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1巻
1-1
プロローグ
耳元で潮風が唸りを上げていた。
強い磯の香りが漂い、吹きつける風の勢いに時折体を持っていかれそうになる。
誰のせいでもない、そう言い聞かせ、見つめていた白波が霞んでいく。
悲しいとか、悔しいとか、助けてとか、こんな感情は全部無くなってしまえばいいのに。
誰かを悲しませないように、嫌われないように。
溢れそうになる想いを全部飲み込んで、生きてきた、はずだった。
――君に出逢うまでは。
心の奥底の嫌な自分を、君に暴かれてしまったみたいで思考回路がショートした。
感情を制御できなくなるのは、とても生きづらくて躓いてしまいそうで。
胸の痛みなんか気のせいで済ませておきたいから。
お願い、踏み込まないで。放っておいて。
目を瞑り耳を塞ぎ声を殺して、いつものように。
感情をミュートする。
第一章 北国の春先はまだ冬みたいなもの
「高校卒業するまで、じいさんのとこで暮らさないか? 理都」
申し訳なさそうに顔をゆがめ、独り言のように呟いた父さん。
急に私だけを釣りになんか誘うから何かと思ったら、そうか、この話がしたかったのか。
防波堤に並んで腰かけて、視線はテトラポットの穴の中、二本の釣り糸の先に色鮮やかな浮きたちがボウッと霞んで見えた。
「いいよ、じっちゃんの家なら自転車でも学校に通えるし。じっちゃんも一人で寂しいもんね」
寂しいのは、じっちゃんじゃない、私の方だ。
顔を掻くフリで目尻を擦る。泣いてしまえば父さんが困ってしまうから唇を固く結び、歯を食いしばった。
三月の終わり、春休みの真ん中、北海道函館市のこの時期はまだ冬の延長線上にある。
道路脇には茶色い根雪があちらこちらにベタリとあって、パステル色の花が咲くのはもう少し先のこと。防波堤には今日も強い風が時折吹き抜けて、皮膚に突き刺さるようなその冷たさに背中を丸め首をすくめる。
昨日、私はまたやってしまった。母さんを怒らせてしまったのだ。
『本当にあんたは誰さ似たんだか!! 可愛げのない!!』
ヒステリックに叫んだ後、いつものように母さんはハッとした顔をして『リツ、ごめんね。母さん言いすぎた』と泣き崩れた。
ごめんね、母さん。怒らせたのは私、母さんのせいじゃない。いつものように小さく丸くなった母さんの背中をさする。
ここのところ、母さんが泣く回数は増えた気がしていた。きっと私のせい。
昨夜遅くまで父さんと母さんの部屋は明かりがついていた。私の今後についての話し合いをしていたのだろう。
「すまねえな、リツ。母さんのことで、いっつも」
「なしてさ? なんも悪くないよ? 母さんも、父さんも」
大丈夫だから、と明るく振る舞っても父さんは私の顔を見てはくれなかった。
父さんのそんなしょげた顔を見ているのが辛い。
ふとテトラポットの底に視線をやればピンと張った糸の先、浮きが一つ幾度か海中に引っ張られている。
「父さん、糸引いてる! なんか釣れてる!」
「おっ、でっけえな! リツ、網取って」
今晩のおかずになるクロソイ。二人で引き上げてその大きさに「明日も食べられるね」と苦笑した。
ようやく父さんが私を見て笑ってくれて、その目がいつものように優しかったから、本当に安心した。
父さんにまで嫌われていないことに……。
それから母さんとはあまり話をすることもなく、四月に入ったばかりの月曜日、慌ただしく迎えた私だけの引っ越しの日。
「体に、気を付けなさいよ。あんたはお腹弱いんだし、すぐ風邪ひくんだし」
父さんが知り合いから借りてきてくれた軽トラに荷物を運びこんでいると、母さんがすれ違いざまにボソリと呟いた。
「うん、気を付けるね」
「じっちゃんの言うこと聞くんだよ? 世話になるんだからね! 迷惑だけはかけるんでないよ」
「そだね。ちゃんと聞くから」
これは母さんなりの心配の仕方だ。
いつも怒っているみたいに聞こえるけれど、それが精一杯の優しさだってことを知っている。
「姉ちゃんの部屋に移ろっかなあ? 日当たりいいし」
「したらリツが帰ってくる場所ないでしょうや!!」
弟の拓の悪びれない話にも、それはダメだと首を振る母さん。
今更、そんな風に優しいのは余計に辛いよ、母さん。じゃあ、どうして私を、私だけをじっちゃんの家に行かせるの?
