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Part.4 Doctor -2
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爽風が、ひび割れたアスファルトの上を通り抜けた。
メリーランド州ホワイトオークシティ。ボルチモアよりやや北西に位置し、交通手段は車とバスが大半を占める、実に平凡で穏やかな都市だ。
「季節の流れはあっという間ですね」
陽光の反射に身を潜ませる研究棟を見つめ、ジョセフ・バーナビーはかぎ針のような鼻をすんと鳴らす。
すらりと伸びた脚に大きな腹を乗せ、腰に回した片腕で窓の鍵を閉める。広い空と青々しい緑を窓枠で切り取って、彼は一歩退きもう一度外を眺める。この風景が一層貴重だと知っているように。
普段は、D.C.の一角で子供や妊婦の診察をしたり、伝手を使ってやってきた研究を手伝ったりと忙しくも穏やかな生活を送っている。そんなジョセフは時折、アメリカ食医薬品管理局(FDA)のアドバイザーとして働くことがあった。
「ええ。眠っている彼らには、分かりようもない変化ではありますが」
容赦のない返答に目を細めて、ジョセフは招き主へと身体を向ける。明るい茶髪を背中に流し、笑い皺の残る頬を引き締めた女性は、表情を変えることなく椅子に座り、ジョセフにも薦めた。
食医薬品管理局、渉外担当アイリス・ホワイト。気難しい顔写真を貼り付けたネームタグを左胸に掲げ、彼女はバインダーを長机の上に広げる。極秘シールが貼り付けられているだけで、表紙には何の記載もない。治験経過や配合表などのタグが並べられていることだけを見て取り、ジョセフはアイリスへ視線を戻した。
「ES細胞の結果が出ました。ドクターの仰る通り、特定の酸素濃度が開花を避けることは確かであると言えるでしょう」
「ありがとう。研究者の中に、花眠病を併発したものはいるかね?」
「まだ誰も。簡易チェックとCTスキャンを毎日、抗体検査は毎週水曜に行なっていますが、なかなか異常値が判明しません」
やや堅い声の報告に、ジョセフは鷹揚に頷く。
「うん。順調だ。ウィリアムも喜んでくれていると嬉しいね」
「そうですね、父さん」
アイリスはジョセフの言葉に返答せず、バインダーの表紙をめくった。
米国本土の地図の地図と、肺胞の電子顕微鏡撮影図、CTスキャン図、そしてES細胞の写真が並ぶ。分布域と書いた文字と同じマーカー色で半分以上が塗り潰され、内陸にはアラートの文字が追記されていた。
「こちらを、放送局に提供します。D.C.やニューヨーク……各州の主要都市で、対象薬品の確保を促すために」
「ああ。ウィリアムには辛いかもしれないが」
「そうだね、父さん」
「……ドクター・バーナビー」
視線を左右へ散らしながら、おずおずとアイリスは口を開く。ya、と短い返事が、高圧的に発された。
「なにかね、ミス・ホワイト」
瞳孔の開いたトルコ石の瞳が、アイリスを見つめる。映す者を閉じ込めるような脅迫的な雰囲気に、それ以上の言葉は締め付けられ、音を失う。
「失礼するとしよう。なあ、ウィリアム」
「そうですね、父さん」
相槌というには単調な息子の言葉に、ジョセフは目を細める。よくできました、と頭を撫で、車椅子を押して退出する二人の後姿は、仲の良い家族に相違ない。会話が成り立っている間なら、アイリスも不安になることはなかった。
「そうですね、父さん」
「ああ。ここを曲がるんだったね」
繰り返される同じセリフに、自ら動くことのない身体。車椅子の車輪に指が引っかかっても、周りが言うまで気付きもしない。鸚鵡返しに言葉を口にするだけの、自立しない彼を、果たして人間と呼んで良いのか。吐息は最早溜息となり、閉ざした扉に拾われることもなく、白い廊下に落ちていく。
最初の花眠病発症者の、その後を知る者は少ない。
