虹の向こうへ

もりえつりんご

文字の大きさ
上 下
4 / 58
第1章

最後の穏やかな夜に

しおりを挟む
 式典は滞りなく行われた。
 国王による《銀の託宣》の知らせのために一度は薄れかけた祭りの気分も、芝蘭が教会での儀式を済ませてからは持ち直していた。
 選りすぐりの踊り子が曲に合わせて舞を披露し、楽隊がこの日のために準備した音楽を奏でる。
 式典の日だけ解放される城門を多勢が行き交い、城内はどこもかしこも笑い声で溢れていた。

「……喉が枯れる。顔が引きつる」

 何百人もの貴族と親族に挨拶を済ませ、王子こと芝蘭がようやく一息吐く頃、既に空は黒く、闇に姿を変えていた。
 透火とソニアを引き連れ控え室に戻るや、芝蘭の口からため息と愚痴が溢れる。

「お疲れ様、芝蘭。座って休んで」

 ソニアは芝蘭を席に落ち着かせ、彼の肩を重くしていた装飾品に手を掛ける。
 透火は室内の水場で紅茶の準備を始めた。
 用意しておいた王子専用の茶器を並べ、湯を沸かす。彼の好きなアールグレイの茶葉を用意して、銀匙と砂時計を用意した。
 もう何度もやってきたことだ。手間取ることは何一つない。
 芝蘭が装飾品から解放されたところで、ちょうど紅茶が出来上がる。ティーカップにつけた彼の口からは、長くも穏やかな吐息。

「……悪いな」
「いつものことじゃん。どうしたんだよ」

 改まった言葉に、透火は戸惑い、微笑み返す。

「私、給仕を呼んでくる。お腹すいたでしょ?」

 二人の視線の間に割り込んで、ソニアが尋ねる。

「ああ……そうだな。朝食以降、何も食べてない」
「そうよね、任せて! 出来立てを運ばせるから」
「三人分な」
「! うん」

 芝蘭の言葉にソニアは嬉しそうに応えて、部屋を出ていく。
 扉の閉まる音に、二人分の吐息が重なった。
 彼女が向かったであろう方角へ目をやりながら、透火はそういえば、と口を開く。

「あとは、月読の塔に行くだけ?」
「そうだな」

 カップが音を立てる。差し出された空のそれに、透火はそつなく次の一杯を注いだ。残り少なくなった中身を別のカップに注ぎ、水場で茶器を洗う。
 そうして芝蘭が息をつける時間を作るのだ。
 しばしの間、水音のみが部屋に響き、時折遠くから響く笑声と混じり合う。水場から密かに伺えば、物憂げな様子で芝蘭は窓の外を眺めていた。
 洗い終え、今度は芝蘭の向かいに腰を落ち着ける。

「透火」

 透火が無言で水で冷えた指をカップの温もりで癒していると、ややあって名を呼ばれた。

「なに?」
「お前は、今朝の父上の振る舞いをどう思う?」

 紅茶を飲もうとしたところで、手を止める。重苦しい表情の主人を見つめ、ひとつ、目を瞬かせた。

「従者の意見をお求めで?」
「……友人として、お前に訊いたんだ」

 憮然とした態度が可笑しくて透火は噴き出した。カップをソーサーに置き、口元を緩める。瞬き一つで切り替えられる透火の意識を、芝蘭は黙って見守っていた。

「牽制とも取れるし、お前を第一候補として認める気があるという意思表示とも取れると思うよ」
「……そうか」

 二人の間に流れる空気が、再び変わる。

「従者としては、主人が高く買われていると感じた。嬉しいな」
「……お気遣いどーも」

 口先を尖らせるのは、気恥ずかしさからだ。緊張のないくだけた口調に、透火はそっと笑む。

「ソニアと俺もいるんだから、候補者が他に居ても関係ないよ」

 透火は、なにもその実力と容姿だけで今の地位を得たわけではなかった。
 賢王シアが国を統一する前、透火たちの種族は、創生虹記を重視する教会を中心とした封建社会を築く南の地域と、金や魔法を理由に強者が統治する北の地域と、大きく二分されていた。
 紫亜は実力を重んじる北の地域の出身だが、教会と契約を結び、さらには南の上流貴族であったエドヴァルド・ルーカスの後援を得、国を統一した。
 教会に属する月読が彼の従者となっているのは、その一環である。
 ソニアは、エドヴァルド・ルーカスの孫娘だ。由緒ある上流貴族の令嬢にして、現国王の側近の孫となれば、芝蘭の隣に立つだけで影響力がある。
 そして、今は亡き透火の父はかつて、紫亜の騎士をしていた。
 教会に属する下流貴族の出だった父は、学生時代にその実力を買われ、紫亜の騎士として昇格した。武人としても文人としても優秀で、北南それぞれの利益不利益を測り、統合に向けて必要があらば自ら赴いて民に働きかけたという。
 けれど、ある意味で厄介者となることは、避けられなかった。教会を重んじる家系の一派が、新興貴族に傾倒するなど、許されない風潮もあった。
 故に、父が亡くなってすぐ、私財は全て親族に流れ、特殊な見目から外に売られそうになった透火は、心優しくも力のない祖父母の慈悲によって、弟と二人、路頭に追い出されたのである。
 幸いにして、父と師弟関係であった芝蘭が二人の後見人として名乗り出たことで、命は救われた。
 彼に見つけてもらえなければ、透火も弟の透水も、今こうして生きてはいなかった。
 要するに、透火は、父の因果により王子の後ろ立てを得、死してなお残る父の七光りと特異な外見と才能・実力を十分に利用して今の地位に就いたのだ。
 従者となったのは、今から二年前。
 それは単に家族や友人としてだけでなく、彼に忠誠を尽くす者として芝蘭に恩を返したいからだが、同時に、民から芝蘭への高評価にも繋がった。

