生残の秀吉

Dr. CUTE

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迂回

二百一.汚名の恒興

天正十二年三月十七日 卯の刻

昨日降った雨は、今朝の霧と化す。犬山城いぬやまじょうの天守で恒興つねおき朝陽あさひおがむと、城下の霧を見下ろしながら、今日これから起こるであろう景色を頭の中で思い描く。

(さてぇっ、今日のうちに清洲きよすまで辿たどけるかのぉっ。少なくとも小牧山こまきやままではいけるじゃろうっ。ふふふっ、あわてふためく清洲きよすの町衆の姿が眼に浮かぶわぃ・・・。すれば信雄様のぶかつさまは使いの者を寄越よこすはずっ・・・。その後はどうするかのぉ・・・。)

にやつく恒興つねおきだったが、霧の中ににわかな違和感を感じる。

(んっ、婿殿むこどのの陣の川向こうで何か動いたようなぁ・・・。気のせいかぁ・・・。)

すると突然階下からばたつく足音が聴こえ始める。そして何やら怒鳴り声が城内に響き渡るようになるが、壁で反響するせいで、何をさわいでいるのか分からない。

「何じゃぁっ、朝からさわがし・・・。」

恒興つねおきが階段の方を振り向くと、元助もとすけあわただしく階段を駆け上がり、驚愕の面持おももちで恒興つねおきに向かって大声を張る。

「父上っ、大事じゃぁ・・・。徳川とくがわがぁっ、三河殿みかわどのがぁっ、こちらに向かっとるぅっ。」

「なっ、何じゃとぉっ。三河殿みかわどのがぁ・・・。」

「それだけではありませんぞぉっ・・・。しらせによるとぉ、三河殿みかわどのは既に小牧山こまきやまに陣を敷きぃっ、着々と柵を立てぇ、堀を掘って、城構しろがまえを備えとるらしいっ。」

「っかぁっ、まさかこんなに早く三河殿みかわどのが動くとはぁ・・・。見立てを間違えたわぃっ。」

すると今度は外から『どどぉぉっ』とすさまじい銃音が響き渡る。恒興つねおきあわてて再び天守の板張いたばりに乗り出す。

「もっ、もしかして、先鋒せんぽうはもうここまで来とるんかぁ・・・。」

二度、三度と銃音を確かめると、今度は少しずつ晴れる霧の中から押し出してくるときの声を肌で感じる。

「いっ、いかんっ、奇襲じゃぁっ。婿殿むこどのの隊が狙われとるぅっ・・・。婿殿むこどのは・・・、婿殿むこどのはぁ、気付いとらんかったようじゃぁ・・・。」

元助もとすけ恒興つねおきそばに立ち、南方に眼を向ける。徐々に五条川ごじょうがわの河岸に徳川方とくがわがた先鋒せんぽう酒井忠次隊さかいただつぐたいが姿をあらわす。敵勢が川を越え、押し寄せる一方で、きょかれた手前の森長可隊もりながよしたいたむろしているあたりでは、旗指物はたさしものが右に左に乱れ揺れているのが見て取れる。

「いっ、いつの間にぃ・・・。」

徳川とくがわは動かんと、たかをくくったがわしの落ち度じゃぁ・・・。」

元助もとすけても立ってもられない。

「こうしてはおられませぬ。早く援軍をぉ・・・。」

「ちっ、ちぃと待てぇっ、元助もとすけぇっ・・・。」

恒興つねおきは何か考え込むように、右に左にとあたりに眼を見張る。しばらくの沈黙は元助もとすけ苛立いらだたせるが、恒興つねおきは構わない。

(川を越えて攻めるとなると、相手に退猶予ゆうよを与えてまう。敵がそれを見越しておるとなるとぉ・・・。)

恒興つねおきが突然西の方向を指差す。

元助もとすけぇっ、あのあたりに既に川を越えた別働隊べつどうたいがおるっ。婿殿むこどの退くを見計らって、横から襲うつもりじゃぁ。」

元助もとすけ恒興つねおきが指差す方向を凝視ぎょうしすると、何かがうごめいているのに気付く。

「確かにぃっ。鉄砲隊が忍び寄っておりますっ。これはまずいっ・・・。」

元助もとすけぇっ、今すぐ兵を出してあの別働隊べつどうたいを攻めよっ。わしもこれより出て、婿殿むこどのを支援するっ。急げぇ・・・。」


二人は急いで階段を降り、出陣の支度したくを始める。二人にとってはその時間が永遠に続くかのように長く感じる。こうしている間に森隊もりたいの陣形は崩れはじめ、逃亡者が現れ始める。長可ながよし果敢かかんに槍を振り回し、敵をたおす。しかししばらくすると今度は西の方から銃音が聞こえ始める。

「くそぉっ、別働隊べつどうたいかぁっ、やむを得ん。一旦退けぇ・・・。」

しかし既にこの頃には酒井隊さかいたいの大半は川を渡りきっていた。逃げようにも次から次へと襲い掛かる敵をはらいながら、馬上の長可ながよしは苦戦する。

(これでは義父上ちちうえに合わせる顔がないっ・・・。)

もはや気をくは長可ながよし一人である。敵が押し寄せるも、長可ながよしは疲れを覚えない。長可ながよしが数えられないほど敵を倒していると、今度は後方からときの声が聞こえてくる。

(援軍っ・・・、義父上ちちうえかぁ・・・。)

振り向くと恒興つねおきの軍勢四千が向かってくる。そして榊原康政さかきばらやすまさひきいる別働隊べつどうたいの方には元助もとすけの軍勢二千が向かって行く。

「よしっ、援軍じゃぁ・・・。盛り返すぞぉ・・・。」

しばらくは長可ながよし一人がいきっていたが、そのうち味方も声を上げはじめ、酒井隊さかいたいを押し返し始める。すると一帯に法螺貝ほらがいの音が響き渡る。

(何っ、撤退てったいっ・・・。)

いつの間にか忠次ただつぐは鉄砲隊を突撃方向から少しずれた川向こうの西側に移動させており、そこから威嚇射撃いかくしゃげきを始める。忠次ただつぐの騎馬隊・歩兵は一斉いっせいに撤退を開始するが、長可ながよしらは鉄砲隊にはばまれて後を追えない。康政隊やすまさたいの方も、元助隊もとすけたいと刀を交えることなく方向転換し、戦場いくさばから姿を消す。

婿殿むこどのぉっ・・・、無事かぁっ・・・。」

息荒く馬上から敵の動向をにら長可ながよしの元へ恒興つねおきが駆け付ける。

婿殿むこどのぉっ、こちらも撤退てったいじゃぁ。犬山いぬやままで戻るぞぃっ・・・。」

酒井隊さかいたいが向こう岸に戻ると、隊は川に沿って立ちはだかる。そのさまを確かめた長可ながよしくちびるみしめながら屈辱くつじょくの念を心に放ち、犬山いぬやま退く。

(この汚名おめいは次こそ返すぞぉっ・・・。)
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