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第五話 怪獣香水を調合せよ

第五話(3)

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 当日がやってきた。
 この慰安旅行は各々から毎月ちょっとずつ一定額を積立金として徴収し、さらに福利厚生の補助金を加えて実施される、調査研究部の研究班と運搬班の親睦会的な旅行である。
 仕事柄、当日怪獣が出現してキャンセルせざるを得ない場合はキャンセル料が福利厚生費から出るので、個人の懐は痛まない。単に美味しい物を食いそびれるだけである。 
 夕方に現地集合、朝に現地解散が基本であるが、電車で行く者、自動車で行く者、手段は自由でいつも岡田と沼田所長は植村班長の車に同乗して現地に行くのがパターンであった。
 その他の南原、島崎、林、森野、貴志の五人は新宿駅に集合して電車で行くことになっている。
 作戦は既に立ててあり、貴志ら五人が夕方宿に着くと先に沼田所長達三人も到着していた。
 森野は女部屋に、貴志達も男部屋に入る。既に沼田所長と植村班長は部屋の冷蔵庫を開けてビールを飲んでいた。 
「君達も一杯どうかね」
 と植村班長が勧めたが、
「宴会時間の六時まであと四十分、先にひとっ風呂浴びに行ってきますよ」
 そう言って四人は露天風呂へ出かけた。
 宿屋はこぢんまりとして清潔そうな源泉かけ流しの旅館である。風呂の脱衣所から屋内風呂を抜けると、露天風呂へと行くことができた。
 露天風呂の湯加減と濡れた肌に空気のひんやりした感覚が心地よく、暗くなった海に船の灯りが見えた。
「宿での宴会が終了したら、街で二次会をやるのを口実に岡田さんを連れ出して海岸線をみんなで散歩。途中で島崎君と岡田さんを残して我々は隠れるから、うまくやってくれ」
「で、できるでしょうか……」
「そのための香水だろ。あと二回分もあれば余裕だろうが」
「が、頑張ります」
「所長達はどうなります?」
 貴志が尋ねた。
「恐らく例年のように沼田所長と植村班長は二次会には来ない。心配するな」
 みんなで風呂を出る頃には、ちょうど宴会の時間になっていた。
 料理自慢の宿という触れ込みで決めた旅館だが、評判通りに出てきた食事はうまかった。
 食事を終えて宴会場から沼田所長と植村班長が部屋に戻って行ったので、すかさず森野が岡田を誘い出した。
「南原さんが二次会に行きましょうと言って下で待ってますよ」
「お財布取りに行くから先に行ってて」
「はーい」
 森野は玄関へ歩きながら両手で頭の上に丸を作った。
「よし、岡田女史攻略作戦開始!」
 そういって南原が島崎の背中をバチンと叩いた。
「痛い、たい、たい」
 二、三分後に岡田もやって来た。
「お待たせ! さあ行きましょう。あら島崎君、二次会に参加なんてめずらしいわね」
「ま、まあ、たまには」
 島崎がはにかむような返事をして、一行は街の繁華街へとくり出した。
「岡田さん、お宮の松が近くにあるので行ってみませんか」 
 貴志が誘導する。 
「私も見たい」 
 森野がすかさず援護射撃をすると、
「じゃ、それ見てからスナックかバーにでも行ってみましょうか」
 と、南原が決定事項とした。
「そうね、私も見てみたいわ」
 空気は初冬を感じさせながらも、厚いコートを羽織るほどの寒さでもない。
 お宮の松は旅館から歩いて十分の所にあった。夜の八時過ぎである。少し肌寒いが景気の良さもあってか、結構松の周辺は観光客の集団やアベックで混んでいた。 
「岡田さん、すみません。私らはちょっとそこの公衆トイレに行ってきますのでここで待っててください」 
 南原がそっとみんなの肩を押し、岡田と島崎を残して公衆トイレへ歩き出す。
「ま、待って、ぼ、僕も行きます」
「なんで君まで来るんだよ」
 呆れて南原が文句を言った。
「や、やっぱり大事なことの前には、ど、どうしても行っておきたいと言うか、あ、あれですよね、へへへ……」
「早く戻れよ!」
 お宮の松では岡田が一人でみんなを待っていた。
 島崎は用を足すとポケットから香水を取り出し、指先に付けて耳の後ろにすり込み、そして武者震いすると岡田のいるお宮の松へと向かった。
 途中、島崎が女性とすれ違うと相手はとろんとした目で島崎の後を追う。島崎は気付かないが五、六人が従者のごとく彼の後に連なっていた。
 岡田が島崎を見つけると、「私も行ってくるから待ってて」と言い残し、この奇妙な一団を避けるようにしてトイレへと行ってしまった。
 作戦失敗である。
「そんな~」と肩を落として島崎が大きく溜め息をついた。
 