そんな思いが過っても、絶対に口にしてはいけない。そんな風に、思うこともいけない気がする。
「いいよ、拓。姉ちゃんの部屋と交換しても。したけど窓枠ズレでるから冬場、雪入ってくるよ?」
「リツ、なして言わなかったの? 寒かったんでないの? したからすぐ風邪ひいてたんでしょ!」
その場を明るくしようとした冗談は間違いだったよう。母さんをまたイラつかせてしまった。
「ごめんなさい」
小さく首をすくめて誤魔化すように笑ったら、母さんは眉間に皺を寄せた後、すぐに私に背を向けて。
「気を付けて行きなさいよ。したけど、いつでも帰ってきていいんだからね。ここはあんたの家なんだから」
「うん、わかってる。したっけ行ってくるね、母さん」
今、母さんはどんな顔をしてるんだろう? 背を向ける瞬間、目が潤んでいた気がしたのは、私の願望によるものかもしれない。
荷物を積み終えた父さんに出発を促され、軽トラの助手席によじ登るようにして座る。
見送りは拓一人で、母さんはもう家から出てこなかった。
「じっちゃんさ、よろしく言っといてね! オレも今度遊びに行くから」
拓は母さんにそっくりで、私は父さん似。拓の笑顔を見ると何だかホッとするんだ。
「したっけね~! 行ってくるから」
開きっぱなしの玄関の奥にまで届くように、大きな声で拓に声をかけて手を振る。
行ってきます、母さん、元気でね。
いつまでも見送ってるような拓が、海岸沿いの道に出るカーブで見えなくなると、寂しさがこみ上げる。
同じ市内に住んではいても、少しだけ距離があるからだ。
私の家は浜沿いで、そしてこれから住むじっちゃんの家も海の近く。
湯川にある私の家から少し歩くと、海辺の道・漁火通りに突き当たる。海を左手に見て通りを一直線にずーっと歩き、一番大きな交差点を右に曲がり駅前に出たら左に。十字街をどつく方面に向かい、左手にある坂道の途中にじっちゃんの家がある。
車なら混んでいなければ二十分で着く距離だけれど、徒歩なら二時間くらいかかるかも。
普段一人でじっちゃんの家に行く時や、その近くにある高校に通う時には市内を走る路面電車、通称『市電』を使っている。ただ市電は街中の方を走ってしまうから、海沿いの、このいい景色を見られないのは残念だ。
軽トラの助手席から海を眺める。気温は低いけれど陽ざしがあるから、海面が輝いて一気に春の海になったみたいだった。
じっちゃんの古くて小さなピンク色の木の家は、観光で有名な大きな坂の近くにある。ゴールデンウィークなんかは車が走れないほどの観光客で溢れかえっている元町地区だ。
温泉街である湯川の実家の方にも観光客がたくさん来るけれど、元町はその比ではない。
教会や観光スポットがたくさんあって、ノスタルジックでフォトジェニックな街並み、とガイドブックに書かれているせいかも。
元漁師だったじっちゃんは、年金暮らしをしつつ時々朝市でバイトをしていて、今朝も仕事をしてたんだから、きっと眠いはず。
「リツ、腹減ってねえか? イカ飯炊いてあっから後で食え」
なのに、いつものように優しい笑顔を覗かせて、私が来るのを待っていてくれた。
「父さん、リツの部屋二階でいいかい?」
「うん、掃除しといたから」
じっちゃんと父さんのやり取りを聞き、段ボールを持ち上げて二階へと運ぶ。
「じっちゃんはいいからね。腰悪いんだから座ってて」
手伝おうとしてくれたじっちゃんの気持ちだけ受け取って、これから二年は自室となる部屋へと荷物を運び入れる。
二階にある屋根裏のような部屋。屋根が急勾配で天井高もあるせいか、六畳よりも広く感じる部屋には、窓が一つしかないため少し薄暗い。
大正レトロ風な両開き窓は海側を向いている。ガタついてはいるけれど、ちゃんと開くみたい。
段ボールを端に置き、窓を開けると冷たい潮風がぶわっと入り込んできた。
「リツ、机運ぶどー!」
「はーい!」
階下の父さんの声に、また動き出す。その日一日で何度階段を往復しただろうか。机とベッドは重たくて、父さんも私も終わる頃にはクタクタになっていた。
あんなに疲れたというのに、その夜はどうしても眠れなかった。部屋の壁にかけた時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
実家は漁港に近いため、毎夜潮騒が聞こえ、時期になればイカ釣り漁船のドッドッドッというエンジン音までが真夜中に響く。
その音で目覚める時は、うるさいなあと頭から布団を被って、そのうち、眠りの呼吸がエンジン音のリズムに合ってくる。気付けば朝が来てまた波の音で目覚めていた。
じっちゃんの家は、それに比べて静かすぎる。環境が変わったせいで、全く眠ることができず、静けさに目が冴えてしまった。
ベッドから起き上がりスマホを見たら午前二時だ。四時になればじっちゃんが起きて仕事に出かけていく時間となる。
素足では歩けないほどの床の冷たさに足がすくみ、持ってきていたスリッパを慌てて履いた。それからベッドの上に置いていた、もこもこのロングカーディガンに袖を通して、窓際に置いた机の前に立つ。
机の上のネコ型電気スタンドのスイッチを入れたら、部屋全体がぼんやりとオレンジ色に染まる。