未だに眠り続ける、と病院が公表したのが四年程前。発症者が複数出てからはメディアも興味を失ったらしく、バーナビー父子に近付く者はぱったり減った。ドクター・バーナビーが息子の意識覚醒に熱心になり始めたのは、それからだ。人目という理性を失い、ただ眠る息子の四肢のリハビリを続け、神に救いを求めながら、ドクターは様々、無理な治療を続けた。ニトログリセリン、スラミン、過覚醒剤、あらゆる薬を試しーー不運にもーーそれが功を成してしまった。
瞳孔は光を後追いし、呼吸をするだけなら、以前と変わらない。けれど、今のウィリアムはこちらの呼びかけに対し、同一フレーズによる応対が出来る。意思の表出が難しいが、脳波をスキャンすれば意思疎通が出来る。これに加えて、視線での文字選択*が出来たなら、まだ、アイリスも苦しまずに済んだ。
もっと他に、彼らが人間らしく振る舞えるようになる治療薬はないか。
今この時も考えることを脳はやめないのに、何を手掛かりとすれば、何を頼りとすれば良いのか、アイリスにはわからない。アイデアが閃かない。
だが、動かねば、未来に発症する者達の人権が、守られない。
「……こうしてはいられない。伝えなければ」
バインダーの隣にパソコンを置き、メールを立ち上げる。各放送局の広報担当のリストを開き、予め用意していたテキストファイルの文面をそのままコピー&ペーストした。
宛名を確認しようと、リストに残しておいたリンクをクリックしたところで、ピコン、と一通のメールが舞い込む。
「……Kashii?」
母音の多い名前が、郷愁を呼ぶ。かつて共に活動した彼女は老いてなお美しく、研究者としての邁進を続けていることを、アイリスは知っていた。
彼女に助けを求められたら、少しは話が違っただろうか。
溜飲を下げて、アイリスはメールを開く。何を期待したか、分からない。彼女にならこの状況を話せるかもしれないと、弱気がアイリスの心につけ込んだか、放送局へ送る前に、アイリスはそのメールを読んでしまった。
最初は穏やかであったアイリスの顔色はみるみる内に変化し、最後には口元を覆う。
部屋を飛び出し、駆け足で記録室へ向かう。
選んだのは、花眠病研究者の定期健診結果を並べた棚だ。研究者個人と関係者だけが鍵を知っており、プライバシーに配慮がなされている。つまり、研究者であるドクタージョセフは自身の以外は結果を見ることは出来ないが、アイリスなら閲覧が可能ということだ。
暗証番号を棚硝子の角に打ち込み、中からバインダーを取り出す。
サマリはバインダーの末尾に纏められている。一人一人の顔写真と数値を並べ、比較し、それから一人の研究者の名前をアイリスは読み上げる。
「シモン・サイラス」
アイリスが呼び掛けると、彼は丸い頭をこちらに向けて和やかに微笑んだ。
「何でしょうか、アイリス」
「少し、確認したいことがあって。来てもらえる?」
「? 良いですよ。ドクターへ見せる書類に不備でもありましたか?」
彼は、実験班三つの内、三班に所属する研究員だ。親、祖父祖母の三世代にわたってアメリカに住み、糖尿病やガンなどの目立った遺伝的な病もない。
階を変えて、別室へ移る。研究棟には偶数階にチャットルームと呼ばれる開放的な部屋が設けられ、ここでアイリスもシモンも多くの研究者とアイスブレイクやディスカッションを重ねた。
いつものようにコーヒーを二つ淹れ、窓から遠い円テーブルに二人、腰を落ち着ける。
「調子はどう?忙しさは抜けたところかしら」
欠伸を噛み殺すシモンに、アイリスはこと柔らかに話し出した。彼は苦笑し、熱いコーヒーを一気に飲む。
「いやあ、はは、この通り、全然休む余裕がなくて」
「そう……。休みを取ってもよいのよ。皆、発表を終えてから頑張り過ぎたから」
「そういうわけにも、いかないでしょう」
灰色混じりの短い髪を撫で付け、シモンは肩を竦める。
「ドクターバーナビーが世界に発表した結果は、私達の研究結果なんですから。課題も多く、未知も多い。どこの研究者に次の成果を奪われるか、知れたもんじゃない」
「……そうね。研究熱心な貴方なら、分かっているわね。そんなことは」