 建物の陰から様子を見ていた林の口から感嘆の声が漏れた。
「すげ~なぁ!」
「南原さんから話を聞いた時は半信半疑でしたが、これはすごいですよ」
 貴志も興奮して声を上げた。
 岡田がトイレから出てきたのは十分以上経ってからだ。なにせここら辺はオバチャン同士で来ている観光客が多いのだ。おまけに女性用トイレの数も少なく混雑で行列になっている。
 南原達を見つけた岡田が声をかけてきた。
「あら、あなた達ここで何してんの? お宮の松で待ってるんじゃなかったの?」
「まあそうですが……」
 岡田がみんなと一緒にお宮の松に戻った頃には、我に返った女性達が「私どうしたのかしら」と狐につままれたような変な顔をして、みんなパラパラと散っていった。
「さあ、早く行きましょうよ」
 みんなの心中を知る由もなく、岡田だけウキウキしている。要は早く飲みたいのだ。
「熱海銀座商店街へ行きましょうか。ここから遠くないので、良さそうな店があったら適当に入りますよ」 
 南原は島崎の肩を叩いて「チャンスはまだある」と小声で囁くと、みんなを先導して歩き出した。後ろには少しうな垂れた島崎がとぼとぼと付いて来る。
 南原がさてどこにしましょうかねと目をやると、景気が良いせいか結構商店街も賑わっていた。
 観光地なので当然地元以外の人も多いのだろう。他にもキョロキョロといい店がないかと探している人が見うけられる。
 六人でうろうろしていると、狭い路地から呼び込みの男がフラッと出てきた。
 ニコニコしてやけに愛想のいい顔である。
「お兄さん方、もしかして飲むところをお探しですか。先週オープンしたばっかりのお店ですが、今ならおつまみ一品無料となっております。リーズナブルなお値段でお飲みになれますが、いかがでしょうか」
 南原が岡田の顔を見ると、いいんじゃないという顔をしたのでその店に入ることにした。
 一行は男の後を追って細い裏路地へと入ると、まるで迷路のように二、三回折れて少し古いビルの中へと入って行った。 
 ビルの奥には店があり、『BAR』と書かれたネオン看板が出ている。
 こんな奥では呼び込みも必要だろう。
 おそらく固定客を当て込んでの出店かと思われた。
 男は扉を開けると「さ、どうぞ、どうぞ」とみんなを招き入れた。
 中はバーテンダーとウェイトレス、そしてカウンターと四人掛けのテーブルが二つ、こぢんまりした店である。建物は古いが中はそこそこ雰囲気のある店だった。
 先客で少し柄の悪そうな男二人がカウンターに陣取っていたが、みんなは気にもとめず息を合わせたかのように、岡田と島崎の二人をテーブルに対面で座らせた。
 そして残りの四人はもう一つのテーブルへと座る。これも島崎と岡田を少しでも近付けたいというみんなの親心である。
「無料のおつまみです」
 愛想の悪いウェイトレスがおつまみを持って来たのでついでにビール二本とウイスキーの水割り二杯、そしてサラミとチーズ、フルーツも頼んだ。
「お疲れ! 乾杯」
 岡田はサラミを食べながら水割りを美味しそうに飲んでいる。みんなの目が島崎に集まるが、ぼーっとしている島崎を見て南原が脇腹を小突いた。
「すみません。ちょっとトイレ」 
 島崎が慌ててトイレに立つと、「なに、島崎君またトイレ? 年寄り臭いわね」と岡田がからかった。
 島崎はそんな言葉を気にもとめず、そのままトイレへと立った。
 二、三分後、トイレから戻った島崎は甘くて魅惑的ないい匂いをさせていた。そしてわざと岡田の隣に座った。
 岡田は正面でも隣でも全く島崎を気にも留めていないようであるが、さすがに鼻づまりでない限り、この匂いに気づかない人は居ない。
「なんかいい匂いがするんだけど、どうしちゃったの島崎君」
 そう言った途端、はっきりと岡田の目がトロンとしたのが分かった。
 いつのまにか森野が隣のテーブルに移動し島崎の正面に座っている。それと同時にウェイトレスまでもが島崎の斜向かいに座った。
 バーテンダーも先客も、なんだ、なんだ? という顔で見ている。 
 島崎は予定外の人間まで集まってきたことに明らかに動揺していた。
 南原はまた人差し指で島崎の脇腹をつついた。
 正気に返った島崎が、おどおどしながら隣の岡田に顔を向け何かを言いたそうにしている。女性陣は今か今かと島崎の言葉を待っているかのようであった。
 じれったくなった南原がグーで島崎の背を小突いた。
「あ、あの、よかったら、ぼ、僕と、今度、映画でも見に行きませんか」
 するとハモるように三人の女性から「ハイ」という声が上がった。
 この時、南原、林、貴志はまさに奇跡の瞬間を見た思いがした。
 島崎が一皮むけた瞬間であった。
 自信というものは人をここまで変えるのか。島崎が女性相手によどみなく会話を楽しんでいる。この十分間は島崎にとって、生涯忘れられない時間になりそうだ。
 ただ悲しいことに、物事に必ず終わりはやって来る。効果が切れるとウェイトレスは、「私いったい何やってたんだろう」みたいな顔をしてテーブルから離れた。森野も同様である。
 岡田にあっては「わたし映画に行くって言ったっけ?」みたいなことを聞いてきた。
 さすがに他のメンバーから「確かに聞きましたよ」と突っ込まれると、ばつが悪そうに「大丈夫よ。ちゃんと約束は守るわよ」と言って、グラスに残ったウイスキーを一気に飲み干した。

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