「そういや、今日の聖歌隊、透水が居たな」
「そうなんだよ。今回は選抜勝ち抜いたらしくって。頑張ってただろ?」
「普段は生意気なガキなのにな」

 本人は無意識だろうが、家族の成長を見守るような温かみのある声に、透火は思わず声を出して笑う。
 目の前の彼は透火たちにとって、兄や父親のような存在であり、友であり、主人でもある。けれど、弟の方は年の頃も相まって、なかなか芝蘭に素直になれないようだった。
 無論、それは芝蘭自身にも当てはまる。

「帰ったら伝えとくよ。芝蘭が褒めてたって」
「今のどこが褒めてたんだよ」
「百人も子供が並んでる中で、透水をちゃんと見つけてくれてるあたりが」
「わかったもういい。好きにしろ」

 的確に突かれて居心地が悪くなったか、芝蘭は煙を巻くように手を振って、投げやりに応じた。それ以上墓穴を掘らないように、紅茶を飲み始める。
 その様子が可笑しくてくすくすと笑ってやると、目だけで不満を訴えられた。

「素直じゃないなあ」
「うるさい」

 和やかに談笑していると、不意に扉が叩かれた。
 食事を取りに行ったソニアであれば直ぐ部屋の中に入ってくるはず。透火が芝蘭と目線を合わせたところで、再度扉が叩かれる。

「はい」

 透火が応じると扉が開き、見知った顔が現れる。

「九条さん?」
「お休みのところすみません」

 年は芝蘭よりも上に当たる。
 柔和で素朴な面立ちをした彼は、芝蘭付きの騎士にして近衛軍の隊長である。透火より少し小柄だが、鍛え抜かれた肉体は年相応の貫禄を見せる。
 彼も芝蘭の状態を把握していたのだろう、眉根を下げて半身を引く。

「ルーカス卿がお見えです。話したいことがあると」
「……案内しろ」

 断れる相手では、なかった。

「芝蘭王子、失礼する」

 そう言って部屋に入ってきたのは、この国で最も王族に近いとされる老貴族エドヴァルド・ルーカスその人だった。
 片手に漆塗りのステッキを持ち、黒茶色の長靴を履く両脚を支える。伸びきった薄紫色の髪を肩の辺りでひとまとめにし、臙脂色の軍服の上に垂らす様は優雅だ。軍服の装飾は丸釦一つからルーカス家独自の模様が施され、髪留めに付された魔石は長けたものであれば一目で強力なものとわかる代物だ。
 左頬から目の周囲にかけて彫られた刺青は、当人の実力に合わせて刻まれており、彼のそれはルーカス家の中でも随一だとソニアから聞いている。
 蝶に花、月に水と、人を惑わす象徴が見事に彫られていた。

「ルーカス卿」
「本日は大変良き日でしたな。御誕生日おめでとうございます、芝蘭王子。少し、時間を頂いても?」
「構わない。中へ」

 整えた髭の下で、皺の少ない口元が三日月を描く。老貴族はしっかりとした声で応じ、尋ねる口調の割に強引な動作で、透火が座っていた椅子に腰を落ち着けた。
 紅茶を淹れようと立ち上がったら、これだ。
「透火殿、砂糖とミルクの用意も頼む」

「はい」

 その態度に、芝蘭が片目を眇める。
 本来であれば、たとえ有力であろうと上流貴族であろうと、王族と同席をすることは無礼にあたる。しかし、彼は紫亜の幼少期からの後見人であり、紫亜が国王になるにあたって行った各地区統合政策の第一人者だ。国王と女王を除いて、彼と対等に立てる者はいない。
 その手腕と賢しさは紫亜と同等、あるいは紫亜がエドヴァルドより学んだと言ってもいい。この国が国として成り立つ前より、貴族としての地位を確立していた、由緒正しき武人。紫亜からの信頼は絶大で、それ故エドヴァルドは王族の子孫である芝蘭にもほぼ対等な態度をとることができる。
 そのために、芝蘭は彼を苦手としていた。

「他の貴族の耳には憚られる内容でしょうか」

 なにより、芝蘭がエドヴァルドを最も苦手としている理由がある。

「ソニアとの婚姻の話を、少しな」
「……九条、お前は下がれ」
「失礼します」

 紅茶を用意しながら、透火は背中越しに扉の音を聞いた。
 先程までの穏やかな息抜きの時間は、エドヴァルドの登場により綺麗に破壊され、緊張以外の理由も含んで、空気が張り詰めた。