これは、去年私の誕生日に「可愛いでしょ」と母さんが買ってくれたもの。電気スタンドが欲しい、私がそう言っていたからだけど、思っていたのとは違った。これはこれで可愛いのだけれど勉強するには少し暗すぎるのだ。
カーテンを開けたら、冷たく澄んだ空気で遠くに見える函館駅裏辺りの明かりが一際輝いている。実家の窓から見えたのは、隣の家の栗の木だけ。景色はじっちゃんの家の方が断然いい。
しばらくそうして眺めていると、ひんやりとした外気が窓辺から広がり、慌ててファンヒーターを点けた。
眠れない夜には、出す宛てのない手紙を綴る。右の引き出しにたくさん入っている便箋をビリッと一枚破いて、ひたすら綴るのだ。
いつもは書き終えたそれを誰にも見られないように、小さく小さく畳んでティッシュに包んで捨てていた。
だけど今日は違った。
一枚書くごとに涙が溢れて、二枚目を書いた。それでもやっぱり涙が止まらなくて三枚目に手を伸ばす。
その内じっちゃんが起きて、迎えに来た車で出かけていく音が聞こえて。新聞配達のバイクの音や、魚の移動販売のスピーカーから響く声が近づき遠ざかり、空が少しずつ白んできた頃。
ようやく、五枚に亘った便箋を折り畳む。封筒に入れて裏には自分の名前を書いた。宛名はない。
眠れぬまま朝を迎えてしまった。
じっちゃんの「ただいま」の声に階下に降り、朝市で貰ってきたヤリイカを捌き、まだ透明な身を刺身にし、すりおろした生姜を載せる。
わかめとじゃがいもの味噌汁。それと冷蔵庫にあったトマトを切り、昨日母さんが持たせてくれた千枚漬けをちゃぶ台に並べ、じっちゃんと向かい合わせで座り「いただきます」と手を合わせる。
「リツの作った味噌汁、じっちゃん初めて食うけどよ? なまら、うまいなあ。いい出汁だ」
「煮干し、使ったんだよ。あったからさ」
「理香子さんの味さ、そっくりだな。うめえなあ」
理香子さんとは、私の母さん。じっちゃんは母さんの漬物や料理が大好きだ。
「ばっちゃんにも用意したんだべ? リツの味噌汁飲めるなんて、ばっちゃんも喜んでるべなあ」
隣の開けっ放しにしてある和室の奥に仏壇がある。じっちゃんがご飯をお供えしているのを真似して、今朝は私がお供えした。
二年前に眠ったまま亡くなったばっちゃんとご先祖様に、お祈りをしながら謝ったのは誰にも内緒だ。茶の間から見えるばっちゃんの写真は、そんな私を見て怒っているような顔をしている気がして、直視できない。
「じっちゃん、ご飯食べたら寝るの?」
「んだな、十四時くらいまで寝るかも」
「ちょっと出かけるからさ、おにぎり作って置いておくわ。起きたら食べてね」
「リツ」
「うん?」
「じっちゃんは、まだ自分のことは自分でできるからさ。リツはじっちゃんに気を遣わないで好きなことしなさい。じっちゃんも自分で食いたい時に食いたいもの作るから、な?」
じっちゃんの優しさに触れたら、折角とめた涙がまた出てきそうだ。
うん、とだけ頷いたら、ご飯を食べながらじっちゃんはアクビをした。朝早かったもんね、眠いに決まってる。
「じっちゃん。今日は寒いからさ、ちゃんと布団に入って休むんだよ」
わかった、わかった、と微笑んだ目尻に皺が寄るその顔に、父さんの面影が浮かぶ。
親子だもんね、よく似ている。
うめえなあ、とまた味噌汁をすするじっちゃんにも心の中で謝った。
結局じっちゃんは、私が出かけるまで起きていて「暗くなる前に帰ってこい」と見送ってくれた。
広い玄関の土間に置いてある真新しい赤い自転車は、通学用。先日父さんと一緒に買いに行ったもの。
自転車で出かけようかとも思ったけれど、まだ道路脇にある根雪が怖い。滑ったら思いきり転けるだろう。
――痛いのは、嫌だ。
選んだのはバスでの移動。じっちゃんの家から坂を一つ下ったところにあるバス停に向かう。
二十分待ってやってきた平日の昼間のバスは、大して混んでおらず簡単に座れた。
観光地を走るバスの一番後ろの席に座り、ゆっくり流れていく景色をぼんやりと見つめる。
遠くに見えた海は、昨日とは打って変わって、灰色の冬の海。強い風に煽られ、沖には白波が高く上がっている。
寒そうだな、なんて他人事みたいに思う自分は、まだ覚悟が足りていないのかもしれない。
車内に目を向けたら、乗客はいつの間にか私だけ。
終点でバスを降り、少し歩くと道が二手に分かれていた。一本は真っすぐに延び、もう一本は下りの砂利道。私は迷わずに砂利道に足を踏み入れた。
坂の下から、潮の匂いが立ち込めてくる。
強い風に背中を押されて転ばないように、一歩一歩踏みしめながら辿り着いたのは、シーズンオフの人気のない海水浴場だ。
本当にここで泳げるのだろうかというほどの磯浜で、大きなゴツゴツとした石が並ぶ。民家もほとんどなく、観光客がいない今の時期は、本当に寂しい場所だ。
私自身もここで泳いだことはないけれど、記憶の中、見覚えのある景色に足を踏ん張った。
ああ、やっぱり、ここだと思う。
あの時も確か季節外れで、寒くて、確か母さんと二人だったような。
痛いくらいにギュッと私の手を握りしめた母さんの顔。下から見上げたらとっても怖かった。泣きながら海を睨んでいた母さんの顔が怖くて、どうしたらいいのかわからなくて、それから……どうしたっけ?
