美食耽溺人生快楽

如月緋衣名

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狂瀾怒涛

狂瀾怒涛 第二話

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 応急処置だけをされた痛んだ右手の薬指を押えてみれば、やはり痛くて気持ちが滅入ってくる。
 正直この痛みが現実なら、頭の天辺から足の爪先まで食べられるなんて、とても恐ろしいことだ。
 
 
 水色の壁紙とほんの少しだけ散らかった部屋の中で、俺は血まみれの顔のまま横たえる。
 この部屋の家具はみんな樹木を基調に作られているものばかりで、優しい空気を醸し出している。
 ふんわりと香るココアの匂いに身体を起こせば、マグカップ片手の奏太が心配そうに顔を出す。
 奏太は目の前にある小さな机の上に、ココアの入ったマグカップを置いた。
 
 
「…………ありがと……」
 
 
 左手でマグカップを手にして、ちびちび自棄に甘すぎるココアを飲む。
 すると奏太が元気付けるかの様に、無理な笑顔を浮かべて笑った。
 
 
「俺、味は解んねぇから、甘すぎたり薄すぎたりしたらごめん」
 
 
 甘すぎるココアを口にすれば、安心して涙が流れてくる。俺は泣きながら小さく囁いた。
 
 
「ありがと、美味しいよ……美味しい……」
 
 
 加藤涼介の事を知っている人間の大半は、俺がゼノだなんて知らない。
 事情を知っていて助けに来れる人間なんて、俺には奏太くらいしか居なかった。
 捨てないで残しておいた名刺から得た電話番号で、奏太のことを呼び出す。
 そして助けに到着した奏太は、顔面蒼白で血まみれの俺を見て立ち尽くした。
 奏太は事情は聞かずに俺の事を助けてくれて、一時避難の体で奏太の家にきた。
 だけど今あの状態の璃生のことは心配で仕方ない。
 
 
「………戻らなきゃ」
 
 
 そう言って立ち上がろうとすれば、奏太が俺の肩を抑える。
 そして深く溜め息を吐いてから、俺を睨みつけた。
 
 
「涼、お前さ、良く考えろよ………お前の指折れてんだぞ?殺されにでも帰るつもりなのかよ……」
 
 
 ズキズキ痛む右手の薬指を見てしまえば、確かに奏太の言ってる事は理解できる。
 それでも俺は、帰らなければならないと感じていた。
 
 
「…………彼が好きなんだ……………どうしても帰ってあげなきゃいけない………」
 
 
 そう言った瞬間に、奏太が目を丸くする。それから目を泳がせて気まずそうに答えた。
 
 
「え………それやった人………客じゃないの…………?なんでこんな事になるの……?」
 
 
 何も答えられずに俯けば、奏太は頭を掻きながらため息を吐く。
 そしてゆっくりと立ち上がり着替えを始めた。
 
 
「………え?奏太どうしたの………?」
 
 
 俺が奏太に問いかければ、奏太は不機嫌そうな表情を浮かべながら怒鳴る。
 
 
「…………だからぁ!!!心配だからついていくんだよ馬鹿!!!」
 
 
 俺は思わず涙目になり、奏太の手に縋りつく。
 すると奏太はほんの少しだけ照れ臭そうに笑った。
 
 
***
 
 
 エレベーターの窓の外を眺めながら、奏太と二人で璃生の部屋へと戻る。
 
 
「……奏太此処で待ってて」
 
 
 璃生の部屋の前に立ち、奏太に目線で合図する。
 すると奏太は心配そうな眼差しを俺に送りながらも、小さく頷く。
 鍵を開いてゆっくりとドアを開けば部屋の中はもぬけの殻で、切り裂かれた寝具から出た羽毛が空を舞っている。
 その中にはちらほらと血の混ざったものがあった。
 
 
 どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
 そう思いながら立ち尽くしていれば、後ろからギィと音がした。
 奏太がドアを開いたのかと思い振り返れば、其処には京條さんが立っていた。
 
 
「京條さん………」
 
 
 思わず声に出した瞬間に、京條さんが笑う。
 
 
「………ゼノちゃん意外とスミにおけないねぇ………?オグロ以外にも守っている男いるんじゃん?モテモテ」
 
 
 そう言って歩み寄ってくる片手には、スタンガンがある。
 その時に俺は外にいる奏太が無事じゃないことを察した。
 思わず外に出ようとすれば、京條さんが俺を抱き止める。
 そして俺の耳元でひっそりと囁いた。
 
