
――これは、偶然なのか?
「優君、駄目だよ! 病院繋がらない!」
如月が戻ってきて、今にも泣きそうな表情で僕にそう訴えた。僕はソラを見る。さっきよりも、苦しそうに息をしているように見えた。出血が多いせいだろうか。とにかく、素人目に見ても、このまま放っておいたら危険なことは認識できた。
「どうしよう、どうしよう……ねえ優君、私、どうすればいいの? ねえ!」
「いいから、まずは落ち着いて。慌てたって、何にもならないよ。一度深呼吸するんだ」
如月の肩に手をのせて、僕はそう優しく語りかけた。虚ろな目で、如月が僕を見つめ返し、こくりと頷いて言う通りにする。今まで長く付き合ってきたが、如月のこんな姿を見るのは初めてのことだ。
……いや。
本当に、初めてだったか?
以前にも、似たようなことがあったような気がする。
思い出せない。
思い出したくない。
「――須野君、救急箱、持ってきたよ。早く、応急手当てしてあげなくちゃ」
千条の声で、僕は現実に引き戻される。見ると、赤い十字マークの入った白い箱を持った千条が、ソラの前に座っていた。僕は思考を振り払って、その援護に回る。落ち着きを取り戻したのか、如月も僕の横で手伝いを始めた。
考えるのは後だ。まずは、ソラを助けよう。
心の中でそう言い聞かせた。
※
夕方の空は、既に赤く染まっている。ああ、ここは自分が知っている世界で間違いないんだなと、屋敷から外に出た僕は感じた。今までがあまりに非現実的過ぎて、どうにも感覚が麻痺してしまっていたようだ。
「ごめんね、こんなことになっちゃって」
道路に面する巨大な門の前で、千条が申し訳なさそうな表情で詫びた。どうやら、『いかなる時でも常に笑顔』という状況からの脱却は図れつつあるらしい。まだぎこちないが、これから慣れていけばいいのだろうと、お節介なことを考えている僕がいた。
「でもソラ君、本当に大丈夫? ちゃんと治るかな?」
「きっと、大丈夫だよ。あの先生は、私が一番信用してる先生だから」
そう千条が答えると、如月は安心したようにほっと胸を撫で下ろした。千条が信用しているからといって必ず治るとも限らないだろうとは思ったが、無粋なことなので黙っておく。今は、安心しておくことが大事だ。
あの後、戻ってきたメイドさんと一緒に、白衣を着たいかにも医者な見た目の老人が現れた。聞けば、ソラが幼い頃から世話になっている獣医だという。メイドがすぐに連絡を取った所、急ぎに急いで来たそうだ。そんな人がいるなら先に言って欲しかったのだが、千条も相当慌てていたようだし、頭がそこまで回らなくても仕方なかったのだろう。
彼は僕たちに応急手当てされたソラを見て、「君たちがこれをやったのか」と驚いていた。高校生になりたての子どもたちがやったにしては、かなりの出来であったらしい。ただ包帯を巻いただけなのだが、医療の世界はよくわからない。
それから、ソラはメイドさんと共に行きつけの動物病院に連れていかれることになった。足の怪我の具合によっては、しばらく入院することも考えられる、と獣医は説明していた。
「千条、今日は親も帰ってこないんだろう? 本当に一人で大丈夫なのか」
「うん、大丈夫。ご飯も、ちゃんと用意されてるし、一人には、慣れっこだから」
少しだけ笑った後、一瞬だけ寂しそうな顔をしたのを、僕は見逃さなかった。しかし、僕は「そうか」とだけ答える。これ以上は、彼女の問題だ。僕がどうこう出来る問題ではない。そう感じたのだ。
そのまま別れを告げようとした時、千条が不意に近付いてきて、僕の耳元で呟いた。
「今日は、ありがとう。後は、由乃ちゃんのことを、もっとちゃんと見てあげて」
「え?」
僕が聞き返そうとする前に千条は離れて、笑顔で手を振った。もう言いたいことは言い終わったらしい。どういうことか追及したかったが、如月の手前、僕も素直に手を振り返した。