あやふやな記憶だけど、あの日見た海も今日のように灰色で大荒れだった気がする。
遠い記憶を探りながら沖を眺めた後、ポケットの中にある、今朝方の手紙を確かめるように握りしめた。
沖からの一際強い潮風に、不安定な石の上で身体を持って行かれそうになり、バランスを取ろうとしゃがみこむ。
とっさに隣の石に掴まって、その冷たさにヒャッと声が出た。指先が凍てつくようにかじかむ。個人的体感温度は五度くらい。
その寒さに、どんどん揺らぎ始める決心。
もう少し天気のいい日でもいいんじゃないだろうか?
今日は曇天で寒すぎるし、もしかしたらまた季節外れの雪でも降るのかもしれない。
臆病な自分の心が、決行しなくてもいい理由を情けなくも探し始めてしまった。
でも何も変わらないよ? どうせ変える勇気もないでしょ。
このままでいいのなら、何食わぬ顔でじっちゃんの家に帰ればいいんだよ?
だけど、それでいいの? また繰り返すよ?
少しだけ自問自答して、もう一度自分を追い詰める。
もう少し天気のいい日なら、近所の人も散歩に訪れるかもしれないよ。暖かくなれば観光客の姿も見えるかもしれないよ。
やっぱり今日でしょ? 今日しかないと思う……。
よし、と気合を入れ直し、ブーツと靴下を脱ぐ。コートも脱いで、もう一度持ち物を確認する。
荷物はICカード、小銭入れ、スマホ、そして手紙。それを全部コートのポケットにしまいこんでから、ブーツの横に畳んでおく。万が一にも飛んでいってしまわないように、コートの上には丸い大きめの石を重しにした。
ニットのワンピースの下に穿いていたレギンスを、膝まで捲り上げてから。
捲る必要あるかな? と考えた。
どうせ全部濡れちゃうのにね、と自分の矛盾に自虐的な笑いがこみ上げてくる。
裸足で踏みしめるゴロゴロとした石の痛さよりも冷たさに身が縮み、歩みが鈍る。
だけど、一歩一歩思いを踏みしめながら海へと向かう。
ねえ、母さん、何で私を産んだの?
どうして拓のことは可愛がるのに、私にだけは辛くあたるの?
『理香子の理の字を取って、理都につけたのよ』
母さんが赤ちゃんだった私を抱っこしている写真を見て、懐かしそうに微笑み『リツはとっても可愛かったのよ』って教えてくれた。
そんな時もあったんだよね? 私のこと、可愛いって思ってくれてたこともあったんだよね?
脳裏に過るのは、母との葛藤ばかりだ。何が母の機嫌を損ねるのか、わからないから困る。
テストの成績が、拓よりも私の方がいいと母は途端に不機嫌になった。
お弁当の日に見えたのは、赤と青の二つ並んだ弁当箱の中身。青い弁当箱にだけザンギが入っていて、卵焼きの形がキレイだった。
羨ましいな、と私の目がそう言ってしまってたんだろう。
『何なの!? 拓は男の子なんだから、あんたより食べるんだもの。文句があんなら今度から自分で作ればいいでしょや』
子供のように唐突に怒り出し、悔しそうに泣く母に私はいつも困惑していた。
ねえ母さん、私はそんなに嫌な子だったかな?
