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退陣
一.雨中の小一郎
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天正十年六月三日 戌の刻
小一郎はどしゃ降りの石井山を駆け上がる。ろくに蓑笠をつけずに具足の掠れる音を立てながら、ぬかるんだ山道に抗う。だが焦りだけが先を走る。
(早う兄さぁに伝えんと・・・。)
湿気が染み込んだ重い胴丸の内側で、冷めた汗と雨と土とが同時に熱った身体に混じり込んでくる。まるで泥沼に溺れもがく小一郎の瞳の中に、切なさと諦めの涙滴が創り出されようとしている。
ようやく持宝院の門前に辿り着いたところで立ち止まり、息を整える。前屈みの小一郎の左手には高松城の本丸と二の丸がちらと見える。灰色の雨の中で堤に並んだ松明に照らされた孤城の夜景は、これまでなら誇らしげに見下ろす景色だったのだが、今は不思議と人生の虚しさを顕している。
(ついこないだまで絶景じゃったはずじゃけどなぁ。)
まだ息荒いままの小一郎はやけに自身の半生を振り返るようになっている。そのほとんどが兄のわがままに翻弄されたことへの愚痴と化してしまうのだが、それでもここに至ってはどの年月よりも充実していた。それだけに小一郎は嘆息する。
(絶望ってぇのは突如して来るもんなんじゃなぁ。)
小一郎は身体が冷えるのを覚える。
「いかんっ、いかんっ。えぇいっ。」
気を入れ直した小一郎が再度駆け出す。暗闇の境内に入り、持宝院の講堂に設けられた御座所へ向かう。
「兄さぁ、兄さぁはどこじゃあ、」
濡れた草葉が足に点々とはりついたまま御座所にばたばた踏み入ると、陣幕と床几だけが雨除けされた篝火に照らされている。
「兄さぁ、兄さぁ、」
必死の小一郎が辺りに向かって吠えるものの、誰の何の返しもない。側でうたた寝していた小兵たちは疲れの方が勝っているのか、小一郎の呼び掛けに応えてまで起きようとしない。小一郎は御座所の不自然さに気付く。
(徳利も杯もない。)
いつもの籠城の夜なら見張りこそ備えるものの、攻める側では宴となり、松明の光と大きな笑い声で籠る側の不安をわざと煽り立てる。だがそんな様子は窺えない・・・。加えて小兵たちの反応がいかにも乏しい。悪い予感を覚える小一郎は推理する。
(さては本堂かっ。皆に黙って『おなごあそび』にふけっちょるなぁ。)
昔から兄が陣中に女を連れ込んだときは、何もかも放り出してまっしぐらである。そうといきり立つ小一郎はわざわざ陣幕を強く振り払いながら御座所を飛び出す。
再び雨の小一郎が庭に駆け出すと、地元の村人らしき二人とすれ違う。食糧でも乞いにきたのか、軽く会釈してやり過ごす。しかし村人の片割れのさほど汚れていない足元に小一郎の眼が一瞬止まる。
(外面は汚い百姓じゃが、あの足の爪はやはり・・・。)
振り返ることもなくただ本堂に向かっていくだけの小一郎は、すでに兄の『おなごあそび』を決めつけている。
(そういやぁ、官兵衛も見当たらん。また用心棒気取りになっとるんじゃろう。)
本堂からのぼんやりした灯りが見え始める。疲れからか、雨で身体が冷やされているせいか、小一郎の足の動きは随分と鈍くなっている。しかしなぜか頭の中は冴え渡り、顔のあたりを取り巻く空気がますます熱を帯びてくる。
(こないなときまでわしは兄さぁに振り回されっちゅうんかい。)
やっとの思いで本堂にたどり着いた怒りの小一郎は、五、六段ほどの階段をどかどか叩きつけて上がる。そして、
「兄さぁ、大事じゃぁ。遊んでらんねぇぞぉ。」
と叫びながら、がらぁっと本堂の扉を開け放つ。
しかしさほど大きくない堂内の静けさは、小一郎の怒声を一瞬にこの世から消し飛ばす。大きく開いた小一郎の眼に、一つの行灯を挟んで座り込んでいる白けた風のじじぃ二人が映りこむ。白い陣羽織の秀吉が灯をじっと睨みつけたまま、藍の羽織の官兵衛が小一郎の方を見上げながら恍けた声で云う。
