a letter from anywhere

もりえつりんご

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スイートバジルに旗を掲げて 後

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 移ろいは、香りに強く現れる。
 手繰り寄せた縄をぐるぐると二回、手のひらに巻きつけて、私は思い切り縄を引っ張る。ズッズッ。地面を擦る砂の音が響き、手にかかる重みが増していく。
 次の音が鳴るまで、ただひたすらに、それを繰り返す。
 やがてカチンと音がして、縄の抵抗が無くなれば、合図だ。

「よいっしょ……と」

 突起部分に縄を巻き付け、両手を使って結び目を。いつのまにか滲んだ汗が額を伝って鼻先へ、ポタリ、離れた瞬間、スッと熱が消えていくのが心地良い。

「ゾーイさんですね」

 見かけない声がした。青草の香りが強くて、紛れた人の匂いまで気付かなかったようだ。旗を揚げている間に来たのかもしれない。私はいつも、一つのことの集中し過ぎてしまうから。

「はい。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「フィリックスから、手紙を預かってきました」
「にいさんから……?」

 そこで私は、確信する。近付いてきた相手は、私の知っている誰かではない。
 誰かは、私の手に手紙を握らせる。一枚の紙のようだ。

「読み上げます。
 『ゾーイへ
  旦那とうまくやれよ。オレはここで、頑張るから』」

 変わらない兄さんの言葉に、指の乾燥を思い出した。縄についた埃や砂が、手のひらの水分を奪ってしまうのだ。

「親切な方。これは確かに、にいさんからの手紙のようです」

 携えてきた濡れ布巾で手を拭い、手紙を受け取ろうと彷徨わせる。触れたかさかさの紙切れが指の間に収まって、誰かの気配が離れた。

「有難うございます。少しばかりお礼をしたいので、一緒に来て頂けませんか?」
「……ゾーイさん。失礼ですが、ここには、いつもどうやっていらしています?」

 返答だけで、相手の性格が伺えた。ほほ、と声を出して笑い、私は甘んじて自分の手を差し出す。

「港に出る青年に手伝ってもらっています。なので、今日だけは、自分の家で彼を待とうかと」
「分かりました。そういうことならば、お手を拝借しましょう」

 そうして、布越しの温もりは、頼りある動きで私を家まで導いてくれた。









 盲目の人間を、盲人と呼ぶ。これは古くに備え付けられた僕たちの辞書にある説明で、どの国にも通用するかどうかは分からない。
 ただ、その言葉の指す生き物が実際にいるのだから、この言葉は必要な情報だったのだろう。
 首筋がよく見えるほどの短い髪と、丸まった背中。ゾーイという人間は、郵便屋よりも細く小さく、骨が浮いて見え、ひよこのようにも見えた。
 桜色の髪が、動くたびに淡紫の影を落とす。

「足下に、段差が一つありますよ」
「ありがとうございます。……この段差を過ぎたら、白い壁と赤い屋根の家が、見えるはずです」
「なるほど、ありました」

 郵便屋は、めしいたゾーイの手と言葉を頼りに、彼女の家へ彼女を運ぶ。人を配達するのは、街の中限定だ。
 扉の前まで辿り着くと、ぺたりぺたりと扉に触れて、彼女は取り出した鍵で開く。

「さあ、中へ。確か紅茶があります」
「お構いなく」

 フィリックスの時と同じく、郵便屋は戸口で立ち止まる。室内だからか、住み慣れているからか、ゾーイは郵便屋の手を離れても、確かな足取りで水場へ爪先を向けることができていた。
 テーブルと椅子が一つに、ソファが一つ。リビングにもダイニングにもなるこの部屋と、あとは寝室だけなのだろう。小さな家だ。
 粉塵か埃か、木漏れ日のような窓からの光に、キラキラと光るものがある。