あの前日は洗濯物の干し方を私が変えてみたことがきっかけだった。
一度濡れたまま畳んでから干したら皺が伸びるってテレビで見て、試しにそうして干したのを、『ほら、見て! 母さん、キレイじゃない?』と嬉しくて結果を報告したのがダメだった。
『母さんのやり方が気に入らないってかい! 嫌味ったらしいってば! 本当にあんたは誰に似たんだか、可愛げのない!!』
そうしてまた母さんは、私に向かって吐いた言葉にハッとして、泣き出した。
私は誰に似たんだろう? 顔は父さんによく似ていると言われるけれど。
私も拓のように母さんに似ていたらよかった。そうしたら、母さんはもう少しだけ……。
波打ち際でも海の底が見えないほど、激しい波で泡立ち濁っている。
海藻の少なめな、滑らなそうな石を選んで、冷たい海の中に、恐る恐る右足だけつま先を入れた。
耳元で潮風が唸りを上げていた。
強い磯の香りが漂い、吹きつける風の勢いに時折体を持っていかれそうになる。
誰のせいでもない、そう言い聞かせ、見つめていた白波が霞んでいく。
悲しいとか、悔しいとか、助けてとか、こんな感情は全部無くなってしまえばいいのに。
誰かを悲しませないように、嫌われないように。
溢れそうになる想いを全部飲み込んで、生きてきた、はずだった。
――君に出逢うまでは。
心の奥底の嫌な自分を、君に暴かれてしまったみたいで思考回路がショートした。
感情を制御できなくなるのは、とても生きづらくて躓いてしまいそうで。
胸の痛みなんか気のせいで済ませておきたいから。
お願い、踏み込まないで。放っておいて。
目を瞑り耳を塞ぎ声を殺して、いつものように。
感情をミュートする。
第一章 北国の春先はまだ冬みたいなもの
「高校卒業するまで、じいさんのとこで暮らさないか? 理都」
申し訳なさそうに顔をゆがめ、独り言のように呟いた父さん。
急に私だけを釣りになんか誘うから何かと思ったら、そうか、この話がしたかったのか。
防波堤に並んで腰かけて、視線はテトラポットの穴の中、二本の釣り糸の先に色鮮やかな浮きたちがボウッと霞んで見えた。
「いいよ、じっちゃんの家なら自転車でも学校に通えるし。じっちゃんも一人で寂しいもんね」
寂しいのは、じっちゃんじゃない、私の方だ。
顔を掻くフリで目尻を擦る。泣いてしまえば父さんが困ってしまうから唇を固く結び、歯を食いしばった。
三月の終わり、春休みの真ん中、北海道函館市のこの時期はまだ冬の延長線上にある。
道路脇には茶色い根雪があちらこちらにベタリとあって、パステル色の花が咲くのはもう少し先のこと。防波堤には今日も強い風が時折吹き抜けて、皮膚に突き刺さるようなその冷たさに背中を丸め首をすくめる。
昨日、私はまたやってしまった。母さんを怒らせてしまったのだ。
『本当にあんたは誰さ似たんだか!! 可愛げのない!!』
ヒステリックに叫んだ後、いつものように母さんはハッとした顔をして『リツ、ごめんね。母さん言いすぎた』と泣き崩れた。
ごめんね、母さん。怒らせたのは私、母さんのせいじゃない。いつものように小さく丸くなった母さんの背中をさする。
ここのところ、母さんが泣く回数は増えた気がしていた。きっと私のせい。
昨夜遅くまで父さんと母さんの部屋は明かりがついていた。私の今後についての話し合いをしていたのだろう。
「すまねえな、リツ。母さんのことで、いっつも」
「なしてさ? なんも悪くないよ? 母さんも、父さんも」
大丈夫だから、と明るく振る舞っても父さんは私の顔を見てはくれなかった。
父さんのそんなしょげた顔を見ているのが辛い。
ふとテトラポットの底に視線をやればピンと張った糸の先、浮きが一つ幾度か海中に引っ張られている。
「父さん、糸引いてる! なんか釣れてる!」
「おっ、でっけえな! リツ、網取って」
今晩のおかずになるクロソイ。二人で引き上げてその大きさに「明日も食べられるね」と苦笑した。
ようやく父さんが私を見て笑ってくれて、その目がいつものように優しかったから、本当に安心した。
父さんにまで嫌われていないことに……。
それから母さんとはあまり話をすることもなく、四月に入ったばかりの月曜日、慌ただしく迎えた私だけの引っ越しの日。
「体に、気を付けなさいよ。あんたはお腹弱いんだし、すぐ風邪ひくんだし」
父さんが知り合いから借りてきてくれた軽トラに荷物を運びこんでいると、母さんがすれ違いざまにボソリと呟いた。
「うん、気を付けるね」
「じっちゃんの言うこと聞くんだよ? 世話になるんだからね! 迷惑だけはかけるんでないよ」
「そだね。ちゃんと聞くから」
これは母さんなりの心配の仕方だ。
いつも怒っているみたいに聞こえるけれど、それが精一杯の優しさだってことを知っている。
「姉ちゃんの部屋に移ろっかなあ? 日当たりいいし」
「したらリツが帰ってくる場所ないでしょうや!!」
弟の拓の悪びれない話にも、それはダメだと首を振る母さん。
今更、そんな風に優しいのは余計に辛いよ、母さん。じゃあ、どうして私を、私だけをじっちゃんの家に行かせるの?