「早かったのぉ。」
小一郎はどしゃ降りの石井山を駆け上がる。ろくに蓑笠をつけずに具足の掠れる音を立てながら、ぬかるんだ山道に抗う。だが焦りだけが先を走る。
(早う兄さぁに伝えんと・・・。)
湿気が染み込んだ重い胴丸の内側で、冷めた汗と雨と土とが同時に熱った身体に混じり込んでくる。まるで泥沼に溺れもがく小一郎の瞳の中に、切なさと諦めの涙滴が創り出されようとしている。
ようやく持宝院の門前に辿り着いたところで立ち止まり、息を整える。前屈みの小一郎の左手には高松城の本丸と二の丸がちらと見える。灰色の雨の中で堤に並んだ松明に照らされた孤城の夜景は、これまでなら誇らしげに見下ろす景色だったのだが、今は不思議と人生の虚しさを顕している。
(ついこないだまで絶景じゃったはずじゃけどなぁ。)
まだ息荒いままの小一郎はやけに自身の半生を振り返るようになっている。そのほとんどが兄のわがままに翻弄されたことへの愚痴と化してしまうのだが、それでもここに至ってはどの年月よりも充実していた。それだけに小一郎は嘆息する。
(絶望ってぇのは突如して来るもんなんじゃなぁ。)
小一郎は身体が冷えるのを覚える。
「いかんっ、いかんっ。えぇいっ。」
気を入れ直した小一郎が再度駆け出す。暗闇の境内に入り、持宝院の講堂に設けられた御座所へ向かう。
「兄さぁ、兄さぁはどこじゃあ、」
濡れた草葉が足に点々とはりついたまま御座所にばたばた踏み入ると、陣幕と床几だけが雨除けされた篝火に照らされている。
「兄さぁ、兄さぁ、」
必死の小一郎が辺りに向かって吠えるものの、誰の何の返しもない。側でうたた寝していた小兵たちは疲れの方が勝っているのか、小一郎の呼び掛けに応えてまで起きようとしない。小一郎は御座所の不自然さに気付く。
(徳利も杯もない。)
いつもの籠城の夜なら見張りこそ備えるものの、攻める側では宴となり、松明の光と大きな笑い声で籠る側の不安をわざと煽り立てる。だがそんな様子は窺えない・・・。加えて小兵たちの反応がいかにも乏しい。悪い予感を覚える小一郎は推理する。
(さては本堂かっ。皆に黙って『おなごあそび』にふけっちょるなぁ。)
昔から兄が陣中に女を連れ込んだときは、何もかも放り出してまっしぐらである。そうといきり立つ小一郎はわざわざ陣幕を強く振り払いながら御座所を飛び出す。
再び雨の小一郎が庭に駆け出すと、地元の村人らしき二人とすれ違う。食糧でも乞いにきたのか、軽く会釈してやり過ごす。しかし村人の片割れのさほど汚れていない足元に小一郎の眼が一瞬止まる。
(外面は汚い百姓じゃが、あの足の爪はやはり・・・。)
振り返ることもなくただ本堂に向かっていくだけの小一郎は、すでに兄の『おなごあそび』を決めつけている。
(そういやぁ、官兵衛も見当たらん。また用心棒気取りになっとるんじゃろう。)
本堂からのぼんやりした灯りが見え始める。疲れからか、雨で身体が冷やされているせいか、小一郎の足の動きは随分と鈍くなっている。しかしなぜか頭の中は冴え渡り、顔のあたりを取り巻く空気がますます熱を帯びてくる。
(こないなときまでわしは兄さぁに振り回されっちゅうんかい。)
やっとの思いで本堂にたどり着いた怒りの小一郎は、五、六段ほどの階段をどかどか叩きつけて上がる。そして、
「兄さぁ、大事じゃぁ。遊んでらんねぇぞぉ。」
と叫びながら、がらぁっと本堂の扉を開け放つ。
しかしさほど大きくない堂内の静けさは、小一郎の怒声を一瞬にこの世から消し飛ばす。大きく開いた小一郎の眼に、一つの行灯を挟んで座り込んでいる白けた風のじじぃ二人が映りこむ。白い陣羽織の秀吉が灯をじっと睨みつけたまま、藍の羽織の官兵衛が小一郎の方を見上げながら恍けた声で云う。
「早かったのぉ。」
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