「その話はお断り申したはずですが」
「だからこそ、再度お願いにあがったまで」

 芝蘭の背中が溜息をつきそうに下がり、それから本人の前だからと中途半端に止まる様を透火は横目に見つめていた。助けられない代わりに吐息を零し、湯の様子を見て気を紛らわす。

「では、こちらも改めて言わせてもらう。私はまだ継承権を得ていない。先の立場が固まるまで、婚約の類は一切受け付けない」

 耳にたこができるほど聞き飽きた文句だ。
 その言葉に彼がどれほどの思いと願いを込めているのか、透火にはわからない。老貴族は、芝蘭がはっきりと拒絶しないから、しつこく申し込んでくるのだとわかるのに。
 紅茶を別の茶器に注ぎながら、透火は過去に思いを馳せる。
 今から十年と少し前、芝蘭には婚約者が居た。
 まだ年端もいかない少年だった彼は、婚約者という存在は不明なもので、どちらかといえば友人や遊び相手に近かった。
 相手は──彼女は、よくできた婚約者だった。婚約者という意味では申し分のない、芝蘭もすぐに慕い始めるほどの相手ではあった。淡い空色の髪と澄んだ碧色の瞳を持つ、教会側の貴族の娘だった。
 実際のところは、ある貴族より芝蘭の暗殺を請け負った暗殺者であり、国となる前はそちらの稼業で生きてきた家系の者だった。
 実力主義を重んじた、教会を蔑ろにする古い時代。
過去に生きていた彼女は、任務に失敗した。結果、彼女は死に、芝蘭の手によって人から秘せられる形で葬られたという。図った貴族と関係者は、後に紫亜の手にかかり、それ相応の罰とともに全てを奪われた。
 透火が、芝蘭に拾われるよりも前の話だ。
 だから透火は、従者となる少し前まで芝蘭に婚約者がいたという話を知らず、彼がそういう立場の人間であると強く意識することもほとんどなかった。
 はじめは彼に恋慕を寄せるソニアから話を聞き、それから少しずつ周囲から情報を与えられて知ったこと。そうやって透火は、芝蘭の過去を知るとともに立場がどう利用されるかを学んだ。透火が立場を重視する理由は、そこにある。従者として自分にできることを増やすのが、彼の目標だ。
 そして、芝蘭が自分から話してくれるまで、その話題だけは一切触れないことにしていた。いくら家族だと思っていても、そこに踏み込み、言語化する必要はないと思った。芝蘭が何も言わず透火を従者に認めたのと、同じ道理だと思うから。

「どうぞ」

 牽制の意味も込めて横から紅茶を差し出すと、前のめりになっていた上体を引いて、エドウァルドが透火を見上げる。
 それがわずかな時間であれ、芝蘭から気を引くことができたのなら、従者としての役目を果たせたと透火は思う。

「いただこう」

 自分から言い出した手前、紅茶を口にしないわけにはいくまい。エドヴァルドが熱い紅茶に手間取っているうちに、ソニアが戻ってきた。

「ただいま戻りまし……当主様?」

 何も聞いていないのか、少し驚いた様子で彼女が部屋に入ってくる。

「王子の顔を見にきただけだ。すぐに出る」
「そうですか……」

 彼女はそうして、祖父と主人の間に流れる微妙な空気を一蹴する勢いで、運んできた料理を一品ずつ楽しげに並べ始める。主人への思慕を隠さない無邪気な振る舞いは、こういう場面ではとても有難い。普段は彼女に無下にされる透火だが、そういった点では彼女のことを大事にしていた。
 貴族にも様々あり、その中で生じる物事を立場の上でしか共有しようとしない者がいる。たとえ家族の評価が高くとも、実力があろうとも、身分の差を埋めることを許さないのだ。

「王子もソニアも、昔から変わらないな。……私はそろそろお暇しよう」

 孫娘の用意した食事で王子が休みを取ると知り、わざとらしい咳払いをして老貴族が席を立つ。

「お見送りを」

 先んじて、透火は扉を開けた。低頭して、エドヴァルドが通り過ぎるのを待つ。
 カツンと、杖の先が透火のつま先に当たった。

「偉くなったものだな、『神の落し子』。人を惑わす悪魔め」
「足元にはお気をつけて、ルーカス卿」

 皮一枚下で表情をすり替えて、笑顔に見えるように声を明るくする。目線が同じになることすら厭うように、エドヴァルドは片目を眇めて透火を睨むと、肩の髪を払いのけて背を向けた。
 透火は、彼の後ろ姿が中庭に消えるまで見送った。
 ゆったりとした動きで扉を閉めた透火の背に、芝蘭の声がかかる。

「お前も休め。早く食べないと全部食うぞ」
「それは困るなあ」

 冗談めかした物言いに素直に笑って、透火は手招きされた席へと足を向けたのだった。



しおりを挟む

処理中です...