「……そういえば、お名前を聞いておりませんね。商人さん? 旅人さん?」
「残念。そのどちらでもない、郵便屋です」

 郵便屋の後ろ姿が、小さな家に陰で入り込む。

「まあ。風の噂でしか知りませんでしたが……本当にいらっしゃるんですね」

 驚くよりは嬉しそうに頷いて、ゾーイはソファへ足を向ける。郵便屋の言葉の通り、紅茶は一人分を手に持って、ゾーイは歩く。

「ねえ、郵便屋さん、一つ、聞いても良いかしら」
「なんなりと。配達の依頼も承ります」

 にこりと、形のいい笑みを浮かべた横顔を、見上げた。
 郵便屋は人間の中でも変わっている。読めず、書けない相手にそれを強いて、見えない相手に微笑みかける。用もないのに居座り、ゾーイの様子を見守る。
 主人が動かねば歩くこともない僕たちに、郵便屋の姿はただ刻まれる。
「ご存知かもしれないけれど、にいさんは、読み書きが難しい人なんです。私はこの通り、目も見えないから……あなたを疑うわけではないのだけれど、質問させて。
 手紙を書いたのは、本当に、にいさん本人なのかしら?」
「それは確かに。この目で見届けましたから」
「……ふふ、そう」

 瞳を閉じたまま、真っ直ぐな表情でゾーイは紅茶に口をつける。

「よく、書かせようとしましたね。私には、声でしか伝わらないのに」

 紅茶の水面を波立たせ、彼女は肩を震わす。

「返してくれるなんて、思っていなかった。……にいさんが読み書きできないことを、知っていたのに」

 カタとソーサーとカップのそこが悲鳴をあげた。
 窓から透ける光だけの室内で、ゾーイは灰色に塗り潰されていた。眦から溢れる雫を拭って、濡れた指先を、カップに添える。

「郵便屋さん。私は、あの街にいることが苦しくて、誰にも役立てない自分がしんどくて、逃げ出したんです」

 教会に祈りを捧げるシスターのように、ゾーイは澄んだ声で告白した。

「私は、兄の手伝いで貯めたお金で、私を人を雇い、この街に逃げてきました。この街を選んだのは偶然でしたが、この街の人々は、皆、優しいのです。
 体力も、目も見えない私にも、それでもできることがあると言って、探してくださいました。
 あの街ではできなかった多くのことを、私は経験しているのです」

 語り出したゾーイの足下を、郵便屋の影が覆う。片膝を折り、郵便屋はもう一つの贈り物を、鞄から取り出した。

「意地悪と、ちょっとした自慢でした。私は誰かを頼らねば生きていけませんが、私の出来ることを知っています。
 あの街で、誰かに怯えながら、愛想笑いを浮かべながら、寝る間も惜しんでできないことをし続けなくても、いいのだ、と。そんなことを、兄は苦にも思っていなかった。……?」

 そっと音で合図をして、郵便屋はゾーイから茶器を預かり、テーブルの上へ移した。空いた小さな両手にオレンジを渡す。

「フィリックスからの、はなむけです。
 今年はオレンジの香りが良いから、幸先がいいぞ。文字を書いてくれた人にも、礼をしてくれ。
 裏面には、そう書いています」
「……良い香り」

 雫を頬に伝せて、すん、とゾーイは微笑む。

「香りなら分かるから、と、いつも、遊んでくれたんです。こうやって」

 郵便屋が頼まれた分、四つのオレンジをソファに並べると、室内がわずかに安らいだように見えた。
 ゾーイが立ち上がり、立ち上がる郵便屋にぶつかりながらも、テーブルの隣、小さな引き出しの前へ向かう。

「郵便屋さん。これを、あなたの旅のどこかで良いから、届けてくれないかしら」
「ええ、確かに。承りましょう」

 手招きをされてようやく、僕も室内へ入り込む。
 驚いたように眉をあげるゾーイの前で、郵便屋が目線を合わせて、依頼の品を見せてくる。
 そこには、緑の旗を揚げて楽しそうに笑う、ゾーイの姿が写っていた。

「私は新たな時間の中で、光の闇を進むの。兄さんの香りと一緒にね」

 その絵と同じ顔を雫で清めながら、ゾーイの言葉が、郵便屋を通してすとんと僕の中に、落ちていった。









ーーーーーーーー
あとがき

令和の言祝ぎをしたくて書いた短編でした。
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