 
「君のダーリンに逢いに行こう。無事だから。でもお連れの彼は連れてゆく訳にいかないからね……暫く眠ってもらうよ」
 
 
 俺が動きを止めれば京條さんが俺を放す。
 そして俺の頬を指先で撫でて、固まった血の粉を見て笑う。
 
 
 璃生が無事だ。
 
 
 その事実に心がほんの少しだけ安心したものの、あの状態になった理由が解らない。
 その時に俺はある事を思い出した。
 
 
『……定期的にケーキの肉を口にさえしておけば、自我が崩壊することは無い』
 
 
 そういえば漓生がケーキの肉を、食べたのを察したのはいつだっただろうか。
 頭で巡ってはみるものの、その答えはわからない。
 
 
「京條さん、すこし良い?」
 
 
 俺は京條さんと二人で漓生の冷蔵庫の前に立つ。
 冷蔵庫を開ければ中身は空だった。
 この冷蔵庫の中身は一体、何時から空だったんだろうか。
 すると京條さんが溜め息を吐いて俺の方を見た。
 
 
「云ってたよアイツ。人間になりたかったってさ」
 
 
 それを聞いた時に、オグロがケーキを断っていたことに気付いた。
 玄関を開ければ其処には何もない。奏太の影も無ければ形もない。
 京條さんを無言で見上げれば、そんな俺の様子に気付いていないかの様に俺の手を引いた。
 
 
 赤いフェラーリに乗り込んで夜の街を走らせる。
 たどり着いた場所は、ケーキの密売が行われているあの会員制バーだった。
 
 
「さ、こっち」
 
 
 京條さんにつれられて中に入れば、誰もいない舞台の真ん中に漓生がいた。
 漓生はぶるぶる震えながら血塗れで涙を流している。
 拘束衣を着せられて身動きの取れない状態の璃生が、其処に横たえていた。
 
 
「璃生………!!!」
 
 
 名前を呼んで歩み寄ろうとすれば、物凄い眼光で璃生が叫ぶ。
 
 
「来るな…………!!!こっちに絶対に!!!!」
 
 
 その勢いに気圧されて足を止めれば、璃生が微笑む。
 その笑顔は余りにも優しくて、プレイルームで穏やかに過ごした日々を思い返させた。
 
 
 こんな生きた表情を浮かべる璃生を見たのは、正直久しぶりだった。
 
 
 何かを諦めたような、そんな表情を浮かべながら璃生が目を伏せる。
 その時に俺は璃生が、何処かに行ってしまうようなそんな気持ちになった。
 ゆっくりと綺麗な形の唇を開いて、まっすぐに俺を見る。
 サラサラした髪の毛がライトに反射して光って、とても綺麗だった。
 
 
「………俺は、人間にもう戻れない。だから涼の傍に居られない」
 
 
 璃生がそういった瞬間に、見知らぬ男たちがやってきて、璃生のことを連れてゆく。
 俺がそれを追いかけようとした瞬間、京條さんが俺の身体を抱き寄せた。
 
 
「璃生………!?璃生まって………!!!嫌だ………!!!」
 
 
 届かない事なんて解っているのに手を伸ばせば、一度だけ璃生が振り返る。
 ケロイドの傷を光らせて、形のいい唇が動いた。
 
 
「Adios………mi amor………」
 
 
 京條さんが鼻で笑い、俺の身体を引きずる。
 そしてバーの出入り口に引きずり出せば、京條さんが俺にこう吐き捨てた。
 
 
「………お前らって、本当に馬鹿なんだなぁ?」
 
 
 そう言って俺の身体を軽く足で蹴り、小さく舌打ちをする。
 俺を見下したその眼の冷たさに身体の芯が冷えた。
 京條さんはイライラした様子で煙草を咥え火を付ける。
 そして悪意を浮かべた笑みでこういった。
 
 
「見込み違いだったよゼノちゃん………今のお前にはアレを飼えねぇ。
まぁ………そもそもお前があれに惚れた段階で、もうダメだったけどな」
 
 
 京條さんの煙草の煙を浴びながら、俺は呆然と座り込む。
 すると京條さんは恍惚の笑みを浮かべながら、俺にこういった。
 
 
「アイツは生まれながらにして、フォークなんだよ………ケーキの肉を解体する為に生まれてきたといっても過言じゃない………。
それだけ珍しい存在なんだ……あれを手に入れるのに、どれだけ俺が苦労したと思う……?」
 
 
 京條さんの言葉を聞いた瞬間、俺はとある事に勘付く。
 裏社会におけるケーキ関連の仕事は、全て其処に京條漣の名前がある。
 
 
 まさかこの人は、璃生を手に入れる為に璃生の家族に手を掛けたんじゃないか、と。
 
 
「君は普通の人間として生きていけばいい。
次に俺たちにあった時には、君の未来はないと思って?」
 
 
 京條さんが俺の身体を抱きしめながら、俺の首元にスタンガンを当てる。
 薄れゆく意識の中で、俺の膝の上で眠る璃生の事を思い出していた。
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