千条の家を後にして、僕と如月は並んで帰路に着く。如月はしばらく黙って歩いていたが、我慢しきれなくなったのか、急に僕の方に顔を向けた。
「ねえ、ソラ君って、どうして怪我したのかな?」
「どうしてって、見れば分かっただろ。壺が落ちて、その破片で足を切ったんだよ」
「うーん、だよねえ。そうなるよねえ」
腕を組んで、難しそうな顔で空を見上げる如月。勿体振ったような態度だが、僕も彼女の言いたいことは分かる。
「なぜ壺が落ちてきたか、ってことか」
「そう、それそれ! 普通ああいうのってさ、何かしら、落ちないようになってるもんじゃない? 割れてほしくはないわけだしさ」
「少なくとも、ソラが台座に当たったくらいで落ちてくるような作りではなかったと思うな」
言いながら、僕は現場の近くにあった台座を思い出す。ぱっと見ただけだから詳しくは分からないが、高さは一メートルくらいで、相当重そうな素材で作られているようだった。それこそ、小型犬の体当たりなど屁でもないだろう。もう一方に乗っていた、割れたものと同じ型と思われる壺も同様で、それはそれは豪華で重量感のある壺だった。もちろん、簡単に落ちるような乗り方はしていなかったはずだ。
「もしかしたら、これも……」
「『神様』の仕業、とか?」
僕の言葉を取るように、如月が続けた。こちらを見て、意味深な笑みを浮かべる。僕は何も言わずに、肩を竦めて歩いた。
もしこれが『神様』の仕業だったとするならば。
あの時『神様』は、千条の家の中にいたことになる。
僕たちでないなら、そいつは無断で千条の家に入り込み、壺を落とし、ソラに怪我をさせて、どこかへ消えたということだ。
わざわざそんなことをしなければいけない理由は、一体何だったのだろう。
「……そういえば、結局戻ってこなかったけど、如月はあの時どこにいたんだ?」
「ぶー、疑ってるの? 私は麗華ちゃんの言ってた通りに、最高にふかふかな椅子とずーっと戯れていたんだよ。大きな音がしたから、慌てて一階に降りたのさ」
頬を膨らませて、心外だと言わんばかりにそう如月は答えた。その返答に、僕はなんとなく安心する。確かに、あの時の如月の慌てようは本物だったように思える。自分でやっておいてあの反応をするのは、ちょっと無理があるだろう。
やはり、ただの偶然であり、不幸な事故だったのだろうか。そうである方が、話は早い。誰も疑わなくていいし、誰も傷付かなくて済む。昨日の尾坂の件だって、全く関係のない人物が、衝動的に行った無差別の犯行だと考えれば、『神様』との関連なんてなくなるのだ。
強引に、僕はそう結論付けた。今は別に、そんなに深く考えなくてもよいだろう。あまりそんなことに思考の時間を費やされるのも癪である。考えなくてはいけないことは、もっとたくさんある。
「うーん、今日は楽しかったような疲れたようなだったねえ。たまにはこういうのもいいかもにゃー」
いつの間にか、如月との分かれ道に着いていた。如月が僕と反対側の帰り道に背を向けて立っている。彼女の姿は、逆光で夕焼け色に染まっていた。
不意に、千条の最後の言葉を思い出す。もっと如月のことをちゃんと見ろ。あれは、どういうことだったのだろう。僕はちゃんとこいつのことを見ているつもりだ。
見ている……?
どうしてだ?
どうして僕は、如月のことを見ている?
「じゃあね、優君。また明日!」
「如月、あのさ――」
刹那。
脳裏によぎった、光景。
僕と、如月だ。
彼女は、何かに怯えるように、頭を抱えている。
僕は、そんな彼女を慰めるように、肩を抱き締めている。
これは……いつの光景だ?
「今日は、取り乱しちゃってごめんね。私……私ね、もっと強くなるから」
最後にそう言い残して、如月は夕焼けの中へ吸い込まれていった。
それは、実に美しく、実に儚げな姿だった。
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