アイリスは詰めていた息を吐いて、深く、椅子に凭れた。
「シモン。聡明な貴方だから、ここで言うわ。貴方には花眠病の症状が出ている。自覚をしているわね?」
「…………え?」
「ごめんなさい。貴方の検査記録を見たわ。これは知人の情報なのだけれど、……貴方は花粉症がないのに、アレルギー反応が出ているのよ」
「待ってくれ、アイリス。藪から棒に、何だ」
壁を作るように両手を広げ、シモンは上体を大きく引いてみせた。瞬きを繰り返し、コーヒーを飲もうとして、飲み干したばかりだと気付き、ぐしゃりと紙コップを潰す。
取り乱すのは想定済みだ。アイリスはシモンが暴れないことだけを願って、コーヒーを一口含む。
「……いつから」
「え?」
「いつから、私がそうだと」
頭を抱えた隙間から、苦しげな声がアイリスに尋ねた。この問いには、アイリスは首を振った。
「やめましょう。その問答は、他の研究者の為にならない」
「なら、何故私を呼び出して……こんな……」
「悲観するのは止めて。私は貴方に異動を言い渡しにきたのだから」
微かな振動が、テーブル越しに伝わる。シモンの震えがコーヒーの波紋となって、アイリスの緊張と馴染んだ。
溜息は、もう吐かない。
「シモン・サイラス。貴方には、起きた花眠病発症者としての実験協力要請を行います。同じ研究者として、そして、被験者側として、貴方には協力を継続していただきたいの」
今度こそ、彼らを人間らしいまま生かすために。
大きく息を吸うアイリスの背後、晴れた空の下を風が吹き抜け、まだ枯れぬ木々は木漏れ日を大地に降り注いでいた。
パソコンのキーボードが、カタカタと踊っていた。薄型ディスプレイが普及し、改善された画面は目に優しいブルーライトカット。室内灯のLEDも屋内側は暖かな橙色にセットされ、瑤子の眼鏡の反射を防いでいた。
カチリ、無線マウスが鳴く。
「これか」
納得と感心、それから僅かの希望を交えて呟いた。
開いたのは、薬機法と書かれた法律のウェブページだ。医薬品、医療機器などに関する品質、有効性、安全性の確保に関する法律が出来たのは、今から八十年ほど前。薬事法と呼ばれていたものが、医療機器等も対象となったことから薬機法と変わり、これには医薬品だけでなく化粧品類にも関わってくる。こだわりこそ無いけれど、化粧をする側にとっては、ふうんこんなとこで、と眉を持ち上げたくなる情報だ。
日本では厚生労働大臣が専門家の知見を元に指定し、許可したものが医薬品として扱われることになっていて、現代では薬として流通するまでに七年から十年かかる、と細かなステップとともに流通までの流れが書いてあった。ぐしゃりと側頭部の髪を乱して、瑤子は両手を挙げた。
「十年て! 小学生が大学生になっちゃう!」
誰も居ない研究室にその声は大きく、残響の音に慌てて口を噤む。
(まっさかこんなに遅いとは……)
薬になって日和の体内に投与されるまで、十年。そう考えると打開策のない今の時間がもどかしく、いかに短く収めるかが重要に思えてくる。
「~~調べよう!」
唸っても、喚いても、時間は無為に過ぎていく。閃きがないなら、発見がないなら、地道に調べるしか術はない。
両手を握り締めて、気合を一つ。瑤子は高槻に監督されながら行った培養細胞の様子を見に行くことにした。
今日は午前中に、香椎教授の許可を貰っていただいた日和の肺胞片を三等分し、一つを凍結、一つをすり潰し、一つをスライスにして標本にした。すり潰した肺胞片はPCRにかけ、三時間かけて遺伝子の情報を出す。スライスした標本は午前の間に観察を行い終え、実験室の金庫でひっそりと休ませる。明日は実際に薬品を使って、細胞の反応を見る予定だ。凍結した肺胞片は、所謂、実験のための予備である。
そして、瑤子が辿り着いた培養室のクリーンベンチでは、粒々した桃色の何かを載せたシャーレが四つ、並んでいる。小指の爪ほどの大きさもないその粒は、肺胞片ではなく、日和のiPS細胞だ。こちらは薬品でなく、瑤子の推論を元に選ばれた高山植物の種を寄生させ、影響をみるために培養している。