そんな思いが過っても、絶対に口にしてはいけない。そんな風に、思うこともいけない気がする。
「いいよ、拓。姉ちゃんの部屋と交換しても。したけど窓枠ズレでるから冬場、雪入ってくるよ?」
「リツ、なして言わなかったの? 寒かったんでないの? したからすぐ風邪ひいてたんでしょ!」
その場を明るくしようとした冗談は間違いだったよう。母さんをまたイラつかせてしまった。
「ごめんなさい」
小さく首をすくめて誤魔化すように笑ったら、母さんは眉間に皺を寄せた後、すぐに私に背を向けて。
「気を付けて行きなさいよ。したけど、いつでも帰ってきていいんだからね。ここはあんたの家なんだから」
「うん、わかってる。したっけ行ってくるね、母さん」
今、母さんはどんな顔をしてるんだろう? 背を向ける瞬間、目が潤んでいた気がしたのは、私の願望によるものかもしれない。
荷物を積み終えた父さんに出発を促され、軽トラの助手席によじ登るようにして座る。
見送りは拓一人で、母さんはもう家から出てこなかった。
「じっちゃんさ、よろしく言っといてね! オレも今度遊びに行くから」
拓は母さんにそっくりで、私は父さん似。拓の笑顔を見ると何だかホッとするんだ。
「したっけね~! 行ってくるから」
開きっぱなしの玄関の奥にまで届くように、大きな声で拓に声をかけて手を振る。
行ってきます、母さん、元気でね。
いつまでも見送ってるような拓が、海岸沿いの道に出るカーブで見えなくなると、寂しさがこみ上げる。
同じ市内に住んではいても、少しだけ距離があるからだ。
私の家は浜沿いで、そしてこれから住むじっちゃんの家も海の近く。
湯川にある私の家から少し歩くと、海辺の道・漁火通りに突き当たる。海を左手に見て通りを一直線にずーっと歩き、一番大きな交差点を右に曲がり駅前に出たら左に。十字街をどつく方面に向かい、左手にある坂道の途中にじっちゃんの家がある。
車なら混んでいなければ二十分で着く距離だけれど、徒歩なら二時間くらいかかるかも。
普段一人でじっちゃんの家に行く時や、その近くにある高校に通う時には市内を走る路面電車、通称『市電』を使っている。ただ市電は街中の方を走ってしまうから、海沿いの、このいい景色を見られないのは残念だ。
軽トラの助手席から海を眺める。気温は低いけれど陽ざしがあるから、海面が輝いて一気に春の海になったみたいだった。
じっちゃんの古くて小さなピンク色の木の家は、観光で有名な大きな坂の近くにある。ゴールデンウィークなんかは車が走れないほどの観光客で溢れかえっている元町地区だ。
温泉街である湯川の実家の方にも観光客がたくさん来るけれど、元町はその比ではない。
教会や観光スポットがたくさんあって、ノスタルジックでフォトジェニックな街並み、とガイドブックに書かれているせいかも。
元漁師だったじっちゃんは、年金暮らしをしつつ時々朝市でバイトをしていて、今朝も仕事をしてたんだから、きっと眠いはず。
「リツ、腹減ってねえか? イカ飯炊いてあっから後で食え」
なのに、いつものように優しい笑顔を覗かせて、私が来るのを待っていてくれた。
「父さん、リツの部屋二階でいいかい?」
「うん、掃除しといたから」
じっちゃんと父さんのやり取りを聞き、段ボールを持ち上げて二階へと運ぶ。
「じっちゃんはいいからね。腰悪いんだから座ってて」
手伝おうとしてくれたじっちゃんの気持ちだけ受け取って、これから二年は自室となる部屋へと荷物を運び入れる。
二階にある屋根裏のような部屋。屋根が急勾配で天井高もあるせいか、六畳よりも広く感じる部屋には、窓が一つしかないため少し薄暗い。
大正レトロ風な両開き窓は海側を向いている。ガタついてはいるけれど、ちゃんと開くみたい。
段ボールを端に置き、窓を開けると冷たい潮風がぶわっと入り込んできた。
「リツ、机運ぶどー!」
「はーい!」
階下の父さんの声に、また動き出す。その日一日で何度階段を往復しただろうか。机とベッドは重たくて、父さんも私も終わる頃にはクタクタになっていた。
あんなに疲れたというのに、その夜はどうしても眠れなかった。部屋の壁にかけた時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
実家は漁港に近いため、毎夜潮騒が聞こえ、時期になればイカ釣り漁船のドッドッドッというエンジン音までが真夜中に響く。
その音で目覚める時は、うるさいなあと頭から布団を被って、そのうち、眠りの呼吸がエンジン音のリズムに合ってくる。気付けば朝が来てまた波の音で目覚めていた。
じっちゃんの家は、それに比べて静かすぎる。環境が変わったせいで、全く眠ることができず、静けさに目が冴えてしまった。
ベッドから起き上がりスマホを見たら午前二時だ。四時になればじっちゃんが起きて仕事に出かけていく時間となる。
素足では歩けないほどの床の冷たさに足がすくみ、持ってきていたスリッパを慌てて履いた。それからベッドの上に置いていた、もこもこのロングカーディガンに袖を通して、窓際に置いた机の前に立つ。
机の上のネコ型電気スタンドのスイッチを入れたら、部屋全体がぼんやりとオレンジ色に染まる。
