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第8話 雨

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「……ッッ」

 あまりの恐怖に、気が動転して聖剣の中から飛び出してしまった。
 それでもあたりは真っ暗で、余計にパニックになってしまう。

「や、やだ、もう嫌だ、殺したくない……!」

 地面に頭をこすりつけ、しばらく泣いて、ようやく我に返った。
 真夜中。
 空はくもっているせいで、月どころか星もない。本当に真っ暗だ。
 そうか。私は昼間、子供たちに言われたことを考えすぎたせいで、いやな夢を見ちゃったんだ。あいつはもう、ここにはいない。きっと私を見つけられない。だから大丈夫。大丈夫だ、ティア。

 長く人の姿でいすぎたせいか、呼吸なぞしなくても大丈夫だというのに、ひゅうひゅうと荒ぶる息をつい癖でととのえた。
 寒い。雨の匂いがする。もうすぐ土砂降りになるかもしれない。
 そう思っても、本体ではなく意識に直接ダメージをうけたせいか、その場からなかなか動くことができなかった。

 しばらくじっと薄汚れた土の上でじっとしていると、柔らかいオレンジ色の光が礼拝堂の入り口からやってくるのが見えた。それは少しずつ近づいてくる。私はそれから逃げようとも思わず、そのままじっとその場で座り込んでいた。

「……ティア?」

 聞きなれた声。
 ジョットだ。
 ランタンを持って、こんな真夜中にどうしたんだろう。

「おい、どうした、こんなとこで何やってんだ」

「……」

 私の様子がおかしいことに、彼はすぐに気づいた。

「ティア」

 真剣な声でそう問われて、少し落ち着いた。

「俺の顔を見ろよ」

 ぐいっと顎を持ち上げられる。
 端正な顔の男が目に映った。

「ティア、大丈夫だ」

「……」

 驚いた。大丈夫だ、なんて、言われると思ってなかった。
 ぽた、と何かが地面にこぼれ落ちる。雨かと思ったら、自分の瞳から流れ落ちているようだった。

「お前を脅かすものなんか、何もねェ。安心しろ」

 腕を引かれた。

「あ……」

 気づいたら、ジョットの腕の中にいた。
 あたたかい。
 髪を撫でられた。
 子どものように。
 タバコ臭さで、ようやく頭が冷静になった。

「……中に戻りたい」

「ああ、わかった」

 意識を集中させると、私の幻影は分解され、すっと聖剣の中に吸い込まれた。肉体が戻ったせいか、だいぶ落ち着いた。
 しばらくしてから、そばにいたジョットが声をかけてきた。

「大丈夫か?」

「……ええ。大丈夫です。悪い夢をみただけです」

「夢?」

「あなただって、みるでしょう。剣だって、夢をみるんです」

 二百年も生きた聖剣が、悪夢ごときでこんな状態になるなんて、さぞ笑える話だろう。剣だって夢を見るのだ。

「ああ……」

 ジョットはうつむいて言った。

「それは辛かったな」

「……」

 彼はそれ以上何も聞かなかった。
 ただ、気づいたらタバコの匂いがして、そちらに意識を向けるといつも通り口の端にタバコをくわえていた。つくづくマイペースなやつだ。
 煙を燻らせながら、ジョットは言った。

「お前、この世界に愛想尽かしたなんて、嘘だろ」

「……」

「もっと何か、別の理由で、使い手を拒んでる。嘘つくなら、もっとマシな嘘つけよ」

 私は正義を司る聖剣。
 だから、正直いうと、嘘は苦手だ。

「……私は性格が悪いんです」

 そうか? とジョットは笑った。

「お前ェ、優しすぎるんだよ」

「……や、優しくなんかない。あなたの目は節穴ですね」

「好きに言ってろ」

 ふう、と煙を吐き出す。
 あ、くそこいつ、また台座で火をもみ消しやがった。
 文句を言ってやろうと口を開こうとすれば、それより先にジョットが言葉を発した。

「本当にこの世界が嫌いなら、俺にも、あの子供らにも、かまわねェはずだ。今日のお前の顔、俺は忘れらんねェよ」

 ぽつ、ぽつと雨が降り始めた。
 次第に雨足は強くなる。
 割れたステンドグラスの女神が、涙を流すように雫を零していた。

「なんでお前はここにきたのです?」

「なんでって、昼間のお前の様子が変だったからだよ」

「……」

 ぽたぽたと、ひび割れた天井から水滴が落ちてくる。
 せっかく磨いてくれたのに、また汚れるな、とぼんやり思った。
 この森の雨は恵の雨なんかじゃない。
 穢れを含んだ、人を傷つける雨だ。

「……帰りなさい。迷惑をかけました」

 ぽつりとそう呟く。
 この男のそばにいると調子が狂う。
 早く一人になりたい。早くこの森から出て行け。
 そうじゃないと私は……。
 冷たい雫が、刃につ、と滴った。
 しかし次の瞬間、ぽふりと剣にあたたかいものを感じる。
 見れば、彼が私に上着をかけたところだった。

「! ちょ、何して……」

「せっかく磨いたのに、もったいねェ」

 そういって、どっかりと台座に座り込む。雨は強くなる一方だ。

「寒いだろ」

「わ、私は聖剣です。何も感じる訳ないでしょう! それよりもお前、さっさと……」

「聖剣だろうが人間だろうが」

 ジョットは雨に濡れながら言った。

「泣いてる女、放って帰る男がどこにいる?」

「……っ」

 雨の音がとまった気がした。

 泣いてなど、いるか。
 そう言おうと思ったのに、言葉がつっかえて出てこない。
 なんなのだ、なんなのだ、この男は。
 気色悪いことばかり言いやがって。
 私の心をゆさぶりおって。

 私だって、本当は好きでこんなところにいるわけじゃない。
 一人で泣いていたいわけじゃない。
 だけどどう考えても無理なのだ。
 再び聖剣としての誇りを取り戻すのは。
 私はもう、あまりにも穢れすぎた。
 それを拭い去ってくるれる、清めの雨も降らない。

「……俺は昔から、お前が欲しくてたまらなかった」

「……」

「だからお前を手に入れるためならなんだってする」

 ジョットはうつむいて拳に視線を落とした。
 髪が濡れている。
 
「お前の願いならなんだって叶えてやるよ」

 空を見上げる。
 美しい顔に雨の雫が滴った。

「まあ、諦めろって願いは、聞けねぇけど」

 そういってヘラリと笑う。
 私はなんだか、呆れてしまって、剣の中でため息をついた。
 この男は私が何をいっても、離れる気はなさそうだ。
 ヘラヘラと適当な雰囲気を醸し出しているが、人一番執着心の強い男なのだろう。

「……勝手にしなさい、気色悪い男め」

「ああ、勝手にするさ」

 隣に座るジョットの体温が温かい。
 その晩、強情な者たちの上に、雨は降り続いた。
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