準備は上々、あとは只管に、花眠病の手がかりを探すのみ。
「種は明日届くし。PCRのリアルタイム解析でも見ながら、電気泳動しますか」
実験台の側に置いた端末を起動し、お気に入りの音楽アプリをタップする。流れ始めたアコースティックギターの音色に、鼻唄を重ねた。
透明手袋に指を通し、遊ぶ様にピペットを持ちあげる。用意していたPCRの反応液、色素、ローディングバッファーを取り、クリーンベンチの前に着席。空いた試験管立てに小さな小容器を入れる。専用のアガロースゲルを器から取り出し、所定の窪みを見定めながら、それぞれの液をピペットで吸い出し、混ぜていく。こうすることで、見たい遺伝子毎に色が付き、比重が高まって泳動の差が見やすくなる。
オーソドックスな方法だが、遺伝子を視覚的に確認できる手っ取り早く安い方法は他にない。
こうしている間にも、実験室のパソコンには遺伝子の塩基配列、増幅産物の構造や機能の解析結果が映し出されていく。ラジオボタン一つクリックするだけで結果が表示されるのだから、技術の進歩は素晴らしい。
「ぽちっとな」
電気泳動機の電源を入れると、ブウ……ンと振動と共に泳動が始まる。十分もあれば、構造や機能の解析結果くらいは読み取れる。なんて無駄のない、良い動きだろうかと自分を褒め称えて、瑤子は使った資材を所定の位置へ戻し、くるりと向きを変えた。
電話の音が、鳴った。
高槻の研究室に、秘書は居ない。香椎の使いで浅香が週二で顔を出す様にはなったが、元より人手の足りなさすぎる研究室で、数年ぶりに瑤子は受話器を取った。
壁掛け電話は懐かしい大きさで、顔の曲線に沿う様にすっぽりと瑤子の顔に嵌る。
「はいー、高槻研究室です」
『あっ、水野さん?』
「ですー。その声は浅香さん、どうしたんですか?」
メールでやり取りをすることの多い彼女と、電話越しで会話をする。このくすぐったさはきっと、あと数十年もすれば消えてしまうのだろう。物理の進歩に思いを馳せながら応じたせいか、浅香の戸惑いとの温度差が目立った。
『あの、福永さんのお兄さんという方がいらっしゃってね。応対を、手伝ってもらえない?』
「…………はい?」
ポン、と展開の終了を伝える軽やかなパソコンの音が、喉奥に沈む心の上を跳ねた。
メリーランド州ホワイトオークシティ。ボルチモアよりやや北西に位置し、交通手段は車とバスが大半を占める、実に平凡で穏やかな都市だ。
「季節の流れはあっという間ですね」
陽光の反射に身を潜ませる研究棟を見つめ、ジョセフ・バーナビーはかぎ針のような鼻をすんと鳴らす。
すらりと伸びた脚に大きな腹を乗せ、腰に回した片腕で窓の鍵を閉める。広い空と青々しい緑を窓枠で切り取って、彼は一歩退きもう一度外を眺める。この風景が一層貴重だと知っているように。
普段は、D.C.の一角で子供や妊婦の診察をしたり、伝手を使ってやってきた研究を手伝ったりと忙しくも穏やかな生活を送っている。そんなジョセフは時折、アメリカ食医薬品管理局(FDA)のアドバイザーとして働くことがあった。
「ええ。眠っている彼らには、分かりようもない変化ではありますが」
容赦のない返答に目を細めて、ジョセフは招き主へと身体を向ける。明るい茶髪を背中に流し、笑い皺の残る頬を引き締めた女性は、表情を変えることなく椅子に座り、ジョセフにも薦めた。
食医薬品管理局、渉外担当アイリス・ホワイト。気難しい顔写真を貼り付けたネームタグを左胸に掲げ、彼女はバインダーを長机の上に広げる。極秘シールが貼り付けられているだけで、表紙には何の記載もない。治験経過や配合表などのタグが並べられていることだけを見て取り、ジョセフはアイリスへ視線を戻した。
「ES細胞の結果が出ました。ドクターの仰る通り、特定の酸素濃度が開花を避けることは確かであると言えるでしょう」
「ありがとう。研究者の中に、花眠病を併発したものはいるかね?」