これは、去年私の誕生日に「可愛いでしょ」と母さんが買ってくれたもの。電気スタンドが欲しい、私がそう言っていたからだけど、思っていたのとは違った。これはこれで可愛いのだけれど勉強するには少し暗すぎるのだ。
カーテンを開けたら、冷たく澄んだ空気で遠くに見える函館駅裏辺りの明かりが一際輝いている。実家の窓から見えたのは、隣の家の栗の木だけ。景色はじっちゃんの家の方が断然いい。
しばらくそうして眺めていると、ひんやりとした外気が窓辺から広がり、慌ててファンヒーターを点けた。
眠れない夜には、出す宛てのない手紙を綴る。右の引き出しにたくさん入っている便箋をビリッと一枚破いて、ひたすら綴るのだ。
いつもは書き終えたそれを誰にも見られないように、小さく小さく畳んでティッシュに包んで捨てていた。
だけど今日は違った。
一枚書くごとに涙が溢れて、二枚目を書いた。それでもやっぱり涙が止まらなくて三枚目に手を伸ばす。
その内じっちゃんが起きて、迎えに来た車で出かけていく音が聞こえて。新聞配達のバイクの音や、魚の移動販売のスピーカーから響く声が近づき遠ざかり、空が少しずつ白んできた頃。
ようやく、五枚に亘った便箋を折り畳む。封筒に入れて裏には自分の名前を書いた。宛名はない。
眠れぬまま朝を迎えてしまった。
じっちゃんの「ただいま」の声に階下に降り、朝市で貰ってきたヤリイカを捌き、まだ透明な身を刺身にし、すりおろした生姜を載せる。
わかめとじゃがいもの味噌汁。それと冷蔵庫にあったトマトを切り、昨日母さんが持たせてくれた千枚漬けをちゃぶ台に並べ、じっちゃんと向かい合わせで座り「いただきます」と手を合わせる。
「リツの作った味噌汁、じっちゃん初めて食うけどよ? なまら、うまいなあ。いい出汁だ」
「煮干し、使ったんだよ。あったからさ」
「理香子さんの味さ、そっくりだな。うめえなあ」
理香子さんとは、私の母さん。じっちゃんは母さんの漬物や料理が大好きだ。
「ばっちゃんにも用意したんだべ? リツの味噌汁飲めるなんて、ばっちゃんも喜んでるべなあ」
隣の開けっ放しにしてある和室の奥に仏壇がある。じっちゃんがご飯をお供えしているのを真似して、今朝は私がお供えした。
二年前に眠ったまま亡くなったばっちゃんとご先祖様に、お祈りをしながら謝ったのは誰にも内緒だ。茶の間から見えるばっちゃんの写真は、そんな私を見て怒っているような顔をしている気がして、直視できない。
「じっちゃん、ご飯食べたら寝るの?」
「んだな、十四時くらいまで寝るかも」
「ちょっと出かけるからさ、おにぎり作って置いておくわ。起きたら食べてね」
「リツ」
「うん?」
「じっちゃんは、まだ自分のことは自分でできるからさ。リツはじっちゃんに気を遣わないで好きなことしなさい。じっちゃんも自分で食いたい時に食いたいもの作るから、な?」
じっちゃんの優しさに触れたら、折角とめた涙がまた出てきそうだ。
うん、とだけ頷いたら、ご飯を食べながらじっちゃんはアクビをした。朝早かったもんね、眠いに決まってる。
「じっちゃん。今日は寒いからさ、ちゃんと布団に入って休むんだよ」
わかった、わかった、と微笑んだ目尻に皺が寄るその顔に、父さんの面影が浮かぶ。
親子だもんね、よく似ている。
うめえなあ、とまた味噌汁をすするじっちゃんにも心の中で謝った。
結局じっちゃんは、私が出かけるまで起きていて「暗くなる前に帰ってこい」と見送ってくれた。
広い玄関の土間に置いてある真新しい赤い自転車は、通学用。先日父さんと一緒に買いに行ったもの。
自転車で出かけようかとも思ったけれど、まだ道路脇にある根雪が怖い。滑ったら思いきり転けるだろう。
――痛いのは、嫌だ。
選んだのはバスでの移動。じっちゃんの家から坂を一つ下ったところにあるバス停に向かう。
二十分待ってやってきた平日の昼間のバスは、大して混んでおらず簡単に座れた。
観光地を走るバスの一番後ろの席に座り、ゆっくり流れていく景色をぼんやりと見つめる。
遠くに見えた海は、昨日とは打って変わって、灰色の冬の海。強い風に煽られ、沖には白波が高く上がっている。
寒そうだな、なんて他人事みたいに思う自分は、まだ覚悟が足りていないのかもしれない。
車内に目を向けたら、乗客はいつの間にか私だけ。
終点でバスを降り、少し歩くと道が二手に分かれていた。一本は真っすぐに延び、もう一本は下りの砂利道。私は迷わずに砂利道に足を踏み入れた。
坂の下から、潮の匂いが立ち込めてくる。
強い風に背中を押されて転ばないように、一歩一歩踏みしめながら辿り着いたのは、シーズンオフの人気のない海水浴場だ。
本当にここで泳げるのだろうかというほどの磯浜で、大きなゴツゴツとした石が並ぶ。民家もほとんどなく、観光客がいない今の時期は、本当に寂しい場所だ。
私自身もここで泳いだことはないけれど、記憶の中、見覚えのある景色に足を踏ん張った。
ああ、やっぱり、ここだと思う。
あの時も確か季節外れで、寒くて、確か母さんと二人だったような。
痛いくらいにギュッと私の手を握りしめた母さんの顔。下から見上げたらとっても怖かった。泣きながら海を睨んでいた母さんの顔が怖くて、どうしたらいいのかわからなくて、それから……どうしたっけ?