「まだ誰も。簡易チェックとCTスキャンを毎日、抗体検査は毎週水曜に行なっていますが、なかなか異常値が判明しません」
やや堅い声の報告に、ジョセフは鷹揚に頷く。
「うん。順調だ。ウィリアムも喜んでくれていると嬉しいね」
「そうですね、父さん」
アイリスはジョセフの言葉に返答せず、バインダーの表紙をめくった。
米国本土の地図の地図と、肺胞の電子顕微鏡撮影図、CTスキャン図、そしてES細胞の写真が並ぶ。分布域と書いた文字と同じマーカー色で半分以上が塗り潰され、内陸にはアラートの文字が追記されていた。
「こちらを、放送局に提供します。D.C.やニューヨーク……各州の主要都市で、対象薬品の確保を促すために」
「ああ。ウィリアムには辛いかもしれないが」
「そうだね、父さん」
「……ドクター・バーナビー」
視線を左右へ散らしながら、おずおずとアイリスは口を開く。ya、と短い返事が、高圧的に発された。
「なにかね、ミス・ホワイト」
瞳孔の開いたトルコ石の瞳が、アイリスを見つめる。映す者を閉じ込めるような脅迫的な雰囲気に、それ以上の言葉は締め付けられ、音を失う。
「失礼するとしよう。なあ、ウィリアム」
「そうですね、父さん」
相槌というには単調な息子の言葉に、ジョセフは目を細める。よくできました、と頭を撫で、車椅子を押して退出する二人の後姿は、仲の良い家族に相違ない。会話が成り立っている間なら、アイリスも不安になることはなかった。
「そうですね、父さん」
「ああ。ここを曲がるんだったね」
繰り返される同じセリフに、自ら動くことのない身体。車椅子の車輪に指が引っかかっても、周りが言うまで気付きもしない。鸚鵡返しに言葉を口にするだけの、自立しない彼を、果たして人間と呼んで良いのか。吐息は最早溜息となり、閉ざした扉に拾われることもなく、白い廊下に落ちていく。
最初の花眠病発症者の、その後を知る者は少ない。
未だに眠り続ける、と病院が公表したのが四年程前。発症者が複数出てからはメディアも興味を失ったらしく、バーナビー父子に近付く者はぱったり減った。ドクター・バーナビーが息子の意識覚醒に熱心になり始めたのは、それからだ。人目という理性を失い、ただ眠る息子の四肢のリハビリを続け、神に救いを求めながら、ドクターは様々、無理な治療を続けた。ニトログリセリン、スラミン、過覚醒剤、あらゆる薬を試しーー不運にもーーそれが功を成してしまった。
瞳孔は光を後追いし、呼吸をするだけなら、以前と変わらない。けれど、今のウィリアムはこちらの呼びかけに対し、同一フレーズによる応対が出来る。意思の表出が難しいが、脳波をスキャンすれば意思疎通が出来る。これに加えて、視線での文字選択*が出来たなら、まだ、アイリスも苦しまずに済んだ。
もっと他に、彼らが人間らしく振る舞えるようになる治療薬はないか。
今この時も考えることを脳はやめないのに、何を手掛かりとすれば、何を頼りとすれば良いのか、アイリスにはわからない。アイデアが閃かない。
だが、動かねば、未来に発症する者達の人権が、守られない。
「……こうしてはいられない。伝えなければ」
バインダーの隣にパソコンを置き、メールを立ち上げる。各放送局の広報担当のリストを開き、予め用意していたテキストファイルの文面をそのままコピー&ペーストした。
宛名を確認しようと、リストに残しておいたリンクをクリックしたところで、ピコン、と一通のメールが舞い込む。
「……Kashii?」
母音の多い名前が、郷愁を呼ぶ。かつて共に活動した彼女は老いてなお美しく、研究者としての邁進を続けていることを、アイリスは知っていた。
彼女に助けを求められたら、少しは話が違っただろうか。
溜飲を下げて、アイリスはメールを開く。何を期待したか、分からない。彼女にならこの状況を話せるかもしれないと、弱気がアイリスの心につけ込んだか、放送局へ送る前に、アイリスはそのメールを読んでしまった。
最初は穏やかであったアイリスの顔色はみるみる内に変化し、最後には口元を覆う。
部屋を飛び出し、駆け足で記録室へ向かう。
選んだのは、花眠病研究者の定期健診結果を並べた棚だ。研究者個人と関係者だけが鍵を知っており、プライバシーに配慮がなされている。つまり、研究者であるドクタージョセフは自身の以外は結果を見ることは出来ないが、アイリスなら閲覧が可能ということだ。
暗証番号を棚硝子の角に打ち込み、中からバインダーを取り出す。
サマリはバインダーの末尾に纏められている。一人一人の顔写真と数値を並べ、比較し、それから一人の研究者の名前をアイリスは読み上げる。
「シモン・サイラス」
アイリスが呼び掛けると、彼は丸い頭をこちらに向けて和やかに微笑んだ。
「何でしょうか、アイリス」
「少し、確認したいことがあって。来てもらえる?」
「? 良いですよ。ドクターへ見せる書類に不備でもありましたか?」
彼は、実験班三つの内、三班に所属する研究員だ。親、祖父祖母の三世代にわたってアメリカに住み、糖尿病やガンなどの目立った遺伝的な病もない。
階を変えて、別室へ移る。研究棟には偶数階にチャットルームと呼ばれる開放的な部屋が設けられ、ここでアイリスもシモンも多くの研究者とアイスブレイクやディスカッションを重ねた。
いつものようにコーヒーを二つ淹れ、窓から遠い円テーブルに二人、腰を落ち着ける。
「調子はどう?忙しさは抜けたところかしら」
欠伸を噛み殺すシモンに、アイリスはこと柔らかに話し出した。彼は苦笑し、熱いコーヒーを一気に飲む。
「いやあ、はは、この通り、全然休む余裕がなくて」
「そう……。休みを取ってもよいのよ。皆、発表を終えてから頑張り過ぎたから」
「そういうわけにも、いかないでしょう」
灰色混じりの短い髪を撫で付け、シモンは肩を竦める。
「ドクターバーナビーが世界に発表した結果は、私達の研究結果なんですから。課題も多く、未知も多い。どこの研究者に次の成果を奪われるか、知れたもんじゃない」
「……そうね。研究熱心な貴方なら、分かっているわね。そんなことは」
アイリスは詰めていた息を吐いて、深く、椅子に凭れた。
「シモン。聡明な貴方だから、ここで言うわ。貴方には花眠病の症状が出ている。自覚をしているわね?」
「…………え?」
「ごめんなさい。貴方の検査記録を見たわ。これは知人の情報なのだけれど、……貴方は花粉症がないのに、アレルギー反応が出ているのよ」
「待ってくれ、アイリス。藪から棒に、何だ」
壁を作るように両手を広げ、シモンは上体を大きく引いてみせた。瞬きを繰り返し、コーヒーを飲もうとして、飲み干したばかりだと気付き、ぐしゃりと紙コップを潰す。
取り乱すのは想定済みだ。アイリスはシモンが暴れないことだけを願って、コーヒーを一口含む。
「……いつから」
「え?」
「いつから、私がそうだと」
頭を抱えた隙間から、苦しげな声がアイリスに尋ねた。この問いには、アイリスは首を振った。
「やめましょう。その問答は、他の研究者の為にならない」
「なら、何故私を呼び出して……こんな……」
「悲観するのは止めて。私は貴方に異動を言い渡しにきたのだから」
微かな振動が、テーブル越しに伝わる。シモンの震えがコーヒーの波紋となって、アイリスの緊張と馴染んだ。
溜息は、もう吐かない。
「シモン・サイラス。貴方には、起きた花眠病発症者としての実験協力要請を行います。同じ研究者として、そして、被験者側として、貴方には協力を継続していただきたいの」
今度こそ、彼らを人間らしいまま生かすために。
大きく息を吸うアイリスの背後、晴れた空の下を風が吹き抜け、まだ枯れぬ木々は木漏れ日を大地に降り注いでいた。
パソコンのキーボードが、カタカタと踊っていた。薄型ディスプレイが普及し、改善された画面は目に優しいブルーライトカット。室内灯のLEDも屋内側は暖かな橙色にセットされ、瑤子の眼鏡の反射を防いでいた。
カチリ、無線マウスが鳴く。
「これか」
納得と感心、それから僅かの希望を交えて呟いた。