あやふやな記憶だけど、あの日見た海も今日のように灰色で大荒れだった気がする。
遠い記憶を探りながら沖を眺めた後、ポケットの中にある、今朝方の手紙を確かめるように握りしめた。
沖からの一際強い潮風に、不安定な石の上で身体を持って行かれそうになり、バランスを取ろうとしゃがみこむ。
とっさに隣の石に掴まって、その冷たさにヒャッと声が出た。指先が凍てつくようにかじかむ。個人的体感温度は五度くらい。
その寒さに、どんどん揺らぎ始める決心。
もう少し天気のいい日でもいいんじゃないだろうか?
今日は曇天で寒すぎるし、もしかしたらまた季節外れの雪でも降るのかもしれない。
臆病な自分の心が、決行しなくてもいい理由を情けなくも探し始めてしまった。
でも何も変わらないよ? どうせ変える勇気もないでしょ。
このままでいいのなら、何食わぬ顔でじっちゃんの家に帰ればいいんだよ?
だけど、それでいいの? また繰り返すよ?
少しだけ自問自答して、もう一度自分を追い詰める。
もう少し天気のいい日なら、近所の人も散歩に訪れるかもしれないよ。暖かくなれば観光客の姿も見えるかもしれないよ。
やっぱり今日でしょ? 今日しかないと思う……。
よし、と気合を入れ直し、ブーツと靴下を脱ぐ。コートも脱いで、もう一度持ち物を確認する。
荷物はICカード、小銭入れ、スマホ、そして手紙。それを全部コートのポケットにしまいこんでから、ブーツの横に畳んでおく。万が一にも飛んでいってしまわないように、コートの上には丸い大きめの石を重しにした。
ニットのワンピースの下に穿いていたレギンスを、膝まで捲り上げてから。
捲る必要あるかな? と考えた。
どうせ全部濡れちゃうのにね、と自分の矛盾に自虐的な笑いがこみ上げてくる。
裸足で踏みしめるゴロゴロとした石の痛さよりも冷たさに身が縮み、歩みが鈍る。
だけど、一歩一歩思いを踏みしめながら海へと向かう。
ねえ、母さん、何で私を産んだの?
どうして拓のことは可愛がるのに、私にだけは辛くあたるの?
『理香子の理の字を取って、理都につけたのよ』
母さんが赤ちゃんだった私を抱っこしている写真を見て、懐かしそうに微笑み『リツはとっても可愛かったのよ』って教えてくれた。
そんな時もあったんだよね? 私のこと、可愛いって思ってくれてたこともあったんだよね?
脳裏に過るのは、母との葛藤ばかりだ。何が母の機嫌を損ねるのか、わからないから困る。
テストの成績が、拓よりも私の方がいいと母は途端に不機嫌になった。
お弁当の日に見えたのは、赤と青の二つ並んだ弁当箱の中身。青い弁当箱にだけザンギが入っていて、卵焼きの形がキレイだった。
羨ましいな、と私の目がそう言ってしまってたんだろう。
『何なの!? 拓は男の子なんだから、あんたより食べるんだもの。文句があんなら今度から自分で作ればいいでしょや』
子供のように唐突に怒り出し、悔しそうに泣く母に私はいつも困惑していた。
ねえ母さん、私はそんなに嫌な子だったかな?
あの前日は洗濯物の干し方を私が変えてみたことがきっかけだった。
一度濡れたまま畳んでから干したら皺が伸びるってテレビで見て、試しにそうして干したのを、『ほら、見て! 母さん、キレイじゃない?』と嬉しくて結果を報告したのがダメだった。
『母さんのやり方が気に入らないってかい! 嫌味ったらしいってば! 本当にあんたは誰に似たんだか、可愛げのない!!』
そうしてまた母さんは、私に向かって吐いた言葉にハッとして、泣き出した。
私は誰に似たんだろう? 顔は父さんによく似ていると言われるけれど。
私も拓のように母さんに似ていたらよかった。そうしたら、母さんはもう少しだけ……。
波打ち際でも海の底が見えないほど、激しい波で泡立ち濁っている。
海藻の少なめな、滑らなそうな石を選んで、冷たい海の中に、恐る恐る右足だけつま先を入れた。
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