開いたのは、薬機法と書かれた法律のウェブページだ。医薬品、医療機器などに関する品質、有効性、安全性の確保に関する法律が出来たのは、今から八十年ほど前。薬事法と呼ばれていたものが、医療機器等も対象となったことから薬機法と変わり、これには医薬品だけでなく化粧品類にも関わってくる。こだわりこそ無いけれど、化粧をする側にとっては、ふうんこんなとこで、と眉を持ち上げたくなる情報だ。
日本では厚生労働大臣が専門家の知見を元に指定し、許可したものが医薬品として扱われることになっていて、現代では薬として流通するまでに七年から十年かかる、と細かなステップとともに流通までの流れが書いてあった。ぐしゃりと側頭部の髪を乱して、瑤子は両手を挙げた。
「十年て! 小学生が大学生になっちゃう!」
誰も居ない研究室にその声は大きく、残響の音に慌てて口を噤む。
(まっさかこんなに遅いとは……)
薬になって日和の体内に投与されるまで、十年。そう考えると打開策のない今の時間がもどかしく、いかに短く収めるかが重要に思えてくる。
「~~調べよう!」
唸っても、喚いても、時間は無為に過ぎていく。閃きがないなら、発見がないなら、地道に調べるしか術はない。
両手を握り締めて、気合を一つ。瑤子は高槻に監督されながら行った培養細胞の様子を見に行くことにした。
今日は午前中に、香椎教授の許可を貰っていただいた日和の肺胞片を三等分し、一つを凍結、一つをすり潰し、一つをスライスにして標本にした。すり潰した肺胞片はPCRにかけ、三時間かけて遺伝子の情報を出す。スライスした標本は午前の間に観察を行い終え、実験室の金庫でひっそりと休ませる。明日は実際に薬品を使って、細胞の反応を見る予定だ。凍結した肺胞片は、所謂、実験のための予備である。
そして、瑤子が辿り着いた培養室のクリーンベンチでは、粒々した桃色の何かを載せたシャーレが四つ、並んでいる。小指の爪ほどの大きさもないその粒は、肺胞片ではなく、日和のiPS細胞だ。こちらは薬品でなく、瑤子の推論を元に選ばれた高山植物の種を寄生させ、影響をみるために培養している。
準備は上々、あとは只管に、花眠病の手がかりを探すのみ。
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オーソドックスな方法だが、遺伝子を視覚的に確認できる手っ取り早く安い方法は他にない。
こうしている間にも、実験室のパソコンには遺伝子の塩基配列、増幅産物の構造や機能の解析結果が映し出されていく。ラジオボタン一つクリックするだけで結果が表示されるのだから、技術の進歩は素晴らしい。
「ぽちっとな」
電気泳動機の電源を入れると、ブウ……ンと振動と共に泳動が始まる。十分もあれば、構造や機能の解析結果くらいは読み取れる。なんて無駄のない、良い動きだろうかと自分を褒め称えて、瑤子は使った資材を所定の位置へ戻し、くるりと向きを変えた。
電話の音が、鳴った。
高槻の研究室に、秘書は居ない。香椎の使いで浅香が週二で顔を出す様にはなったが、元より人手の足りなさすぎる研究室で、数年ぶりに瑤子は受話器を取った。
壁掛け電話は懐かしい大きさで、顔の曲線に沿う様にすっぽりと瑤子の顔に嵌る。
「はいー、高槻研究室です」
『あっ、水野さん?』
「ですー。その声は浅香さん、どうしたんですか?」
メールでやり取りをすることの多い彼女と、電話越しで会話をする。このくすぐったさはきっと、あと数十年もすれば消えてしまうのだろう。物理の進歩に思いを馳せながら応じたせいか、浅香の戸惑いとの温度差が目立った。
『あの、福永さんのお兄さんという方がいらっしゃってね。応対を、手伝ってもらえない?』
「…………はい?」
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王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
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